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生きていく限り、他者との対話は続く。だからこそ「私はまず、私自身と対話する」|連載「本当は何を望んでるの?」

  • 2025.11.29

「人は、一人では生きていけない」

人生を生きていく上で、誰でも一度は耳にする言葉ではないだろうか。とてもシンプルな言葉だが、私はこれまでに直面してきたあらゆる場面で、時折この言葉を思い出しては、この言葉が示している事実を思い知り、時間が経っては忘れ、また立ち返るということを繰り返してきた。

私たちは、人生において度々、自分一人ではどうしようもない状況に立たされることがある。それは抱えきれない精神的な苦しみであったり、逃げ場のない生活の困難であったり、一晩だけふくれあがった、訳もわからない寂しさかもしれない。

本当は、何気ない日常においても、誰かに支えられながら生きている事実は変わらないのに、ふと「自分」という意識から抜け出せなくなった時に差し伸べられていた手を目にしてはじめて誰かの存在に励まされ、癒され「私は決して一人で生きているわけでも、生きていけるわけでもないのだ」と、改めて感謝と内省の気持ち、そして束の間の安心を抱くことができる。

これは私だけだろうか。

似たようなことに心当たりがある人は、少なくないのではないだろうか。

しかし、それと同時に、自分以外の人間はどこまでも「他人」だ。自分以外の存在を「他人」という言葉だけに押し込めてしまうのは気が引けてしまうし、悲しい気もする。けれど事実、血縁関係にあっても、以心伝心で通じ合うほどにどんな親密な関係にあっても、私たちはどんな条件下においても別々の人間で、個別の意識があり、それぞれの身体を持ち、別々の人生を生きている。

他人だから、いつも本当のことは分からない。自分のことを望んだかたちで理解して貰えているのか不安になる。だからこそ私たちは、さまざまな手段を用いて自分を説明したり、他人を理解しようと試み続けている。

それのみならず、どんなことにおいても「意味」や「結果」が求められ、最終的に自分が定めた目的通りにいくことこそが「成功」や「幸せ」かのように思わされがちな現代において、都合よく他人を所有しようとしたり、監視したり、コントロールしようとする/されることも、さまざまなかたちで行われ、コントロールできないが故のもどかしさや不安を埋めるたり、正当化するための、「他者の心を操作できる」と謳う情報やテクニックが日ごとにアップデートされ続けている。

しかし、「他人同士」である限り、その不安や、思い通りにいかないもどかしさは、あって然るべきだということを、私たちは本当は分かっている。そして、本当のところを理解し得ない前提の上に生きているからこそ「できる限り理解しよう」と、尊重し合えている事実を感じる時、喜びや安心を見出すことができるのだということも。

それでも、わかってはいても。何度繰り返しても。日々の暮らしの中で関わる、多くの「他人」と「自分」のあいだに、明確な線を引くことが時にとても難しいことも、また事実だ。

心理学の分野に、「バウンダリー」という言葉がある。バウンダリーとは、“自分と他者を区別する心の境界線”のことで、言い換えれば、自分の“心と身体を安心に保つための輪郭”のようなものだが、思い返すと私は、これまで誰かと親交を深めていく上で、意識的にバウンダリーを引くことができていなかったように思う。

少し前、バウンダリーについて考えるという趣旨のイベントに参加する機会があった。「バウンダリー」「境界線」という単語やエピソードが繰り返し飛び交う空間の中で、これまで私が他人との間に本来あるはずの境界線が曖昧であったが故に、不用意に傷ついたり、相手に感じさせなくてよかったはずの気持ちにさせてしまったように思えたことが、蘇るようにいくつも思い出された。

さまざまな価値観、あらゆる知見から学びを得ようという姿勢を持ちながらも、本来の私はかなりロマンチックな感性の持ち主で、心の動きが学術的に紐解かれる心理学や、さまざまな知見に基づいて恋愛や人間関係を捉え直すことを無意識に嫌っていたように思う。特に、こと恋愛においては、相手の容姿や持ち合わせている感性、声色や言葉の使い方、ひとつひとつの仕草を「自分の感覚のみ」に任せて理解することで好感を持ち、憧れを投影し、どこか衝動的でドラマチックな感情に身を任せることの方が圧倒的に多かった。

交わした言葉、距離感の推しはかり、言葉にし難い目配せ、ロマンチックな雰囲気。互いに何も確認し合わず、なんの裏付けもないのに感じる一体感に、いつからか自分の中にある空白が満ち足りたような気持ちになり、その結果すれ違って、不用意に傷ついたり、相手に不信感や侵入感を抱かせてしまうことが、少なからずあった。

こんな風に簡単に振り返ると、自分自身が境界線を曖昧にしてきたこと“だけ”が諸悪の根源だったかのように、深い後悔が渦を巻いて私に襲いかかってきそうになる。けれど、この一連の私の懺悔(?)を読んで、チクリと心に何か思い当たる人がいたら、安心してほしい。

バウンダリーを引けなかったことでうまくいかなかった関係は、決してどちらかだけに問題があるわけではない。…そう。そう一息ついて、自分を落ち着かせる。

そもそもに立ち返ると、「自分が心地悪いと感じることに対して、必ず線を引く」と、いくら学んだところで、「自分は大切にされるべき存在で、自分のことを大切にしよう」と、身体と心の両面で理解していないと、それは、穴の空いたコップに、ひたすら水を入れているようなものだ。

まずは、その穴を塞がないことには、どんなに知識を蓄えようと試みても、コップが満たされることはない。バウンダリーという意識のあり方は、あらゆる人間関係を解決するために必要だと思いながらも、根本の自分への眼差しが解決されないままでは、自分のためにそれを実行するということは、あまりに難しい。

まずは、自分が何を「心地よい/悪いと感じるか」を知ること。先に自分がそう努めたその上ですれ違いが起きたら、勝手に抱え込まず、自分の境界線を相手に伝えること。境界線は、他者と共有されたときにはじめて「実在」する。境界を引けていない人も、境界を自分で理解している人も。境界線は、他者と共有することで、初めて意味を持つものなのだ。

自分自身の心と身体の所有感を強め、自分の心がいちばん心地よくいられる場所を探し、自分の外に線を引きながら歩き始めてみること。そこにこそ、安心感のある「他人」との関係も、世界も立ち上がっていく。そんな世界観の中に生き続けられたら、きっと他者への感謝も忘れることはないだろう。

私たちは、決して一人では生きていけない。それでも、自分の人生を、他人との関係や、他人からの評価に委ねることから逆算するのでなく、まずは自分自身と対話し、自分自身の望みを日々知りながら、境界線を引いたその先にこそ、他者と健やかに共に歩ける道がひらき、安住の日々が築かれていくのだ。

濠うか

社会の境界を歩んできた自らの体験を糧に、執筆・展示・メディア出演、場づくりなどジャンル横断的な活動を行っている。

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