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「べらぼう」の平賀源内「静岡生存説」はウソとは言い切れない…「52歳で獄死」ではない80歳でも存命説の真相

  • 2025.11.16

「エレキテル」の発明などで知られる平賀源内は、どのような最期を迎えたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「殺人を自首し、牢で獄中死したとされる。とはいえ、牢から逃れ生き延びたという説を一蹴することはできない」という――。

俳優の安田顕(=2025年2月2日、成田山新勝寺「節分会」。千葉県成田市)
俳優の安田顕(=2025年2月2日、成田山新勝寺「節分会」。千葉県成田市)
「源内生存説」の信憑性は

安田顕が演じた平賀源内。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の1年間にわたる放送を上中下に分けたとき、上の期間において主役級のあつかいだった源内は、第16回「さらば源内、見立は蓬莱」(4月20日放送)で死去した。その日は安永8年12月18日(1780年1月24日)だった。

死の1カ月ほど前に牢に入れられた源内。酒が飲めず、また当時、源内が腰に帯びていた刀は竹光だったはずなのに、酒に酔って久五郎という大工を斬り殺したという容疑で、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)らは不可解だとして、田沼意次(渡辺謙)に訴えたが、そこに獄死したという知らせが届けられたのだった。

以来、久々の源内である。第44回(11月16日放送)のサブタイトルは「空飛ぶ源内」と銘打たれている。時は経過して寛政5年(1793)。実は源内は生きているのではないか、という話が展開するという。

蔦重のもとに駿府(静岡市)で生まれた重田七郎貞一(井上芳雄)という人物が現れ、本を書かせてほしいと願い出る。蔦重は乗り気ではないが、この貞一なる人物、平賀源内の手になるという相良凧さがらだこを持っており、「これをつくったのは平賀源内」と述べるのである。

相良(静岡県牧之原市)は田沼意次のかつての領地。蔦重も源内がまだ生きていると考えはじめる。そして、杉田玄白(山中聡)や大田南畝(桐谷健太)、北尾重政(橋本淳)らと会って、源内の謎を追いかけることになる。

この「源内生存説」には、どのくらい信憑性があるのだろうか。

江戸時代最大のミステリー

死亡する前の月、すなわち安永8年(1779)11月、源内はみずから奉行所に出頭し、酒のうえの過ちにより、人を斬り殺したと申し立てた。だが、実のところ、この事件については源内の動機はおろか、被害者がだれであったかもたしかではない。

キセルを手にした源内の肖像を描いた高松藩家老の木村黙老による『聞まゝの記』には、被害者はある大名の庭の普請を請け負った町人だと書かれている。それによれば、この大名は普請に巨費がかかると知って、念のために源内に相談。すると源内は、自分なら経費の大幅削減が可能だとうそぶいたという。

その結果、最初に請け負った町人と源内のあいだで争いになったが、源内とその町人が共同で工事を請け負うことで和解し、手打ちのための酒宴が開催された。源内と町人は飲み明かしたが、翌朝、源内が起きてみると設計や見積もりの書面がない。町人を問い詰めたが覚えがないというので、争いになった末、源内が町人に斬りかかった。

深手を負わせてしまった源内だが、その後、周りを整理すると盗まれたと思っていた書類が出てきた。そこで覚悟を決めて自殺しようとしたが、周囲に止められて自首した――。そんな話である。

中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年
中丸精十郎画「平賀源内肖像」1886年(写真=早稲田大学図書館収蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
破傷風か絶食による餓死か

かなり具体的な内容だが、全然違う記述もあるからややこしい。異なる史料について、新戸雅明『平賀源内 「非常の人」の生涯』(平凡社新書)から引用する。

「『江戸名所図会』などで知られる著述家斎藤月岑によるものである。『平賀実記』上巻に付された彼の注記によれば、斬られたのは二人。ひとりは源内の門人で米屋の倅神田久五郎、もうひとりは勘定奉行の中間、丈右衛門である。後者も源内とは付き合いの深い知友だった」

いずれにせよ、源内がなぜこのような殺人を犯すことになったのか、正確なことはわからない。正確にわかっているのは、自首して1カ月ほどで、江戸伝馬町の牢内で死去した、ということだけだといえる。『聞まゝの記』には破傷風を患ったのが致命傷だったと記されているが、後悔と自責の念から絶食したという説もある。

源内の墓所は杉田玄白らの尽力により、浅草の総泉寺にもうけられた。この寺は昭和3年(1928)に板橋区小豆沢に移転したが、墓は台東区橋場にそのまま残され、国指定の史跡になっている。

問題は、この墓に源内が本当に埋葬されているのか、ということである。

墓の中に源内の骨があるのか

墓碑には杉田玄白による銘が刻まれており、そのなかに「官法尸を取ルヲ聴サズ(御上は源内の遺体を渡してはくれなかった)」という一文がある。そこから、罪人なので遺体を受けとることができず、源内の葬儀は墓碑も遺体もないまま行われた、と考えられるようになった。

だが、別の記述もある。太田南畝は『一語一言』に「屍を従弟某賜ふ」と書いている。「従弟某」とは、妹婿で源内が平賀家の家督を譲った権太夫をさすと思われる。また、戯作者の平秩東作へづつ・とうさくが遺体を受けとったという説もある。

いずれにせよ、遺体が遺族に渡されなかったという説が存在することから、実は源内は牢内で死んでおらず、抜け出してその後も生き続けたという説が生まれるようになった。芳賀徹『平賀源内』(筑摩書房)から引用する。

「源内先生ほどの知恵者でからくり師ならばかならずや巧みに獄舎を抜けだしているにちがいない、との民衆のスーパーマン願望の心理が働いたのである。そのため、源内の大パトロン・老中田沼意次の計らいで、源内の親友で伝馬町の元獄医千賀道隆が、ひそかに彼を脱出させて、田沼の所領である遠州相良に潜入させたのだという話が、まことしやかにひろめられた」

80歳を超えても生存したという説

明治10年代に刊行された東条琴台の『先哲叢談続編』には、遠州(静岡県西部)に行方をくらまし、医術に携わりながら80歳を超えても生存し、牢死したというのは正しくない、と書かれている。以後、源内生存説は今日にいたるまで、数知れず語られてきた。

たとえば、水戸藩の本草学者だった佐藤中陵は、大坂で80歳を超えた源内を見たのだという。昭和4年(1929)に雑誌「文藝春秋」に載った後藤粛堂『平賀源内雪冤禄』には、相良の海浜に面した丘上に源内屋敷址があり、そこで生き仏のように献身的に人々を助けていた老人が源内だという。

こうした事例はまだまだあるが、一方で、昭和になって源内の骨も見つかっている。昭和3年(1928)、先述の墓所があった総泉寺が移転する際、平賀家の菩提寺である志度(香川県さぬき市)の自性院常楽寺に分骨された。そのとき、この浅草の橋場にいまもある墓所から、まちがいなく源内のものと思われる骨壺が出てきたのだという。

このため、先に引用した玄白による墓碑銘の一文は、公儀に対して表向き繕ったものにすぎず、実際には、源内の遺体が引きとられ、この墓所に埋葬されたと考えられるようになった。

平賀源内墓。東京都台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地
平賀源内墓。東京都台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地(写真=MChew/CC BY-SA 3.0/Wikimedia Commons)
いまも静岡県に生きる生存説

このように現在では、源内が牢から脱出して生き延びた、という話は、おおむね俗説として退けられている。そうかといって、生存説をばかばかしいものとして一蹴するのはどうかと思う。

前掲の『平賀源内 「非常の人」の生涯』には、こう書かれている。「平泉で殺されず、生き延びて北海道からモンゴルに渡り、ジンギスカンになったという源義経を筆頭に、明智光秀、真田幸村、大塩平八郎、西郷隆盛など、外国ではジャンヌ・ダルク、アドルフ・ヒトラー、エルビス・プレスリー、マイケル・ジャクソンなどの生存伝説と同種のもの。つまりは、源内がそれだけスーパースターだった証である」。

ヒトラーがスターであったかどうかはともかく、源内が生きていてほしいという願望が、同世代にも後の世代にも強かったということだろう。

それに、生存説が完全に否定されたわけではない。実際、相良の地には、源内が住んでいたとわれる場所が複数残り、「智恵貸の翁」と呼ばれて慕われた老人が源内だった、という言い伝えがある。源内のものとされる墓所もあり、また、江戸中期から相良の地で親しまれて、先述のように「べらぼう」にも登場する相良凧も、源内が長崎遊学で得た知識をもとに考案した、とされている。

夢をいだく余地はまだ残されている。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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