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「嫌いな人こそ笑顔で接しろ」盟友・田淵幸一も驚いた星野仙一流“ジジイ殺し”テクニックと飴と鞭の“人心掌握術”

  • 2025.11.29

現役時代には「燃える男」と称され、監督時代には「闘将」と呼ばれた星野仙一が天に召されてすでに7年が経過した。一体、星野仙一とはどんな人物だったのか? 彼が球界に遺したものとは何だったのか? 彼の実像を探るべく、生前の彼をよく知る者たちを訪ね歩くことにした。彼らの口から語られる「星野像」は、パブリックイメージ通りである一方で、それとは異なる意外な一面もあった。「星野仙一」のリアルに迫りたい——。【田淵幸一インタビュー全2回の2回目/第1回を読む】

面従腹背、嫌いな人物こそ笑顔で接しろ

「アイツとは長いつき合いだけど、阪神時代が最も密な関係だったな。あの頃は365日のうち、会わない日はほとんどなかったから」

星野仙一のことを「アイツ」と呼ぶのは、大学時代からの親友である田淵幸一だ。2002(平成14)年、星野は阪神タイガース監督に就任する。このとき、田淵に対して開口一番、「ブチ、やるぞ!」と口説いたことはインタビュー前編で詳述した。

「キャンプ前のミーティングから、春季キャンプ、オープン戦を経て、ペナントレースが始まる。シーズン中はベンチ内だけでなく、遠征先のホテルでもずっと一緒。そして、シーズン終了後にはまたミーティングをして、オフには一緒にゴルフをしたり、パーティーに出たり。アイツが東京に出てくると、各界の有名人がワーッと集まってくる。顔が広かったし、交友関係も多彩だった。まさに政治家向きのタイプだよね」

本連載において、東京六大学時代から対戦をしていた江本孟紀も、明治大学の1学年先輩である高田繫も、いずれも星野のことを「政治家タイプだ」と評していた。そして、同い年の親友である田淵もまた同じことを口にした。

「とにかくジジイ殺しだよね。政治家の先生、会社の社長など、オジサンの求めているものをちゃんと理解し、身のほどをわきまえた会話をしている。よく、“星野は怖い”と言われるけど、全然、怖くない。時と場所に応じて立ち居振る舞いを使い分けることができるし、選手たちに対しても飴と鞭を上手に使い分けていたからね」

江本も、高田も「飴と鞭」という言葉を使っていたことが思い出される。星野を評するとき、彼をよく知る者たちはみな、「政治家タイプ」、そして「飴と鞭」と口にする。田淵はさらに続ける。

「オレ、星野に怒られたことがある。彼と一緒にいろいろなところに行くでしょ。そこに苦手な人、嫌いな人がいる。星野は楽しそうにしゃべっていたけど、オレはそいつとは一切しゃべらなかった。彼だって、本心ではそいつのことを嫌いなんだよ。だから、後で“何であんなに楽しそうに話すことができるんだよ?”って聞いたら、星野は“これはビジネスなんだ”って言うんだ。“どんなに嫌いなヤツでも、顔に出したらダメだ”って叱られたよ」

面従腹背。たとえ嫌いな人物であっても、それを表に出すことは決して得策ではない。星野の言葉を借りれば「ビジネス」である以上、本心をそのまま表明することは避けたほうがいい。むしろ、嫌いな人物こそ、笑顔で接したほうがいい。星野の哲学であった。

北京五輪で見せた温情采配が裏目に

続いて、田淵は重要な指摘をする。

「星野は年上、年長者とのつき合いは抜群にうまかった。でもその反面、年下、後輩とのつき合いはなかった。みんな怖くて近寄れないから。それでも、彼の懐に飛び込んでくるヤツがいれば大したものだけど、そんなヤツは見たことも、聞いたこともなかったな」

この発言にこそ、星野の交友関係の大きな特徴が潜んでいる。さらに田淵は「飴と鞭」という言葉を口にして、星野の「鉄拳制裁」について言及する。

「よく、“選手に鉄拳制裁をする監督だ”とか、“モノに当たる、粗暴だ”という批判があるけど、あれは全部パフォーマンスだから。オレたちはみんなそれを知っている。だけど、星野の本質を知らない人は、“うわっ”と抵抗感を示すんだよね。例えば、失敗した選手がいるとしますよね。でも、星野は必ず使い続ける。決して間を開けずに必ず起用する。飴と鞭じゃないけど、その根底には選手たちへの愛があったのは間違いないから」

ミスをした選手の奮起を促すべく、星野はすぐに汚名返上の機会を与える。決して、これ見よがしな懲罰交代はしない。これも、指揮官である星野を論ずるときにしばしば耳にする言説だ。その結果、意気に感じた選手たちは奮起し、早々にミスを取り返すと同時に、起用してくれた星野への感謝の念が強くなる。それが、星野による「飴」である。

しかし、「飴」がうまく機能しないこともあった。その象徴的なシーンこそ、08年北京オリンピックでのGG佐藤(以下、GG)の起用である。このとき田淵はヘッド兼打撃コーチとして、北京の地に降り立っていた。星野率いる日本代表は、アジア予選を全勝で本戦に出場したものの、予選ラウンドは4勝3敗で4位となる。そして、メダル獲得をかけた準決勝の韓国戦、さらに韓国に敗れて臨んだ翌日の3位決定戦となるアメリカ戦。いずれも、GGはスタメン出場を果たし、いずれも、彼のエラーで日本は敗れた。田淵が述懐する。

「あのとき、外野陣が手薄だった。聞くところによるとGGはドライアイでデーゲームではボールが見づらかったらしい。もともと、彼はキャッチャーでしょう。オレも経験があるけど、キャッチャーが外野を守ると、ボールが揺れて見えて捕球しづらいんだよね。だから、監督には、“GGはやめましょう”って言ったんだけど、星野はどうしてもGGの起用にこだわったんだよね」

北京における温情采配は、GGだけでなかった。予選で二度、救援に失敗していた中日ドラゴンズ・岩瀬仁紀を準決勝でも起用し、その彼が決勝点を奪われ、日本は敗退していた。田淵は振り返る。

「後に明らかになったのは、北京での岩瀬は、現地に着いてから下痢に苦しんでいて本調子じゃなかった。本来であれば、ピッチングコーチの大野(豊)が監督にきちんと伝えるべきだったんだけど、それができていなかった。それも大きな敗因の一つだったな」

このとき、監督の星野を筆頭に田淵がヘッド兼打撃コーチ、山本浩二が守備走塁コーチを務めていた。三人は大学時代からの親友であり、公私にわたって密接な交流を続けていた。球界を代表するスラッガーだった山本を守備走塁担当として抜擢したことは、はたして正しかったのか? 世間からは「お友だち内閣」という批判の目が向けられることになった。

「オレ自身は、決して《お友だち内閣》だとは思っていなかったし、公私を分けるために、《仙ちゃん》ではなく、《監督》と言うように意識していたけど、浩二は普段通りに星野のことを《仙》と呼んでいた。やっぱり、他人から見れば、それは《お友だち内閣》と言われても仕方なかったと思うな」

田淵は、しみじみと反省の弁を口にした。

まるで、富士山のような存在感を誇った男

2011年、星野は東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任する。このときもまた、田淵のもとに連絡が入り、「ブチ、行くぞ!」とひと言だけ告げたという。

「で、オレが“どこに?”って尋ねると、星野は“楽天や”って言った。オレは“ノー”とは言わないから、このときも楽天にお世話になることを決めたけど、結局は2年でチームを去ることになったんだけどね」

チーム全体が極度の打撃不振に陥り、就任初年度の6月には打撃コーチ職を解かれ、ヘッドコーチ専任となった。翌12年もヘッドコーチを務めたが、この年のシーズン終了後、田淵はチームを去った。そして13年には田中将大の大活躍もあって、イーグルスはパ・リーグ、そして日本シリーズを制した。星野にとって、監督人生初となる日本一だった。

「その後、お互いにユニフォームを脱いでからは、その距離はもっと縮まったよ。ゴルフに行ったり、食事に行ったりね。彼は人気者だから、いろいろなところに呼ばれるので、オレもよく同席させてもらってね。でも、いつの頃からかな、“背中が痛い”とか、“腰が痛い”とか口にする機会が増えてきたんだよね」

星野の身体を病魔がむしばんでいた。けれども、彼はそれをひた隠しにしていたという。そして18年1月4日、星野は天に召された。しみじみとした口調で田淵は言う。

「もっと長生きしてほしかったよ。亡くなってからも忘れたことはないよ。ああやって写真を飾っているから、いつも彼の姿を目にしているから。もしも今も生きていたら、ゆくゆくはコミッショナーにでもなっていたんじゃないかな? 人を動かすのが好きだったから、きっと向いていたと思いますよ。彼は政財界、皇室、警察、あらゆる人脈を誇っていたから」

本連載に登場した江本孟紀高田繫、そして田淵が口にしていた「政治家タイプだ」という発言について尋ねると、田淵の口元から白い歯がこぼれた。

「オレ、彼に言ったことがありますよ。“お前、政治家になれよ”って。で、“そうしたら、オレが会計係になるから”って言うと、“お前はごまかしそうだからダメだ”って笑っていたよ。でも、そもそも彼は政治家なんか目指していなかったけどね」

生前の星野は、色紙を頼まれると「夢」としたためていた。星野の夢は何だったのか? 田淵に問う。しばらく考えた後、こんな言葉を口にした。

「星野の夢は、野球で日本一になること。トップに立つことですよ。監督として、中日、阪神では日本一になれなかった。オリンピックでも敗れた。だから、楽天で日本一になれたことは本当に嬉しかったはず。夢をかなえて亡くなったんじゃないのかな?」

これまで取材した人々同様、「星野仙一という人物をひと言で表すとしたら?」と最後に尋ねる。少しだけ考えた後に、笑顔で田淵は言った。

「例えるならば、《富士山》だな。みんなから愛され、みんなから好かれ、みんなから注目されるはるか彼方にそびえる存在。オレにとって、仙ちゃんは富士山のような人だったよ」

それは、学生時代からの親友ならではの温かい発言だった。

田淵幸一が考える星野仙一とは?――“富士山”

(第4回、松岡弘編に続く)

Profile/田淵幸一(たぶち・こういち)
1946年9月24日生まれ、東京都出身。法政大学第一高校から法政大学を経て、68年ドラフト1位で阪神タイガース入団。大学時代には東京六大学野球のリーグ記録となる通算22本塁打を放つ。プロ1年目から正捕手に抜擢され、22本塁打で新人王に輝き、75年にはホームラン王も獲得。78年オフ、西武ライオンズに移籍すると、82年、83年のリーグ優勝、日本一に貢献。84年シーズン終了後に引退。90年からはダイエーホークス監督に就任。2002年には星野に請われ、古巣・タイガースの打撃コーチに。07年には、星野監督の下、北京五輪日本代表のヘッド兼打撃コーチ、11年からは星野とともに東北楽天ゴールデンイーグルスへ。2020年に野球殿堂入り。星野とは東京六大学時代からの親友であり、盟友である。

Profile/星野仙一(ほしの・せんいち)
1947年1月22日生まれ、岡山県出身。倉敷商業高校、明治大学を経て、68年ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団。気迫あふれるピッチングで、現役通算500試合に登板し、146勝121敗34セーブを記録。現役引退後はNHK解説者を経て、87~91年、96~2001年と二期にわたって古巣・ドラゴンズを率いる。02~03年は阪神タイガース、07~08年は日本代表、そして11~14年は東北楽天ゴールデンイーグルスで監督を務める。17年、野球殿堂入り。翌18年1月4日、70歳で天に召される。

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