1. トップ
  2. レシピ
  3. まるで二段のホールケーキのよう! 百三十年も現役で海を照らし続けているレトロな部埼灯台へ

まるで二段のホールケーキのよう! 百三十年も現役で海を照らし続けているレトロな部埼灯台へ

  • 2025.11.6
部埼灯台(福岡県北九州市)。幕府が兵庫開港に備えて英国公使と約定した5灯台のひとつ。

現在、日本に約3,300基ある灯台。船の安全を守るための航路標識としての役割を果たすのみならず、明治以降の日本の近代化を見守り続けてきた象徴的な存在でもありました。

建築技術、歴史、そして人との関わりはまさに文化遺産と言えるもの。灯台が今なお美しく残る場所には、その土地ならではの歴史と文化が息づいています。

そんな知的発見に満ちた灯台を巡る旅、今回は2017年に『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞、第14回本屋大賞を受賞した恩田陸さんが福岡県の部埼灯台と関門海峡海上交通センターを訪れました。


海上交通の要衝を訪ねて

恩田陸さん。

門司(もじ)には何度か来たことがあるが、しっとりとした雰囲気のある、美しい町だ。レトロな建物も多く、なんといっても門司港駅の駅舎が素晴らしい。

今回は、フェリーで門司港に着いたので、そのまま港で待ち合わせていた観光タクシーに乗り込み、部埼(へさき)灯台へと向かう。

本日も快晴。海が眩しくて綺麗。そして、やはりとても暑い。

海辺の駐車場で、「美しい部埼灯台を守る会」の永木三茂さん、門司海上保安部交通課の木下孝さんと合流し、灯台へと向かう。ほとんど崖っぷちの通路をひたすら登り(斜面に咲き乱れる花々に、いろいろな種類の蝶が舞っていたのに感激した。こんなにたくさんのアゲハチョウを見たのは、本当に久しぶりだ)、例によって吹きさらしの部埼灯台へ。

咲き乱れる花に蝶が舞っている。

真っ白な灯台が青空に映えて美しい。パッと見は、二段のホールケーキ、というビジュアル。

そばに行ってみると、二段に見えた下のケーキ部分は半円形だった。

目を引くのは、灯台の背後に立つ、巨大な電光表示盤だ。アルファベットに数字、矢印が刻々と映し出されている。

灯台の下部分は半円形になっている。H・ブラントン設計で明治5年(1872年)初点灯。

これは、潮流信号所というもので、関門海峡のような潮流の変化が激しい難所に建てられているそうで、初めて見た。潮の流れがどちら向きに、どのくらいの速さで流れているのか、流れが今後速くなるのか遅くなるのか、を表示しているという。

部埼灯台の由来はなかなかに渋い。灯台自体、出来たのは明治時代(一八七二年)だが、その前史として、一八三六年(天保七年)に、大分の竹田津港から海路で高野山を目指していた僧・清虚(せいきよ)が、船の中で乗客が皆熱心に念仏を唱えるのを見て、事故が絶えない海の難所だからという話を聞き、高野山行きをやめて部埼に庵を結び、毎晩薪を焚いて、亡くなるまで灯台の代わりを務めた、というのである。なんという奇特なお坊さんであろうか。托鉢で集めた浄財は、一日一食分のみを除いてすべて薪代に当てた、というのだからますます奇特である。

三十キロ先まで光が届くというフランス製のレンズは独特の形で、まるでシャンデリアかオブジェのように美しく、百三十年も現役で海を照らし続けている。

部埼灯台のフランス製のレンズ部分。

レトロな灯台内は、まさにタイムスリップ感でいっぱい。まるで映画の登場人物になったかのような心地に。

永木さんが子供の頃は、まだ灯台守の方々が住んでいたそうで、人がいなくなってから長らく寂れていたのを有志で整備し、先ほど蝶が乱舞していた花畑も、皆さんで植えたもの。今では、灯台も、かつて灯台守が住んでいた官舎も重要文化財になっている。

木下さんに潮流信号所の話を伺う。

関門海峡は潮流の変化が激しく、何箇所も潮流信号所が設けられている。

後ろには現役の潮流信号所も設けられている。

昔は電球の交換がたいへんだったらしいが、今はLED等に置き換えられ、「持ち」がよくなっているそうだ。

潮流信号所を何かのトリックに使えないだろうか、と一緒に考える。アルファベットを特定の人だけに誤認させるとか、時間を勘違いさせるとかすれば――などと、剣呑なことを考えてしまうのは、やはり小説家の性であろうか。

関門海峡を歩いて渡る

関門海峡。

陽光溢れる部埼灯台を離れ、関門海峡へと下ってきた。

松本清張の『時間の習俗』の舞台となった、和布刈(めかり)神社を目指す。

実は、私は子供の頃から本格ミステリや探偵小説と呼ばれるものを愛好していたので、長いこと松本清張のいい読者ではなかった。

いっときしつこく言われていた、「探偵小説は人間を描けていない」論の先駆者、というイメージが強かったためだ(むしろ、『日本の黒い霧』とかノンフィクションのほうを愛読していた)。今回、せっかく舞台に行くんだから、と『時間の習俗』を読んでみたら、まっとうなアリバイ崩しと謎解きのミステリだったのでびっくりした。

松本清張の『時間の習俗』の舞台となった和布刈神社。

小説の中に、この和布刈神社で行われる有名な旧暦の新年の神事が出てくる。最も潮の引く時間を選んで、海に入って海藻を刈り取ってくる、という神事を撮った写真がアリバイになるのだが、これが、かなりテクニカルかつ複雑なトリックなのだ。ちゃんとミステリしてるじゃないですか、松本清張。

和布刈神社は、海辺のこぢんまりした神社で、頭上には関門橋。向かいの崖には、部埼灯台でも見た、巨大な潮流信号所が聳えていて、刻一刻と数字や矢印が変わってゆく。

関門橋の下あたりはいちばん海峡の狭いところで、タクシーの運転手さんらは、子供の頃は泳いで渡っていたとか。そういう、その地元では当然だった通過儀礼的なものも、このご時世では難しくなっているのだろう。今は行き交う船舶の量も格段に多いため、危険なので遊泳禁止とのこと。

関門海峡の、歩行者や自転車・バイク(押して歩く場合のみ)専用のトンネルをくぐる。

このトンネルもずいぶん前に通ったことがある。佐々部清監督の『チルソクの夏』という、地味ながらいい映画のロケ地に使われていて、それで知ったのだ。

福岡県と山口県を結ぶ関門トンネルで県境をまたぐ。

途中で県境の線が引いてあり、そこを跨いで写真を撮るのがお約束である。

歩くのが速い我々は、あっというまに山口側に着いてしまい、待ち合わせをしていたタクシーの運転手さんが「お客さんに先に着かれたのは初めてです」と驚いていた。

海上交通センターの役割

安徳天皇を祀る赤間神宮。

わずか八歳で海に沈んだ安徳天皇を祀る赤間神宮(どことなく「竜宮城」という言葉を連想するお宮であった。「海の底にも都がある」と安徳天皇を慰めた、という故事に由来するのだろうか)、日清講和記念館(日清戦争の講和条約を結んだ料亭「春帆楼」は、伊藤博文が「フグ食用禁止令」を解除した店としても知られる。恐らく、「なにこれおいしい、えっ、ふぐなの? おい、食べちゃったよ、でも皆、この辺りじゃ普通に食べてんだよね? だったら、もういいじゃん」みたいな感じで、後付けでなしくずしに解除されたのであろう。私の妄想だが)などを駆け足で見て、門司港エリアまで戻り、昼ごはんに山口名物だという「瓦そば」を食べる。

山口名物の「瓦そば」。

鍬や鋤で食べ物を焼いた、という故事はよく聞いたが、瓦に載せて焼くのは初めて見た。本物の黒い瓦に茶そばや肉や卵が載っていて、時間が経つにつれてどんどん茶そばが焼けていく。茶そばの味がどことなく不思議で、何かの料理に似ている、とずっと考えていたのだが、納得のいく答えは出なかった。

ここで、前日から一緒だった編集者Hさんが門司港駅より離脱。

我々は、関門海峡海上交通センターへと向かった。

実は、海上交通センター(愛称はマーチス)というのは、灯台の仲間。海上保安庁の定める航路標識(海の道しるべ)のひとつの形、ということになる。

関門海峡海上交通センター。

関門海峡のもっとも屈曲した場所に立つ関門海峡海上交通センター。真っ青な空に突き刺さるように伸びるタワーの下に、要塞のような階層の建物がどんと聳えている。

広く取られた窓からは、関門海峡の日本海側と瀬戸内海側が見晴らせるようになっていて、まさしく交通の要衝だ。

めまぐるしく潮の流れと速さが変わり、地形も複雑な関門海峡が難所だと呼ばれることがこの風景からもよく分かる。

目視できる窓の前には、複数のモニターがコックピットのようになっていて、職員がチェックしつつ、無線で情報を提供している。

船の場合、最終的にどのような動きをするかは船長が判断するのだそうだ。

実際、レーダーには入ってこない小さな漁船も多いため、最後は現場で目視して判断するしかないからだという。

関門海峡。

海の管制官は女性も多く、たまたま撮った写真の管制官は全員女性、という状態だった。

二十四時間体制の仕事だが、きっちり交替できて勤務時間がはっきりしているので、メリハリのあるいい職場かもしれない。

「どうなんでしょう、やはり船長にもうまい下手があるんですか?」

素朴な疑問を投げかけてみると、言葉を濁してはいたが、「なかなか接岸できない船とかありますね」と遠回しに言うところを見るに、ひと口に船長といっても扱う船の大きさもあるし、技術はピンキリ、ということらしい。

ここでもしつこく、「何か怖い話ないですか?」と尋ねてみた。

壇ノ浦とか、巌流島とか、古戦場も近いし、何かあるのでは? さすがに安徳天皇の幽霊は出ないにしても(この場合、怨霊か)。

皆さんの反応は薄かったが(もしかすると、偉い人がいっぱいいたので、言い出せなかったのかもしれない)、「やっぱり平家ガニを見つけると、ぎょっとしますね」と話した人がいた。

私も平家ガニの写真を初めて見た時はゾッとしたものである。あれは、どう見ても人面カニ。平家の亡霊の憤怒の顔が刻まれている、と言われたら一も二もなく信じてしまいそうだ。

実際は、あのカニ、とても小さくて華奢。あまり寿命が長くないので、水族館で飼育するのには不向きで、食用にも適さないらしい。

海の安全を守る海上保安庁の皆さんと関門海峡を背景に記念撮影。

屋上で皆さんと記念撮影をして、海上交通センターを後にした。

海と空の青さと、真っ白な灯台とマーチス。それが脳裏に鮮明に刻み込まれた二日間であった。

小倉の夜に舞い上がる

「北九州の台所」と呼ばれる旦過市場にて。

さて、我々は一路、小倉に向かった。

「小倉」といえば、ずっと「おぐら」と読んでいて、九州の人にぽかんとされたことを思い出す。地名の読み方、というのは地域によって独特で、そういえば、京都の「東寺」をずっと「あずまでら」と読んでいて、これまた関西の人に「何のことを言ってるのか分からなかった」と言われたものだ。

駅直結のホテルにチェックイン。

ここで、いつも装丁でお世話になっている、文藝春秋のブックデザイナーOさんと合流。「北九州の台所」と呼ばれる旦過市場へと向かう。

以前、小倉に来た時にもざっと歩いたことは記憶にあるが、店に入ったことはなく、迷路のような不思議なアーケード街で、心惹かれたことを覚えていた。

また、東京の千駄ヶ谷の某出版社の近くにズバリ「旦過」という、旦過出身だという若者が、九州から取り寄せた食材で経営している居酒屋があり、よく利用していただけに、近年、連続して火災に見舞われた、というニュースを見て、心を痛めていた。ああいう、昭和の雰囲気を残している商店街というのは、いったん失われてしまえば二度と同じにはならないからだ。

以前から残っているアーケードの通りのそばに、「旦過青空市場」という、プレハブの建物が並んでいる。

その中に真っ赤な暖簾のかかった、赤壁酒店があった。

旦過青空市場に再建されたプレハブ建の赤壁酒店。

角打ちで有名な店だと聞いていたが、入ってみると、恐らく以前の店の面影を極力残そうとしているのが窺えて、意外にもしっとりと落ち着いた雰囲気。

サッポロ赤星のビールの大瓶を冷蔵庫から取り出し、鯖の糠炊き、野菜の浅漬けをつまみに乾杯。野菜の浅漬けも、鯖の糠炊きも素晴らしく美味で、たちまち数本のビールが空いた。

これを皮切りに、ほど近い別の商店街の老舗居酒屋を目指す。

こちらも、二階の広い座敷で、仁王立ちになっている黒ずくめのおねえさんたちに張り切って酒とつまみを注文し、たちまち舞い上がった小倉の夜であった。

大作家に会いにゆく

小倉城内にある松本清張記念館。清張の仕事部屋、資料、遺品などが膨大に展示されている。

翌朝、我々にはもう一箇所だけ訪問すべき場所があった。

小説家なら(あるいは文芸編集者なら)一度は見ておきたい、爪の垢を煎じて飲んでおきたい大作家、松本清張記念館である。

実は、私は、以前ここを訪れたことがある。

もはや四半世紀も前のことだ。

私は二十六の時に小説家としてデビューし、七年ほど兼業作家を続けていて、三十三の時に独立して専業作家になった。

その、専業作家として、初めて九州に取材旅行に行った時に、松本清張記念館を訪れたのである。

今でも覚えているのは、当時の私は、まだ松本清張がデビューする四十一歳よりも若かったので、「今からこれだけの量を書くのか」と震え上がったことだ。なにしろ、兼業作家時代はそんなに原稿が書けず、「寡作」と言われていたのである(その後、あらゆる仕事を引き受け営業もしたため、いきなり年間一万枚近く書く、という生活を数年間続けることになるのだが)。

ご存じのとおり、松本清張はかなりの多作。しかも、亡くなる直前まで、多数の〆切を抱え、原稿を書き続けていた。

映像化作品にも恵まれ、それでまた本も売れるという、売れっ子作家の理想のパターンであろう。

太宰治と同い年というのも有名であるが、二人はすれ違うことなく、活動時期も重なっていない。松本清張が獲ったのは直木賞ではなく、太宰が喉から手が出るほど欲しがっていた芥川賞だった、というのになんとなく因縁を感じる。

綺麗にリノベされた小倉城(中にカフェまである!)の近くにある松本清張記念館まで歩く。

綺麗にリノベされた小倉城。

いつも思うことだが、松本清張はタイトルの付け方が抜群にうまい。

過去の日本の作家で、どう考えてもベスト3、あるいはベストと言ってもいいと思う。「点と線」「ゼロの焦点」「渡された場面」「霧の旗」など、どれもバッチリ決まっているし、短編も「張込み」とか「一年半待て」とか、過不足のない明確なイメージ喚起力が素晴らしい。

そして、今回思ったのは、本のデザインの斬新さだ。

そもそも、清張自身、デザインの仕事をしていたし、絵も上手い。

記念館を入ったところに、著作の本の表紙がずらりと並んでいるのだが、ひじょうにモダンでカッコよく、デザイン性に優れている。

文藝春秋のブックデザイナー、Oさんも、「これ誰だろう」と興味津々で覗き込んでおられ、当時としてはかなり「攻めている」デザインに感心した。

中にはデザイナーのコメントもあり、「松本さんの仕事はいつも緊張したし、必死にデザインした」とあって、松本清張を満足させるのもたいへんだったろうな、と思った。

手間のかかる、贅沢なデザインを見ていると、初版部数も大きかったし、デザインにもおカネをかけられたんだろうな、というせちがらいことまで考えてしまった。

押しも押されもせぬ大作家なのに、最初に読む編集者の反応や感想をひじょうに気にしていた、という話を聞くと、だからこそ大作家なのだろうな、と思う。

自分の書いたものに満足・安住しない。小心で、読者の反応が気になる。書き続けていくためには、重要なポイントだ。

世の不条理や、自己実現を阻む世の論理。そういったものに対するルサンチマンは生涯消えることがなく、作品を生み出す原動力になっていたように思える。これからも、彼の作品は世の不条理がある限り生き続け、映像化され続けるだろう。

そして、改めて、「死ぬまでこれだけの量を書くのか」と還暦を迎えた小説家は、げっそりとしたのであった。

Oさんと一緒に、山藤章二による似顔絵の入った、松本清張のふせんを買う。

このふせんをゲラに貼ったりしたら、受け取った編集者はどう思うだろうか、と考えるとなんとなくおかしくなった。「いえ、特に意味はないんですよ」と言っても、いろいろ深読みされそうだ。

新神戸から門司へ。

海と灯台をめぐる旅から派生した二泊三日の旅はたいへん濃密であった。

我々は小倉から新幹線に乗り込み、帰路に就いた。もっとも、大阪で更に別の編集者と待ち合わせて帰京前にもうひと宴会、というのはまた別の話となる。

部埼灯台(福岡県北九州市)

所在地 福岡県北九州市門司区大字白野江
アクセス 西鉄バス「白野江」下車徒歩約35分 北九州都市高速春日出口より約25分
灯台の高さ 9.7m
灯りの高さ※ 39.1m
初点灯 明治5年
※灯りの高さとは、平均海面から灯りまでの高さ。

海と灯台プロジェクト

「灯台」を中心に地域の海の記憶を掘り起こし、地域と地域、日本と世界をつなぎ、これまでにはない異分野・異業種との連携も含めて、新しい海洋体験を創造していく事業で、「日本財団 海と日本プロジェクト」の一環として実施しています。
https://toudai.uminohi.jp/

11月1日から「海と灯台ウィーク」を開催!

「海と灯台プロジェクト」では、灯台記念日の11月1日(土)から8日(土)までを「海と灯台ウィーク」と設定。期間中、海上保安庁や全国60市町村の「海と灯台のまち」、さらに灯台利活用に取組む企業・団体と連携し、イベントや記念品の配布など、様々なキャンペーンを実施します。
詳細は「海と灯台ウィーク」特設ページをご覧ください。

文=恩田 陸
写真=橋本 篤
出典=「オール讀物」2025年 11・12 月号

元記事で読む
の記事をもっとみる