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旅のおわりに(前篇)

  • 2025.11.4

結婚を間近に控えたある夜、酔った勢いで連絡したのは、10年前に決別した「パパ」だった。沈黙していたスマホから懐かしい声が聞こえてきた時、刺激に満ちた自由な旅はひとつの終着点を迎えてーー魔法のない時代に生きる「魔女」を描いたエッセイ、最終回です。

仕事の帰り。最寄駅から自宅まで、はじめて電動キックボードに乗ってみた。いつも街中で颯爽と走る人たちを羨ましく眺めてはいたものの、婚約者から「危ないよ」とやんわり利用を止められていた。

これまで、彼が私になにかを強制したことはない。バニーガールのアルバイトをしていると告白したときも、タバコを吸っていると白状したときも「心配だな」とか「身体によくないよ」とか言っただけで、決して「やめてほしい」とは言わなかった。結果的に自由にさせてもらってはいるものの、私は意外と人の顔色をうかがうタチだ。すぐにやめるまではしないけれど、以降その話題は控える程度に配慮をして、少しだけ後ろめたい気持ちで過ごす。そうやって、私はほんの少しだけ自由でなくなる。彼のせいではなく、彼の抱える心配ごとを減らしたくて、私は重力に従い、少しだけ自由を差し出す。

私たちはまもなくふたりで暮らすことになる。だからそれまでのあいだ、変なことで好感度を下げたくはない。結婚が間近に迫ってもなお、私は自分が本当に人並みの幸せ、というか、私からすれば、人並み以上の幸せと言える未来を得られるのだろうかと疑っていた。私はちいさいころからずっと結婚がしたかった。こんなにたくさんの人がいるなかで、たったひとり自分を選んでもらうことが、私の昔からの夢だった。たぶん過剰に憧れすぎて、結婚というのは私のなかで“滅多に起こり得ない事態”という扱いになっているのかもしれない。なにかがおかしい。こんなに上手いこと、私にはもったいないような人と結婚できるはずがない。籍を入れた途端、彼が豹変したりするのではないか。そうでなければ私が、なにか信頼を損なうような取り返しのつかないことをしでかすのではないか。

彼と付き合ってからの私は、妙に気性が落ち着いている。以前はときどき起こしていたヒステリーも、今では気配すら感じられない。これからもずっと、何事もなく穏やかにいられるだろうか。数か月前の夢のなかで、私は彼に向かってガラスのコップを投げつけていた。コップは座っている彼の顔を掠めて床にぶつかり勢いよく割れ、立ち尽くしている私を呆れたように睨んだ彼の顔は、現実では見たことがない表情をしていた。私はいつか本当に、彼にこんな顔をさせてしまうのではないか。

目の前に止めてあった電動キックボードが、急に輝いて見えた

今悩んでも仕方のないことを考えているうち、引っ越しまであと数日というところまできた。この街で寝起きする回数も、もう片手で数えられるほどしかない。1年ほど住んだ程度では、この街がどんなところか、どんなひとがいるのか、あまり知ることができなかった。私は毎日のように自宅から駅までの10分を歩いたけれど、途中の商店街で気になる店をチラリと見るだけで入りはせず、お腹が空けば改札を出てすぐの、どこにでもあるチェーン店か、深夜の2時までやっている、きちんとした食事が出るバーに行くだけだった。この街で仲よくなれたのは、そのバーのマスターくらいだ。少し前の私ならば、物おじせずいろんな店を覗いていただろうに。私もたぶん、歳をとったのだろう。それに、結婚してさっさと引っ越したいがために、私はこの街に異様に冷たく接していたようにも思う。彼と一緒に暮らせば、私は平和のために、また少しずつ自分を危険にさらすような浮ついた好奇心を手放すだろう。タバコもやめるつもりだ。私は彼のために私を大切にしたい。あと数日。そう思ったら、目の前に止めてあった電動キックボードが、急に輝いて見えたというわけである。

レンタルするためのアプリをインストールして、いくつかの交通ルールテストを受けると、キックボードのランプが点いた。人通りの少ない道路まで押して移動しようとして、想像以上の車体の重さに足元がふらつく。どこからどう見ても「電動キックボードに初めて乗る人」な自分が恥ずかしくて、辺りをキョロキョロ見回しながら泥棒のように背中を丸めて移動した。やっと人も車もほとんどいない大通りに出て、おそるおそるキックボードに乗り、片足で弱々しく地面を蹴った勢いに任せて手元のスイッチを押すと、モーターがヴィンと回るような音がして、キックボードが走り出した。思ったよりもスピードが出て身体がのけぞる。あわててスイッチを押す指を離して、またおっかなびっくり加速し、ふたたび減速を繰り返す。そうやって1分もしないうちに恐怖は和らいできて、気づけば私は、満面の笑みで車道を駆け抜けていた。

すごい。こんなに楽しい乗り物は乗ったことがない。きっと空飛ぶホウキに乗ったら、こんな感覚なんだろう。たった時速10キロ程度の速度であるはずなのに、まるで宙に浮いているみたいだった。こんな楽しいものに、みんなよくすまし顔で乗れたものだ。私はキャー! とかワー! とか控えめに叫びながら、自宅をはるかに通り過ぎた駐車ポイントまで上機嫌で走り、降りた後も興奮冷めやらぬまま、スキップしながら家まで戻ったのだった。

自由。この10年間、私は本当に自由だった。パパと殴り合って決別した18歳のあの日から、思いつく限りの無茶は全部やってしまったような気がする。飲んで遊んで騙されて、泣いたり嫌われたりしながら、この10年、東京で自分を作ってきた。まだきっと、できることはたくさんあるのだと思う。だけど今のところはもう思いつかない。たぶん、電動キックボードで最後だった。

伊藤亜和(いとう・あわ)

文筆家・モデル。1996年、神奈川県生まれ。noteに掲載した「パパと私」がXでジェーン・スーさんや糸井重里さんらに拡散され、瞬く間に注目を集める存在に。デビュー作『存在の耐えられない愛おしさ』(KADOKAWA)は、多くの著名人からも高く評価された。その他の著書に『アワヨンベは大丈夫』(晶文社)、『わたしの言ってること、わかりますか。』(光文社)。

文=伊藤亜和
イラスト=丹野杏香

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