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旅のおわりに(後篇)

  • 2025.11.4

結婚を間近に控えたある夜、酔った勢いで連絡したのは、10年前に決別した「パパ」だった。沈黙していたスマホから懐かしい声が聞こえてきた時、刺激に満ちた自由な旅はひとつの終着点を迎えてーー魔法のない時代に生きる「魔女」を描いたエッセイ、最終回です。

2カ月ほど前、お世話になっている取引先の人たちと飲み会をしていた。私はおでんを食べ、レモンサワーを飲みながら、そんな話題はひとつも出ていないのに、突然「この会が終わったらパパに電話しよう」と思い立った。自分でもなぜ急にそう思ったのかは解らない。でも、その瞬間に私のなかでなにかのスイッチが入ったような、あるいは切れたようなそんな感覚がしたのだった。おでんを平らげ、2軒目に流れ、赤坂見附でベロベロに酔っぱらった私は、弟に「パパの連絡先を送れ」とメッセージを送った。弟はなにも聞かず、「ほいよ」とだけ言ってパパの連絡先を私によこした。終電の時間を頭の片隅に入れて、酔っ払いで騒々しい道端でえいやと発信ボタンを押す。2回ほどコールが鳴って、怖くなって終了ボタンを押した。やっぱり怖い。あんな喧嘩をして10年ぶりに電話を掛けて、開口一番罵倒されたら、自分が立ち直れなくなるような気がした。私には憎い人がいない。人にも世間にも向ける怒りがない。なにがあっても、一晩経ったらヘラヘラできる。だから、どんなに関係がこじれても、最後はうやむやにして仲直りしたい。「なんで喧嘩してたんだっけ?」と数年後に笑いながら話がしたい。でも、謝りたくはない。だって私悪くないもん。謝りたくないし、謝られたくもない。私はただ元通りになりたいだけ。ただなかったことにしたいだけである。今電話を掛けたとして、パパがどうリアクションをするか全く想像がつかなかった。謝れと怒鳴られるかもしれないし、泣く泣く謝ってくるかもしれないし、そのどちらも嫌だった。自分でそれを確かめる勇気まではなく、私はパパからの連絡を待つことにした。もし私と話す気があるなら不在着信を見て連絡が来るかもしれないし、来なければ膠着状態のまま、喧嘩は11年目に突入する。終電の時間が迫る。フランス語で「久しぶり! 私結婚する!」とメッセージを打ってミュートをかけ、トーク画面を非表示にしてからスマホをポケットにしまった。

酔った自分がした軽率な行動も、次の日になってしまえば、夢か現実かほとんど区別がつかない。スマホにパパからの連絡はない。あー、やっぱり私許されてないんだ。10年も経っているのになんて強情なんだろう。死に際に後悔しても知らないからな。ちょっとふてくされて、鮮明な記憶が戻る前に忘れることにした。それから2日、なんの連絡もなかった。そして3日目の夜、すっかり忘れてスマホを弄っていたら、突然着信がきた。画面にはパパの名前。びっくりしてスマホをテーブルに投げ飛ばした。実家にいたので、それからとっさに投げたスマホを拾い、目の前の母に押し付けた。まるで爆発寸前の手りゅう弾のような扱いである。母が電話に出て、パパとなにか話している。怒っているかどうかが気になって、スマホに耳を近づける。かすかに低い声が聞こえるだけでよくわからない。母はしばらく電話の声に相槌を打ち、それからスマホの向こうのパパに「話す?」と聞いた。スマホが私の方に差し出される。おそるおそる手に取って、耳に当てる。もし怒鳴られても泣くもんかと覚悟をして、できるだけ明るい声で、気楽そうに「もしもーし」と声を掛けた。

いつか、私はまたどこかへ飛んでいくかもしれない

「アワ、元気?」

「うん、元気」

「パパのこと、憶えてる? もう忘れちゃった?」

「忘れてない、忘れてないよ」

「パパ、もうおじいちゃんになっちゃったよ」

「うん。ごめんね」

パパの声は驚くほど静かで、記憶のなかの声よりもずっと弱く、老いていた。はじめてこの10年が途方もなく長い時間だったのだと思った。私が目まぐるしい日常に気を取られて生きていたあいだ、この人はこの10年、一体どういう思いで過ごしていたんだろう。

「俺、いつもはLINE見ないよ。でも久しぶりに見てみようと思ってインストールした。そしたらアワからメッセージきてた。すごく昔のメッセージだろうと思ったら、2日前だった。本当にたまたま見た。神さまだね。神さま、ありがとう」

私は、神さまは信じていない。いや、信じていないと言えば嘘だ。私は神さまについて考えないようにしていた。そんなのが本当にいたら、私はたぶん、神さまの顔色をうかがってしまう。それでも私は突然パパに連絡をしようと思い立って、パパは偶然それに気づいた。これがパパの言う神さまだったのか。私ははじめて、パパに見えている神さまを見たような気がした。神さまと電話の向こうで繰り返すパパに、私はそうだね、と返事をした。

私はふたたび娘になった。こうしてまた自由を差し出し、私は地面に降りていく。でも、不思議とそれほど嫌ではない。長いあいだ、ひとりで飛んできた。ずっと遠くまで来たつもりだったのに、たどり着いたのは、もといた懐かしい場所である。いつか、私はまたどこかへ飛んでいくかもしれない。こんな穏やかな時間は、きっと長くは続かないだろう。それでも今は、ここで少し眠っていたい。

本連載は今回が最終回です。2026年に書籍化を予定していますので、楽しみにお待ちください。

伊藤亜和(いとう・あわ)

文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。

文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香

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