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五・七・五・七・七 母になって見えた風景 母であるわたしを詠んだうた

  • 2016.6.4
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日々、成長していく子どもたち。少しずつ変わっていくのは、子どもだけではありません。母になったことで見えてくる風景、人のあたたかさ、人生の過酷さなど、さまざまな場面と感覚があります。歌人たちは母親になった「わたし」をどのように作品に投影しているのでしょうか。

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■かけがえのないこの一瞬が楽しい

「マスクしたまま面接を受けし子が人は見た目じゃないよと言えり」

俵万智(『短歌研究』2016年3月号)

まだ幼いとばかりおもっていた子が、「人は見た目じゃないよ」と、まるで大人のような受け答えをしました。どう見ても外見は子どもなのに、中身はいったいどうなっているの。自分が知らないところで覚えてきた言葉をすました顔で話す子ども。たのもしく感じる反面、さみしくおもう気持ちの両方がうかがえます。

「温めし牛乳を飲む子の頬ゆ仏陀の微笑(みせう)うかびては消ゆ」

武下奈々子(『樹の女』)

「頬ゆ」は「頬より」という意味です。作者はホットミルクを飲む子を見ながら、お釈迦様をおもいだしています。ういういしい母と子の姿は1枚の絵のようです。

■いとしすぎるから心の奥で痛みを感じることも

「幽門の閉じてしまいし子の身体われはからっぽになり抱いていたりき」

江戸雪(『椿夜』)

歌集『椿夜』によると、作者の子どもは生後1か月で幽門狭窄症の手術を受けたことがわかります。生まれたての子が背負う大きな病を、どのように受けとめたらよいのかわからなくなり、まるで自分の体内が空っぽになったように感じています。痛々しい作品です。

「こわいのよ われに似る子が突然に空の奥処を指すことも」

江戸雪(『椿夜』)

子どもが自分に似ているのがこわい。素直で自然な心境を「空の奥処を指さすことも」という具体的な描写にたくしています。空の深い部分には、いったい何があるのでしょうか。平易なことばだけで構成されていますが、奥行きがありミステリアスな1首です。

■子離れは自分自身を見つめるチャンス

「いつよりか恥ずかしがらず髭を剃る息子がをりぬ五月の鏡」

米川千嘉子(『あやはべる』)

息子はもうすでに子どもではなく、大人の男性に近づきつつあるようです。堂々と髭をそっている姿は、母親にしてみると恥ずかしいようなこそばゆいような、独特の感覚をともなうものなのでしょう。しかし、「五月の鏡」とさわやかにうたい、変になまなましくならずに後味のよい作品になっています。

「古代ガラスのあわいくすみが吸う光 母の時間の過ぎた青空」

東直子(『歌壇』2015年12月号)

現代のガラスとちがい、古代ガラスは透きとおっていません。淡くくすんでいることにより、反射する光が鋭くならず、まろやかに屈折します。育児から解放され、自分の時間が増えた日常を絶妙なことばで表現しました。

「自分の歌集をまた熱心に読んでゐる 娘の気配がふとなくなれば」

花山多佳子(『木立ダリア』)

「歌つくるわれの背後に他人(ひと)の歌読みあげてゐる娘なりけり」

花山多佳子(『胡瓜草』)

この作者は、父・娘・自分自身の親子3代で歌人です。娘がいるときには短歌実作者ではなく、意識して母親の顔をしています。母と歌人のあいだを行ったり来たりする自意識を冷静に詠んでいるのが、この2首の見どころです。

母になった「わたし」を見つけるのは甘酸っぱく、ちょっぴりせつない気持ちになります。けれども、それはさみしいのではなく、とても心地よい感覚なのかもしれませんね。

(有朋 さやか)

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