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25年前の貴重な表紙を公開!【加藤登紀子さん・81歳】激動の時代を経て語る「ゆだねる」ことの心地よさとは?

  • 2025.11.16

25年前の貴重な表紙を公開!【加藤登紀子さん・81歳】激動の時代を経て語る「ゆだねる」ことの心地よさとは?

創刊25周年を迎えた雑誌『ゆうゆう』。その第1号で表紙を飾った加藤登紀子さん。ご自身にとっての25年とはどのような日々だったのか、歌手生活60周年を迎えた今、その思いを伺いました。

Profile
加藤登紀子さん

かとう・ときこ●1943年旧満州生まれ。
65年東京大学在学中にアマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手活動に入る。
「知床旅情」「百万本のバラ」などヒット曲多数。
夫の遺志を継ぎ、娘たちと「鴨川自然王国」を運営。

夫の死とUNEP親善大使、二つのテーマを与えられて

2000年10月号、記念すべき『ゆうゆう』第1号の表紙を飾ったのは、歌手の加藤登紀子さん。以来、何度もインタビューページに登場してくださり、そのときどきの思いを語ってこられた。『ゆうゆう』の歩みを振り返ると、そこに加藤さんの歴史も刻まれていて、勝手ながら盟友の感がある。創刊25周年を迎えるにあたって、盟友である加藤さんご自身の25年についても改めて伺いたく、振り返っていただいた。

「この25年間、私には大きな出来事が二つありました。一つは2002年に夫が他界したこと。そしてもう一つは、2000年にUNEP(国連環境計画)の親善大使に就任して、11年に退任するまでに15カ国を訪れたこと。これらの経験が、さまざまな発見をもたらしてくれましたね」

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『ゆうゆう』2000年10月号(記念すべき第1号)

半生を振り返るロングインタビュー。この年UNEPの親善大使となり、以後11年にわたってアジア各国を訪問する(下の写真は2001年タイ、インドネシアを訪問したときのもの)。

加藤さんの夫・藤本敏夫さんが亡くなったのは02年7月31日。享年58、ちょうど結婚30周年の早すぎる別れだった。しかし悲しみに浸る間もなく、加藤さんには現実問題が降りかかる。環境保護に取り組み、有機農法実践家であった藤本さんが81年に設立した農事組合法人・鴨川自然王国を、加藤さんが引き継いで運営していかなければならなくなったのだ。

「鴨川と東京の二拠点生活をしていたので、彼が仕切っている間は私は宴会部長に徹して、安心してあまり近寄らずにいたところもありました。それが、彼が亡くなったことでドシッと大仕事がのしかかってきた。UNEPの親善大使も、彼という環境の専門家が家庭教師としてそばにいてくれたから、自信たっぷりに引き受けたんです。でもそれも当てが外れてしまった。そのときに夫婦であったことの現実の重さを感じましたよね。リンゴの半分をこちらが持っていれば、あとの半分をあちらが勝手に持ってくれているような重量感が崩れてしまった。必死になって発奮しましたよ」

鴨川自然王国は、東京の人に田んぼのオーナーになってもらうトラスト制度を敷いていた。夫の没後、最初の稲刈りのとき、加藤さんは若い仲間を呼んで音楽で盛り上げた。するとオーナーたちから、「なぜこんなにうるさくした」と抗議を受けてしまったという。

「もうショックでね。ちょうどその頃、若い人たちが農業を志す動きがあったんです。そこで私、大反乱を起こしてね(笑)。オーナー制度を廃止して、お金のない若者の就農をお金のある熟年が応援するフューチャーズクラブを作って、オープンスペースにしたんです。そして『帰農塾』を立ち上げたの。そうしたら若者が10人ぐらいやってきて、そのうち2人が住み着いて研修生になったんです。次から次へといろいろなことが起きて、怒涛のような日々でした」

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『ゆうゆう』2002年12月号

この年の7月に最愛の夫・藤本敏夫さんが他界。出会いから30年の2人の軌跡を振り返る。離婚話をした夜に、「なんていい男だろう」と惚れ直して離婚を止めたエピソードも。

加藤登紀子さんの25年間

[2000年]UNEP(国連環境計画)親善大使に就任。以後11年間にわたり、アジア各国を訪問して環境保護活動をサポートする。
[2002年]夫・藤本敏夫氏死去。歌手活動のかたわら、藤本氏が残した千葉県鴨川市の自然王国の経営、帰農塾の立ち上げなどに奮闘。
[2011年]東日本大震災。精力的にチャリティー活動を行う。
[2020年]コロナ禍の自粛期間に自身のYouTubeを開設。緊急事態宣言の解除後は、感染対策を万全にした大規模コンサートを行い注目を集める。
[2024年]歌手生活60周年を迎える。

原点ハルビンで迎えた人生第4幕の幕開け

「帰農塾」の講師の人選も加藤さん自ら行った。また、地元で産業廃棄物処理場の建設計画が持ち上がったのを機に、「環境問題の学校をやろう」と提案、講師にC・W・ニコルさんや嘉田由紀子さんを招いて学ぶ場を設けた。もちろん歌手活動も行いながらである。

「エネルギッシュよね(笑)。でもたくさん泣きもしましたよ。農業をやる気がないわけではなかったので、もう少し早く夫と手を携えて一緒にやればよかったんじゃないかとも思いました。でも、バトンは前を走っている人が手離さないと、次の人が持てないのよ。だからやっぱり、彼がいなくなって初めて本腰を入れたんです」

UNEPの活動でも発見があったと言う。

「南太平洋の9つの環礁から成るツバルという国があります。高床式の住居に住んで珊瑚の上を裸足で歩く―そんな暮らしを送っている場所でも液晶テレビがあり、インターネットがつながっている。あるいはブータンの山奥の少年に会うと、音楽はiPodで聴いていると言うんです。そんなふうに世界の隅々まで現代化しているというのが発見の一つ。もう一つの発見は、2010年にはあったウズベキスタンのアラル海という湖が消えてしまったように、環境の変化がどんどん進んでいるということ。トンガでは、これまでゴミはすべて海に捨てていたんです。でも最近は自然にかえらないゴミが多くてそれが山となっている。特に多いのが紙オムツ。多様性の時代と言うけど、そうじゃない。あらゆる国のあらゆる次元の生活がほとんど同じになっているんです。そのことがよくわかりました」

そうした経験から「ものごとを自分でちゃんと判断しなきゃいけない」と思うようになり、新聞の切り抜きを始めたという。「環境」「国際社会・政治」「文化」の3ジャンルに分けてファイルし、25年間ずっと定点観測を続けている。東日本大震災、コロナ禍などで窮地に陥ることがあっても、加藤さんは流れに逆らわず、しかしプラス方向に舵を切って全力で人生という船を漕いできた。

父が生前よく、『人生はおもろないといかん』と言っていたんです。そして母は、どんなときもくよくよしないで新しい道を見つける人でした。その影響かしらね。私も自分の人生、何があっても面白いって思います(笑)」

人生は75歳からが第4幕だと考えている。そう意識的に決めて、75歳の誕生日は家族とともに、原点である生まれ故郷の中国・ハルビンで迎えた。デビュー60周年であり戦後80周年の今年は、そのハルビンで念願のコンサートを開催することができた。

「4幕目を意識したことで、自分が生まれてからのすべてのことを、一つの物語としてまとめる気持ちになりました。そういう気持ちで60周年を迎えられたことはよかったですね。今年ハルビンを訪ねたとき、市街を流れるスンガリ川のほとりに立って、しばらくその流れを見ていました。川はただ、せっせと流れているんですよ。どこに流れていくかなんて知らないし、気にしていない。その、気にしていない感じがいいのよね。人間も、自分の意思や誰かの意思にとらわれ過ぎずに流れに身をゆだねてみたら、変わってくるんじゃないかしらね。

眠くなったら寝て、朝が来たら起きて、そういう自然な命のサイクルをますます大事にして生きていきたい。25年を経て、今いちばん思うことはそれですね」

【75歳】今、人生の4幕目。蒔いた種が50年後に花開くような歌手人生を全うしたい

『ゆうゆう』2018年5月号

人生の4幕目が開いたというこの時期、これからの夢を「音楽で世界地図を描くこと」と語っている。歌とは種を蒔くこと。その生命の種が芽吹く日を信じて歌っていくのだと。

2025年も歌って締めくくります

60周年記念コンサートツアーに続き、年末恒例「加藤登紀子ほろ酔いコンサート2025」を今年も開催。12月6日(土)京都劇場から、28日(日)大宮ソニックシティ大ホールまで全国6カ所を回るツアーです。詳細は加藤登紀子公式サイト「TOKIKO WORLD」で確認を。

5月発売の60周年記念アルバム第1弾『for Peace』に続き、10月29日に第2弾『明日への讃歌』を発売。「出会い物語」「恋話」をテーマにした2枚組。(ソニーミュージック/4400円)

撮影/山田崇博

※この記事は「ゆうゆう」2025年12月号(主婦の友社)の記事を、WEB掲載のために再編集したものです。

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