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小泉八雲の「妻」とは呼ばなかった…130年前の新聞が書き立てた「ばけばけ」モデル・セツの"理不尽な肩書"

  • 2025.11.14

NHK「ばけばけ」では、ヒロインのトキ(髙石あかり)が、小泉八雲をモデルにしたヘブン(トミー・バストウ)の女中になる姿が描かれている。「女中探し」のはずだが、なぜ深刻なシーンとして描かれているのか。ルポライターの昼間たかしさんが、当時の新聞記事や文献などから史実を読み解く――。

当時は「外国人の女中=洋妾」と認識されていた

NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」では、松野トキ(髙石あかり)がレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)に女中として雇われるまでの前段の話が描かれた。錦織(吉沢亮)は、知事(佐野史郎)からヘブンの世話をする「どっちもできる」女中を見つけるよう指示され、奔走。トキは錦織から月20円を提示され、洋妾ではないかとの疑いに否定しない錦織に「ばかにせんでごしなさい!」と断るという展開であった。

ふじきみつ彦・著、NHKドラマ制作班・監修『連続テレビ小説 ばけばけ Part1(NHKドラマ・ガイド)』(NHK出版)
ふじきみつ彦・著、NHKドラマ制作班・監修『連続テレビ小説 ばけばけ Part1(NHKドラマ・ガイド)』(NHK出版)

現代の視聴者には、この疑念が不自然に映るかもしれない。知事はヘブンがなにもいってないのに「どっちもできる」女中を見つけろというし、錦織もその通りに動いてる。現代ならばスキャンダルで訴訟間違いナシな事案である。

しかし、この描写は決して誇張ではない。当時の社会では、外国人のもとに女中として入ることは、そのまま「洋妾になる」ことを意味すると広く認識されていたのである。

セツは女中として雇用された後に結婚へと至ったのだが、世間はそうとは考えずセツを妾だと見做していた。当時の資料からも、それは裏付けされる。当時、松江で発行された地元紙のひとつ「山陰新聞」では、地元では珍しい外国人教師である八雲の動向をたびたび掲載している。

地元紙にも「愛妾」の記述が残っている

例えば1891年8月9日付の記事では八雲が杵築(現在は出雲市)に海水浴に出かけたことを詳細に報じている。この中には、こんな一文がある。

(八雲は)更に2週間の滞在延期を布告し、さては愛妾をも松江より呼び寄せたる……

続く8月15日付の記事では八雲が京阪地方に旅行に出かけたことを報じているが、ここでもこう記されている。

京阪地方漫遊として愛妾同道昨日出発したり。

いずれもセツを妻としては扱わず愛妾であると報じている。

さらに西田千太郎の日記でも、同様に6月と7月に「ヘルン氏ノ妾」という記述が見られる。

ただし、公平を期すために言えば、この時点で八雲とセツは法律上の正式な夫婦ではなかった。二人が夫婦としての生活を始めたのは1891年6月に松江市北堀町の屋敷に引っ越してからと考えるのが自然だが、実際に八雲が日本に帰化して戸籍上の入籍を果たしたのは、それから5年近く経った1896年1月のことである。

それゆえ西田や新聞が「妻」ではなく「愛妾」と書いたことにも、一定の理屈はあるのかもしれない。しかし問題は、当時の松江の人々が二人の関係をどう見ていたかである。

妻のセツ「人が皆、洋妾、洋妾ということが一番辛かった」

法的な手続きの有無以前に、二人は実質的な夫婦として生活していた。にもかかわらず、地元紙はわざわざ「愛妾」という表現を選んでいる。

八雲研究の資料を紹介する広瀬朝光「ラフカヂオ・ヘルン研究資料-1-「山陰新聞」の記事をめぐって」(『山陰文化研究紀要』15人文・社会科学編)では、資料解説においてこう記している。

当時の代表的な言論機関である『山陰新聞』でさえ小泉セツを愛妾と呼んで憚らないのであるから、一般の人々がどのような目で見ていたのか、大体察しもつこうというものである。少なくとも松江の人々は小泉セツをヘルンの妻とは考えておらず、むしろ洋妾のように考えていたと思う。

では、実際にセツ自身はこうした周囲の視線をどう受け止めていたのだろうか。この点について長谷川洋二『小泉八雲の妻』(松江今井書店 1988年)には興味深い記述がある。

筆者が松江で伝え聞いたことからしても、セツの受けた洋妾の恥と責めが、実際に大きかったことが察せられるが、種市八重子さん(注:八雲の初孫)の談によれば、ハーンと一緒になった後、松江で「人が皆、洋妾、洋妾という」ことが一番辛かったと、セツは晩年、嫁の緑に語ったという。

“妾”は問題なくても、“洋妾”は別の扱いを受けていた

ゆえに長谷川はセツが八雲の女中で訪れたこと事態が「ハーンの意図は別にして、セツは彼の妾になる覚悟を、少なくともほかの人々からそのように見做される覚悟を、する必要があったはずだからである」と、女中に出たこと自体が貧窮ゆえの苦渋の決断だったのではないかと分析している。

そもそも当時の道徳観では妾を持つことそのものは、さほど問題のあるものではなかった。一方で、洋妾だけは別の扱いを受けていた。その歴史は開国と共に始まっている。

例えば、横浜の場合開港から2年後の1861年には商いのために集まった日本人は4万2000人あまりとなり、うち女性は2万5000人と男性よりも多かった。その多くは春を売る女性である。そもそも、横浜の開港による港湾整備と遊郭の整備は同時に始まっている。開港と共に幕府は品川の遊郭楼主に1万5000両を貸付け1860年に港崎吉原を建設させている(現在の横浜公園のあたり)。

当初、外国人相手に応じる娼妓はなかなか集まらなかったが、幕末の経済沈滞と共に志願者は急増した。開業当初には30人ほどしかいなかった外国人相手の娼妓は、瞬く間に100人を超えたばかりか、周辺の素人娘までもが「娘らしゃめん」として異人館に通い、月に30両も40両も手にするようになったという(宮尾登美子・吉田常吉「洋妾秘聞」『歴史への招待』10 日本放送出版協会 1980年)。

“外国人相手の女性たち”に集まった羨望と嫉妬

上記の資料には比較として当時の大工の賃金が月に2両とある。だから、この収入は破格である。外国人相手の女性たちは、短期間で庶民の年収に相当する額を稼ぐことができた。こうした経済格差は、周囲の羨望と嫉妬を生まずにはいなかった。

洋妾が娼妓とはまた違う特別な目で見られていたのは、こうした経済的な「やっかみ」の部分も大きかったと考えられる。通常の妾であれば社会的にさほど問題視されない時代に、洋妾だけが蔑視と羨望の入り交じった視線を浴びたのは、彼女たちが手にする金銭への複雑な感情が背景にあったのだろう。

実際、「洋妾」への偏見は、当時、実態以上に誇張されて広がっていたと考えられる。例えば下田の「唐人お吉」の伝説がそれだ。実際には、お吉はわずかの期間、アメリカ総領事館に召使いとして勤めただけの女性が、生涯「洋妾」の烙印を押され続けたとされる。同時期に同じ館に勤めた他の四人の女性は何ら問題視されなかったにもかかわらず、である。このような不合理な偏見の背景には、外国人と関わることで得られる経済的利益への羨望と、それを許せないという感情が複雑に絡み合っていたと考えられる。

小泉セツが内縁の妻として実質的な夫婦生活を送りながらも「洋妾」扱いされ続けたのは、こうした時代の空気の中でのことだった。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons)
八雲は“世間の偏見”が許しがたかった

長谷川も、この経済的利益への羨望を重視していて、当時の八雲の月給100円は県知事に次ぐ高級だったことを挙げている。これは当時の松江の米価(米1升7銭8厘)から比較すれば400石取りの武士に匹敵するもので、羨まれたのも当然であるとしている。しかし、愛する妻が洋妾呼ばわりされたことは八雲には我慢できないことだった。長谷川は、こんなエピソードを記している。

松江を去って2年後のことだが、それまで可愛いとして熊本の家においていた、正義という隠岐の貧窮士族の子が、ある日洋妾の唄を歌った時、ハーンは、直ちにこの男の子を実家に送り返している。

「洋妾の唄」を歌っただけで即座に送り返すという八雲の激しい反応からは、この言葉がいかに二人を深く傷つけていたかが窺える。八雲にとってセツは正当な妻であり、世間の偏見は許しがたいものだった。

では、なぜこれほどまでに「洋妾」という言葉が、侮蔑と偏見に満ちていたのか。そこには明治期特有の国際結婚をめぐる事情が深く関わっている。

最多は「日本人の妻と外国人の夫」の組み合わせ

日本人と外国人との国際結婚は明治になってすぐに見られるようになっている。例えば、官僚の尾崎三良は、1869年にロンドン留学中に暮らしていた英語教師宅の一人娘・バサイア・キャサリン・モリソンと結婚し三女を設けている。ただ、尾崎は正式な届けを出さなかったばかりか妻子を置いて帰国(逃亡?)し、国際問題になっている。

ともあれ、明治に入り交流が盛んになると国際結婚をする事例が相次ぎ1873年には太政官布告で初めて制度が定められている。

竹下修子『日本人女性の国際結婚に関する社会学的研究:明治時代から現代まで』(博士論文 2000年)によれば、この布告以降1897年までに許可された国際結婚は約265件、うち夫外国人・妻日本人は180件で、夫日本人・妻外国人の組み合わせより圧倒的に多い。

竹下は夫外国人・妻日本人のうち30件は結婚前に妻が雇われていたケースだとしている。研究ではこの30件の詳細をさらに分析し「妾として雇われていた(2件)」「世話を受けていた(1件)」「雇われていた(27件)」に分類。さらに、7件は結婚前に雇い主の外国人男性の子供を出産しているとしている。

貧困だったセツは、“覚悟して”八雲のもとへ向かった

さらに竹下は、夫となった外国人の国籍別ではイギリス人が最も多いことを挙げている。これは当時のお雇い外国人にイギリス人が多かったためだが、注目すべきはその背景である。

竹下によれば、重要な職責を担う外国人を日本の風土に親しませ、長く良い仕事をしてもらうためには「美しい日本人女性が必要」だと、日本の雇用者側が考えていた。あるいは外国人側から女性を世話するよう要求があった。つまり、日本人女性を外国人のもとに送り込むことは、個人的な偶然ではなく、ある種の制度として機能していたのである。

ここで重要なのは当時の事例を示した部分。当然、八雲とセツの事例も記されている。ここで、竹下はこう述べている。

(セツは)ハーンの元に住み込みの女中として雇われた時は、実家と養家の両方の親を扶養しなければならないという困窮の状態にあった。

長谷川も同様に、セツが絶望的にお金が必要な状態で女中に出たことを記している。

つまり、セツにとってこの決断は二重の覚悟を必要とするものだった。建前は「女中」であっても、当時の社会常識から考えれば外国人のもとに女性一人で住み込むということは、実質的に妾になることを意味した。セツは貧困ゆえに、その覚悟をして八雲のもとに向かったのである。

八雲は「セツの知性と教養」に瞬く間に魅了された

ところが、実際に八雲のもとで働き始めると、予想外の展開が待っていた。八雲はセツを単なる召使いとしても、ましてや妾としても扱わなかった。それどころか、セツの知性と教養に瞬く間に魅了されたのである。

ただ、この急速な関係の構築を知らない世間は「なんだ、やっぱり洋妾か」とみたというわけだろう。

また、前述した西田の日記でセツを「ヘルン氏ノ妾」と記している部分には、西田の困惑も感じられる。

西田は英語で八雲と意思疎通をしていたから、八雲が妾ではなく「housekeeper」を必要としていることは十分理解できていたはずである。前回の記事で触れたように、西田は「必要なのは妾ではなく女中」と理解していたはずだ。

そう言っていた八雲が、セツと出会ってから瞬く間に態度を変えた。6月には早くも同居を始め、二人の関係は明らかに雇用主と召使いの域を超えていた。西田の日記に「ヘルン氏ノ妾」という記述が現れるのは、まさにこの時期である。西田としては「先生、いっていることとやっていること違うじゃないですか」という思いもあっただろうが、幸せそうな二人を見て、まあいいかと受け入れたのかもしれない。

出会いはどうあれ「終わりよければすべてよし」だったのだから、幸運には違いない。

妻の節子と長男の一雄と共に写るラフカディオ・ハーン
妻の節子と長男の一雄と共に写るラフカディオ・ハーン(写真=市田左右太/小泉節子『思い出の記』:毎日がエドガー・ケイシー日和/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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