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久々に「仙ちゃん」と呼んだのは「お骨」になったとき。親友・田淵幸一が語る星野仙一の“素顔”と“打倒ジャイアンツ”の誓い

  • 2025.11.29

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。昭和、平成を代表する野球人である一方、優しさと厳しさ、飴と鞭を巧みに使い分けた人心掌握術は、現在の観点から見れば、行きすぎた「根性野球」「精神野球」といった側面がクローズアップされたり、選手たちへの鉄拳制裁が問題視されたりすることもある。

一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。連載第3回は、大学時代からの盟友にして親友の田淵幸一に話を聞いた。【田淵幸一インタビュー全2回の1回目/第2回へ続く】

今でも飾られている星野との抱擁写真パネル

インタビューは田淵幸一の自宅リビングで行われた。部屋に入ってすぐに目についたのが、田淵と星野仙一が熱い抱擁を交わしている大きな写真パネルだった。両者はともに阪神タイガースのユニフォームを着ている。2003(平成15)年、セ・リーグ優勝時に撮影されたものだ。

「あのパネルは日テレ(日本テレビ)からもらったんだよ。忘れもしない、2003年9月15日。親父の命日に優勝できたんだ。赤星(憲広)がサヨナラヒットを放ってさ。苦しみ1万時間、楽しみ3分。そんな感じだったよね。このパネルだけじゃないよ。ほら、あの写真もそうだよ」

田淵が指し示した先には、明治大学時代の星野と、法政大学時代の田淵がユニフォーム姿で並んでいる写真があった。

「あれは、明治神宮大会の記念試合で選抜チームを組むことになって、初めて星野とバッテリーを組んだときのもの。やっぱり、友だちだから、いや、親友だから、一緒に撮っている写真も多いし、見えるところに飾っておきたいよね」

大学時代から気が合う間柄だった二人は、ともに1968(昭和43)年のドラフト1位で、星野は中日ドラゴンズへ、田淵は阪神タイガースへ入団。この年、田淵は見事に新人王に輝いた。以来、ライバルとしてセ・リーグを盛り上げた。現役引退後は、タイガース、そして東北楽天ゴールデンイーグルス、さらには北京オリンピック日本代表チームで、いずれも「監督とコーチ」として星野に仕え、苦楽をともにした。

「ひと言で言えば、《親友》だよね。大学の頃から始まって、ずっと《仙ちゃん》《ブチ》と呼び合う間柄だったから。でも、彼が監督になってから、オレは《仙ちゃん》と呼ぶことをやめて、《監督》と呼ぶように意識した。なぜかそれ以来、ユニフォームを脱いでからもずっと《監督》と呼んでいたな。久々に《仙ちゃん》と呼んだのは、彼が亡くなってお骨になったとき。お骨に向かって、二十数年ぶりに《仙ちゃん》って呼んだんだ……」

公私にわたって星野と深い関係にあり、ともにそれぞれのことを「親友だ」と公言していた。田淵から見た星野とは、一体、どんな人物だったのか?

「巨人はオレたちの敵だ」という反骨心

68年のドラフト会議直前、星野と田淵は、いずれも読売ジャイアンツ入りを希望していた。しかし、指名順の早いタイガースが巨人に先んじて田淵を指名する。現在のように、重複指名によるくじ引きのなかった時代である。

「僕はドラフト前に、赤坂の料亭で川上(哲治)監督にも内緒で会っていたし、“背番号《2》を用意している”と言われていたから、巨人に入るものだとばかり思っていた。後で聞いたら、星野のところにも巨人はあいさつに行っていたという。だけど、お互いにジャイアンツに入ることができなかった」

星野もまた、意中の球団に入ることはできなかった。巨人と星野との間には、「田淵を1位指名できなかった場合に外れ1位として指名する」との密約が事前にあったという報道もある。ドラフト直後、田淵は星野と会い、プロでの成功を誓い合った。

「ドラフト後、星野と会ったときに、彼はものすごく怒っていたよ。そのときハッキリ言っていたよ、“巨人はオレたちの敵だ”って。そして、“あのYGマークを見たら、燃えてくる”って。だからアイツは、“絶対に巨人をやっつけてやる”って公言していたし、僕もそうだった。その思いがあったから、お互いにプロで頑張ることができたんじゃないのかな?」

こうして、星野も田淵も、「打倒ジャイアンツ」の思いを胸に秘め、プロでの成功を収めた。ドラフト直後の誓いからかなりの時間が流れた後、星野は田淵に言った。

「ブチ、お前、巨人に行かなくてよかったな。当時のジャイアンツには、森(昌彦/現・祇晶)さんがいただろ。お前は潰されていたよ。そして、王(貞治)さん、長嶋(茂雄)さんも決して超えることはできない。お前が《ミスタータイガース》として、今でもみんなから愛されているのは阪神に行ったからだぞ」

星野の言葉は、まさに正鵠を射るものだった。「打倒ジャイアンツ」の思いがあったからこそ、そして、タイガースに入団したからこそ、田淵はスター選手として不動の地位を確立することができた。そして、それは星野もまた「ドラゴンズに入団したからこそ」だった。

「ブチ、やるぞ!」という星野からの誘いの言葉

現役引退後、両者はそれぞれ指揮官となった。星野は87年から古巣で指揮を執り、田淵は南海ホークスから生まれ変わって2年目となる90年から、福岡ダイエーホークス監督に就任する。当時のホークスは長期低迷時代にあり、新指揮官は苦戦を強いられていた。

「当時のダイエーは、本当に戦力が手薄でね。特にピッチャーがいなかった。それで、星野に電話を入れて、“ピッチャーがいないから、誰かくれよ”って、泣いて頼んだんだよ。ダメ元だよ、泣きのトレードだよ。そうしたら、星野が提供してくれたのが杉本(正)。彼とは西武ライオンズ時代にチームメイトだったからね」

監督時代、そして退任後も両者の交友は続いた。そんな二人が、初めて同じユニフォームを着るときが訪れる。01年オフ、ドラゴンズの監督を辞したばかりの星野が、同一リーグであるタイガースの監督となることが決まった。田淵が述懐する。

「この年のオフ、名古屋でゴルフ大会があったんだよね。オレと星野と(山本)浩二が集まる大会。ゴルフ場に到着すると、星野のマネージャーが、“田淵さん、ちょっと……”とオレを呼ぶから応接室に行ってみると、いきなり、“ブチ、やるぞ!”って言うんだよ。天気も良かったから、“さぁ、今日もゴルフを楽しもう”って意味だと思うでしょ?」

星野の表情は硬い。何の前置きもなく、田淵にひと言だけ告げる。

「一緒に縦縞のユニフォームを着ようや」

田淵の述懐は続く。

「いきなり、“縦縞のユニフォームを着ようや”と言われたから、オレも驚いて、“えっ、阪神?”って聞いちゃったよ。すると、星野が“そうや”って言うから、オレもその場で“わかった”とひと言。契約年数も、契約金も、細かいことは何も聞かなかった」

この時点で、すでに田淵には「死なばもろとも」「一蓮托生」という思いが芽生えていたという。改めて、当時の心境を振り返る。

「そこに何も理屈はないよ。違和感もない。そこにあったのは、“一緒にやってみたい”という思いだけだった。実はそれ以前に、村山(実)さんが監督になるときにコーチの打診を受けたことがあるんだけど、そのときは断った。でも、星野からの誘いは断れなかった」

かつて、ホークスの監督を務めた経験を持つ田淵に対して、「監督経験者がコーチでいいのか?」とか、「OBである田淵がコーチで、どうして外様の星野が監督なんだ?」という球団関係者やファンの声が、田淵の耳にも入ってきたという。それでも、まったく意に介すことはなかった。

「外野の声は何も関係ないから。星野はすでに監督としての実績もあったし、オレは監督には向いていない。それに、彼とは長年の友だちでもあった。アイツに呼ばれたのなら、オレはとことんついていく。そんな思いで、古巣・タイガースのユニフォームを着ることを決めたんだ」

まさに、「美しき友情譚」である。しかし、この強固な信頼関係が、後に「お友だち内閣」という批判を浴びることになる。田淵と星野の物語はさらに続く——。

後編に続く)

Profile/田淵幸一(たぶち・こういち)
1946年9月24日生まれ、東京都出身。法政大学第一高校から法政大学を経て、68年ドラフト1位で阪神タイガース入団。大学時代には東京六大学野球のリーグ記録となる通算22本塁打を放つ。プロ1年目から正捕手に抜擢され、22本塁打で新人王に輝き、75年にはホームラン王も獲得。78年オフ、西武ライオンズに移籍すると、82年、83年のリーグ優勝、日本一に貢献。84年シーズン終了後に引退。90年からはダイエーホークス監督に就任。2002年には星野に請われ、古巣・タイガースの打撃コーチに。07年には、星野監督の下、北京五輪日本代表のヘッド兼打撃コーチ、11年からは星野とともに東北楽天ゴールデンイーグルスへ。2020年に野球殿堂入り。星野とは東京六大学時代からの親友であり、盟友である。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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