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“フェミ男”ブームの象徴・武田真治が振り返る1990年代「アゴも動かなくなった」時代を救った忌野清志郎という“天使”

  • 2025.11.1

雑誌smartが創刊30周年を迎える2025年。そのアニバーサリーイヤー特別企画として、1990年代に数多くsmartの表紙を飾っていただいた方々に当時の話を伺う連載『Back to 90s』。第9回のゲストは、俳優として映画、ドラマ、舞台に出演する傍ら、バラエティでも重宝される武田真治。NHK『みんなで筋肉体操』では鍛え上げられた肉体を披露し、サックス奏者としても楽曲をリリース。数々のアーティストと共演するなど、多方面にマルチな才能を発揮する、往年の“フェミ男”ブームでは時代の頂点に立った彼が語る90年代とは?

当時のフェミ男ブームは「食えりゃなんでもよかった」

――THE BIG BAND!!(武田真治がDJ DRAGON、いしだ壱成らと結成していたグループ)に入ったいきさつを教えてもらえますか?

武田真治(以下、武田)1990年に上京して、バラエティ番組のマスコットボーイみたいなことをしていたんですけど、当時のスタイリストさんがいつもSUPER LOVERS(スーパーラヴァーズ)という若者向けのブランドの服を持ってきてくれて、テレビで着たら返却しないでよかったんですね。そのままいただけたんです。僕はその頃、着るものの心配より食べ物の心配をしなきゃいけないぐらい本当にお金がなかったから、すごくありがたかったんです。

その後、直接ショップに行くようにもなって、そこの店員さんが今でも付き合いのあるDJ DRAGON(ドラゴン)だったんです。その後、彼がDJプレイする夜に一緒にクラブにも遊びに行くようになりました。その頃はアシッドジャズが流行っていて、僕はすでにサックスを始めてましたから、ジャズやフュージョンは知ってたけど、もっとグルーヴィーなアシッドジャズというロンドンからのニュームーブメントにドハマりして、さらにアシッドジャズに特化したDJの人を紹介してもらったりしては、それを聴きにクラブへ最終電車で行って始発で帰るみたいな生活が始まりました。

で、ドラゴンが自身のDJの持ち時間に、ドラムとベースは打ち込みでギターとパーカッションが生演奏のユニットでラップをパフォーマンスしていて、これ僕も参加できるかもなと。サックスやってるよって話をして、じゃあ、ちょうどいいじゃんみたいな感じで始まったんです。演奏やプログラミング技術のレベルもあって、アシッドジャズというよりレゲエやスカっぽいものになっていたかなぁ。それで僕が壱成とドラマで共演して、それから彼をメンバーに紹介したって感じですね。

――当時のフェミ男ブームは本人的にはどう思ってたんですか?

武田:食えりゃなんでもよかったですね。

――(笑)。

武田:当時の取材とか撮影って、今より予算も潤沢でとにかくお弁当がよく出たんですよ。だから、ご飯食べられるならなんでもよかった(笑)。

――その頃ってブームのアイコンになっていたから、上京してきた頃に比べれば人気も格段に上がっていたと思うんですけど。

武田:スーパーラヴァーズで洋服をいただいていたときも、お店のイチオシのものじゃなくて、売れ残っちゃった小さいTシャツとかなんですよ。テレビに出るときもクラブで演奏するときもそれを着ていたら、「男の子なのにヘソが出てる」って、それが“フェミ男”って言われるようになっちゃったんです。

フェミニストやフェミニズムなんて言葉も知らないし、一般的でもなかった頃にいきなり“フェミ男”……結局どういう意味だったんだろう(笑)。ヘソなんて出したくて出していたわけじゃなくて、出てただけなんですよね(笑)。もらったTシャツが短かっただけで。でも、なんかそれがかっこいいことになって。まあ、似合っていたんでしょうね、体型的に。

――そうですね。中性的な魅力があったというか。

武田:あと、今の僕が言うのも変だけど、マッチョイズムに世間が辟易(へきえき)してたんじゃないですかね。“男は男らしく”が、ちょうど行き詰まった時代なんじゃないかな。

――確かに日焼けしたスポーツマンタイプから人気が変わった時期かもしれません。

武田:人気の俳優さんも変わっていきましたしね。熱血、情熱、正義みたいに、誰もが現実ではアカレンジャーみたいに物事すべてを乗り越えられるわけではないってことに世間が気づいて、世の中を斜めに見てたような僕らに多くの若者が共感してくれたのかもしれないです。時代も規模も違うけど、ジェームス・ディーンが50年代のアイコンになったみたいに。

――自分のファッションの好みはどうだったんですか?

武田:なんでもよかった。どうでもよかったですね。

人気番組『めちゃイケ』では「より悪ぶったかもしれない」

――興味はなくはないですよね。

武田:ただ、せっかく吹いた風でどこまで舞い上がれるか、行くところまで行ってみようかなって感じはあったかも。自分に起きていることに対しての興味はあったんでしょうね。人があの頃のことをどれだけ、どういう風に覚えているかわからないですけど、たぶん一瞬、世の中の中心にいたのかもしれないですね、大袈裟にいえば。そういう稀有(けう)な経験でした。どうでもいいと自分に言い聞かせながらも、ちょっとトキメいていたとは思います。

――確かにすごいブームで、田舎の中学生までピタTを着てましたからね。

武田:ですってね。でも、これ全員が似合うもんでもないなとはちょっと思ってましたよ、細いパンツとか。僕が痩せていたのは単純に食べるものがなかったからですからね。実家暮らしでご飯いっぱい食べてそうな人がわざわざピタピタのTシャツを着て、ムチムチのパンツを履いているの見て、「これ違うかもな」とはちょっと思ったりしました(笑)。

――その後、武田さんはTHE BIG BAND!!をデビュー前に脱退し、ソロでアルバムも出し、役者、バラエティと活躍の場を広げました。

武田:憧れのチェッカーズのリーダー・武内享さんのプロデュースでソロデビューしました。当時の芸能界ってまだ、俳優で人気になったら歌手でデビューする風潮があったんですけど、歌が上手いならまだしも、そうじゃないなら歌手の方に失礼だし、そんなのもう流行んないってサックスデビューしたら、それがまた当たって。

で、俳優、舞台、テレビといろいろやってくうちに、もう『めちゃイケ』も始まってたんですけど、あっという間に体を壊して顎関節症になっちゃったんです。ソロっていう“自分の看板で走った3年間”で体がボロボロというか。

――smartの表紙に出てもらったのが97年なんですよ。2ndアルバムが出た頃。インタビューで「もう『anan』の抱かれたい男グランプリにも入らなくなったから、自由にやれる」と言っていて、もうそういう気持ちだったんですね。

武田:その頃はテレビでも悪態ついてたりしましたからね。ガム噛んでテレビ出たり。嫌われて仕事を減らしたかったんでしょうね。自分ではコントロールできないほどの、分刻みのスケジュールへのなんとも幼い抵抗。今思うと我ながらかなり態度が悪かったと思いますし、本当に恥ずかしいんですが、それをキャラとして面白がるめちゃイケグループにも出会っちゃって。

――めちゃイケグループには飾らずにいけた?

武田:より悪ぶったかもしれないですね。一つのキャラにしたというか。みんなそうだったんじゃないかな。僕なんか、素のキャラ3割を8割にするだけだから可愛いもんだったろうけど、岡村(隆史)さんなんかゼロ→100でやってたから。カメラ回ったら急に「誰ですかあなた」みたいな。

――顎関節症が治ったのは清志郎さんとの出会いがきっかけだったと何かで読んだんですが。

武田:出会って治ったというか、本気で治そうと思ったきっかけの人でしたね。それまでは誰も僕の生活や態度を咎(とが)める人がいなくて……いや、誰かに何かを言われても聞く耳を持っていなかったんでしょう。体調も崩してサックスも吹けなくなってきて、どんどん人が離れていって、完全に孤立していました。あの頃の僕はそんな状況に孤独を感じているくせに変にプライドだけは高くて、話し相手が現れても「そのレベルのアドバイスはいらない、俺の立場を分かってない、ぴんとこない」って突っぱねていたような感じでした。

そうこうしているうちに顎もとうとう動かなくなって、体も固まってきて、どんどん痩せて、それがまた「新しい!カッコイイ!」ってレディースの服を着せられて、性格もさらに尖っちゃったり、負のスパイラルから抜け出せなくなっていました。本当にまわりに人がいなくなったときに、たまたま竹中直人さんが、「最近どうしてる?飲みに行こう」って連絡してきてくれたんです。「大好きな先輩の忌野清志郎さんの家に今から行こう」ってなって、そこで初めてお会いしたんです。

“天使”忌野清志郎が遺してくれた教え

――そこでは音楽の話で盛り上がったりとか?

武田:いや、全然盛り上がらなかったです。清志郎さんは自分の自宅スタジオなのに居心地悪そうに隅っこに座っていて、我々が持ち込んだお酒とおつまみも手をつけているんだかいないんだか、うつむいてアコースティックギターを爪弾いている感じで、誰もが知っている彼のステージの姿とは全然違っていたんです。本当におとなしいというか、岡村隆史さんのオフの状態を超えていましたね。

こっちも鬱っぽいときだったので、話しかけられなかったですし。で、突然「君、サックス吹くんだよね?」って言われて、僕がサックスを吹くのを知っていらして、「サックスあるからなんかやる?」みたいな感じで、エレキギターに持ち替えたんです!

その時点でサックスに一年以上は触れていなかったけど、「あの忌野清志郎とセッションする」ということがどれだけ特別なことか分からないほど僕も腐っていなかったんでしょう。顎はまだ痛かったけど、このチャンスを逃したら二度とサックスを吹けなくなるなと直感的に思って、弦を押さえる彼の左手元を見ながら、一生懸命吹きました。数分間続いたと思います。すると、「やるねえ」って。「今度デモテープ作るときに吹いてくれない?」って言われて、そこからですね。

――それで、アルバムにも参加し、ツアーも一緒に回るようになったんですね。

武田:デモテープだけじゃなく、正式にレコーディングに参加したり、ライブにも呼んでいただけるようになりました。全国のツアーを回っているうちに清志郎さんが体力作りの一環として自転車を始めて、みるみるハマっていって、あるときはライブに関係なく自転車でどこまで行けるかって、バンドメンバーで楽器も持たずに鹿児島まで行ったりしたんですよ。

あの頃ペダルを漕ぎながらずっと聴いていたのは「トラジスタラジオ」っていう、清志郎さんがRCサクセション時代の曲。あの歌詞がまさに芸能の仕事を抜け出してツアーに出てる僕とシンクロしてて。あの方からはいろんなことを学びましたね。自由に生きるとは?ロックバンドの生活、ステージに立つこととは?何より、体力作りの大切さとその効果を間近で見せてもらえたのは、今の僕の筋トレに直結していると言えるほどの教えになりました。今でも僕は、“天使”に会えたと本気で思っています。

――最近のお気に入りのファッションは?

武田:なんでしょうね。今日取材現場に来て、30年前のsmartの記事を読んでびっくりしたんですけど、そのときと同じベルトを今日してきちゃってます。そんな感じです(笑)。

――すごい(笑)。ちなみにファッションの好みは昔とは変わったんですか?

武田:ライダーズジャケットはずっと好きで、40〜50着ぐらい持ってます。実際バイクに乗るからかな。いや、ライダーズジャケットを着たいからバイクから降りないのかも(笑)。流行について思うことは、ファッション業界って、例えばスキニージーンズが流行ると、次は太めのパンツを売り出したりしますよね。これは持ってないでしょ?って。もちろんきっと良かれでね。

でも、流行が変わっても好きならスキニーも穿き続ければいいと思うんですね。流行を押し付けたり、人のファッションをジャッジするのって、自信がない奴がやることだと思っていて。太いパンツがかっこいいと自分が思いたいから、「お前も穿け、細いパンツ穿いてるのはカッコ悪い」っていう奴が一番カッコ悪くて、本当にかっこいい人は黙って穿いてますから。ファッションに迷っている人がいるなら、ファッションってきっと正解がないものなんだから、知識なんかなくても安心して楽しめばいいよと言ってあげたい。ファッション誌とかいろいろな情報を教えてくれるし、参考になる意見もあってありがたい存在なんだけど、絶対じゃなくて選択肢の一つと捉えてみれば?って。

――もうちょっと自分の感性を信じようと。

武田:うん、あのー。はみ出ていいと思う。ファッションに限らずなんでも、一般常識からはみ出て初めてセンスが問われる。それこそ時代によってはTシャツからヘソが出ていたことで評価されることもあるし(笑)、はみ出て失敗してからの学びが結果的に自分に合うスタイルを作るんじゃないかな。人の顔色を伺って、ずっと流行ってるものや無難なものを買い続けても、自分よりそれが似合う人は絶対にいる。こだわってはみ出て失敗して笑われて、やめるもよし、どうしても好きなら続けてもよし。個性ってその先にしかないのでは? 安心して!僕なんかこのベルト、30年間ただの一度も褒められたことないけど、使い続けてますからね(笑)。

武田真治が登場した過去のsmart

ともに96年9月号

Profile/武田真治(たけだ・しんじ)1972年、北海道生まれ。89年、ジュノン・スーパーボーイ・コンテストでグランプリ受賞。90年にドラマ『なかよし』で俳優デビュー。ドラマ『NIGHT HEAD』(92年)出演後、蜷川幸雄演出の舞台『身毒丸』で主演を務める。映画『御法度』(99年)で第42回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞。数々のドラマ、映画、舞台・ミュージカル作品に出演。サックス奏者としては95年に『BLOW UP』でデビュー。2000年から2001年まで忌野清志郎率いる「RUFFY TUFFY」のレコーディングとツアーに参加。タレントとしても96年より『めちゃ2イケてるッ!』にめちゃイケメンバーとして22年間レギュラー出演をした。

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