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「ろくでなし!」愛と憎しみを超えて。80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さん 自由への最終章【私小説・透明な軛#6】

  • 2025.10.31

「ろくでなし!」愛と憎しみを超えて。80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さん 自由への最終章【私小説・透明な軛#6】

今年の夏、80歳を迎えた元ミス・インターナショナル日本代表、谷 玉恵さん。年齢を感じさせない凛とした佇まいは、今も人を惹きつけます。そんな谷さんが紡ぐオリジナル私小説『透明な軛(くびき)』を、全6回でお届けします。最終回の第6回は、「二人の女と、ひとつの家」。 ※軛(くびき)=自由を奪われて何かに縛られている状態

#6 二人の女と、ひとつの家

夫ではなく、一人の人間として

夫の浮気が発覚して半年ほど経ったころ、知香の胸にひとつの考えが湧いた。
——やはり、離婚しよう。

秀雄を「夫」ではなく、一人の人間として見直してみたいと思った。

浮気が発覚する前、夫の本心を知りたくて離婚届を突きつけたことがある。そのとき夫は渋々ボールペンを持ったが、知香が上から手を添えた。完全に拒むなら、そもそもペンは握りはしない。渋っているように見せるポーズだと彼女は受け止めていた。

知香はこれまで怒りに駆られ、夫を監視し、行動を束縛し続けてきた。「夫だから許せない」「妻だから権利がある」と思い込んで。

だが今は、そんな自分の感情がうとましくなっていた。

そして、離婚する前に知香は、あの女にもう一度会ってみようと思った。女は浮気の後も夫と同じ職場にいて、辞める気配はない。その神経が許せなかった。火種は消しておかなければならない。

知香は自由が丘で待ち合わせ、半年ぶりに女と顔を合わせた。ベージュのオーバーに、薄化粧。緊張で顔を硬くして、以前より老けて見えた。駅前ロータリーの向かい側いにある「ローゼン」という喫茶店に入った。人目につかない2階の端の席へ。注文がそろうと知香が口を開いた。

「離婚することにしたの。それで慰謝料を払ってもらおうと思って」
女は黙ったままうつむいている。
「もし慰謝料が払えないのなら、職場を辞めてほしい」

いつまでも夫と同じ職場に居続ける女に、不倫の怖さや妻の苦しみを思い知らせたかった。

そのとき思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「誘ったのは確かに私からですが、二度目は、ご主人からだったんです」

予期せぬ言葉に、一瞬ぎょっとして冷静さを失った。確かにあり得ることだが、二度目だったとしても、夫が女を誘うということは知香の頭にはなかった。女は、こうなったらすべてを言ってやろうとする構えをみせた。

「私もいけないと思ってやめようとしたのですが、佐山さんが結婚しようと言うので、ついその気になってしまったんです。女房とは別れる。女房とは性生活はない、と。愛してる、って言ってくれたんです」

——結婚? 愛してる?
唖然とした。自分にべったりだったはずの夫がなんということを! そこまで言うとは! 血の気が引いて、頭が真っ白になった。

それでも知香は精一杯反論した。
「それじゃ、結婚すればよかったのに。私は離婚するって言ったのに、なぜ?」

「奥様が家に来たあと、ご主人から電話があって、僕が守ってあげるから、って言われたんです」

耳を塞ぎたかった。妻より大事にされていた——という女の誇りが垣間見え、妻の立場が揺らぐのを感じた。聞かなきゃよかったと思ったが後の祭りだ。

形勢が悪くなり、夫に対する憎悪が湧き上がってきた。妻帯者がよくやる手口ではあるが、すべて控えめな夫がそこまでしていたとは。あらためて夫も男だったと思い知った。

知香は自分のことより目の前の女が哀れに見え、夫と女をまた元に戻してしまおうかと思った。
「許せないわ、ちょっと待ってて」
電話をかけに行った。
「主人を呼んで真意を聞かなくちゃ、おさまらないわ」

女に同情的になってしまった。許せないのは夫である。顔を見たらどうしてくれようかと思案していた。30分くらいして夫がやってきた。勘づいて来ないつもりかと思うほど長い時間だった。

「ろくでなし!」

現れた夫は険しい顔で言い放った。
「こんなことだろうと思った」
来るや否やの一声である。

夫を女の隣に座らせた。一瞬の静寂があった。少し落ち着いて知香は言った。
「私が彼女のところから帰った後に電話して、僕が守るからって言ったそうじゃない」

夫は引きつった面持ちをしている。

「結婚するとも言ったみたいね。愛してる、とも。なぜ結婚しないの? すればいいじゃない!」

「いいえ、もういいんです。私はすっかりその気がなくなっているのですから」
女は勝ち誇ったように言った。

「私がおさまらないわ。どうして僕が守るって言ったの? どういうこと?」
知香は女のためより自分のために知りたいと思った。

「知香が彼女から慰謝料を取ると言ったから、離婚しなければ慰謝料は取られないで済むと思って」
「それが彼女を守るってこと? 慰謝料を払わせないことが彼女を守るっていうこと?」
「……」
「本当は慰謝料の件さえなければ離婚をして彼女と結婚したかったっていうこと?」
「そうじゃない。うまく言えないけど……もういいじゃないか!」
「よくはない。彼女には他に男がいるみたいだって以前、あなたは言っていたけど、中田さん、他につきあっている男性がいるの?」
「いいえ」

「本当にいなかったのか?」
夫が隣の中田美喜をぐっとにらんだ。なぜ、彼女をにらんだのだろう? たっぷり未練があったのに、彼女に他の男の存在を感じ始めたのであきらめたのだ、と言わんばかりのにらみだと知香には思えた。

急に自分が憐れで惨めになった。知香は立ち上がり、吐き捨てた。
「ろくでなし!」

店を出ると、冷気が体を突き抜けた。悲しいはずなのに、さっぱりしている。すぐに後から夫と女が前後して出てきたが、タクシーに飛び乗り、二人を置き去りにした。

家に戻ると、少し遅れて夫が帰宅した。胸の中には罵りの言葉が渦巻いていたが、ぐっと飲み込んで、くるりと背を向けた。

——これで終わりにしよう。

夫の浮気が洗いざらい明らかになったいま、澱んでいた心の闇が薄れ、むしろ安堵さえ覚えた。そして心に決めた。

探究心の強い性格だから、知らなくてもいいことも掘り下げて知ってしまった。

そして、夫だから、妻だからということだけで、胸が引き裂かれるような苦しみを味わうことになった。

明日は迷わず離婚届を出そう。

知香は胸の奥に宿した決意にゆるぎがないことを確認した。

羨望の視線の先に

5人の客が顔をそろえた。ワインで乾杯し、料理を口にし始めると、堰を切ったように感嘆の声が上がった。

「知香さんって、本当にうらやましいわ。こんなにやさしくて料理上手のご主人と仲よく暮らせるなんて。私の主人にも見習ってほしいくらい」
「いや、ぼくにはとても真似はできないよ」
その夫が脱帽したかのように応じた。

「どうしてこんなに料理上手なんです? 最初から料理が好きだったの? それとも知香さんが仕込んだの?」

褒め言葉と質問が次々と浴びせられる。知香はニコニコしながら、キッチンの夫へ視線を送るばかりだ。

ひとりの客が立ち上がり、サイドボードへ向かった。積んであった本を手にしながら驚嘆の声を上げる。
「料理の本がこんなにたくさんある。フレンンチが3冊にイタリアン、和食まで。すごいわねえ。これって、もしかして秀雄さんが買ってきたの?」
「そう。みんな彼が選んで買ったの」
知香が笑顔で応える。

「夕飯も秀雄さんが作るの?」
「ええ。当番制だけど、週4回は彼がつくるの。仕事から帰るとすぐキッチンに立っているの」
「わあ、いいなあ、ほんとうにらやましいわ」

女性たちの羨望の眼差し受けながら、知香はキッチンへ向かった。棚には二十数種類の香辛料が整然と並んでケースに収められている。すべて秀雄が買ったものだ。料理のレパートリーが広がるにつれてスパイスの数も増えていった。

無水鍋にフランス製の鍋ル・クルーゼもそろえた。今日のメイン料理は、ル・クルーゼで仕込んだフランス風田舎鍋料理だ。重厚な鍋の蓋を開ける、スパイスとにんにくの香りが立ち上り、まるでフランスにいるかのような気分にさせてくれる。知香にとって、スパイスの香りはフランスそのものだった。秀雄のレパートリーのなかではこの鍋料理が一番好きで、出来上がる前から鼻がひくひくしてしまうほどだ。

知香は重い鍋を慎重にテーブルへ運び、厳かに蓋を開けた。
「わあ、すごい! いい香り!」
一斉に声が上がる。

知香は得意げにうなずき、キッチンのほうへ目で合図した。5人の拍手を受けながら、秀雄が自分の席に着いた。

誰も知らない秘密

知香には、夫の浮気が発覚する前の数年間、心を奪われた男性がいた。年下の夫に物足りなさを感じていたころ、異業種交流会で知り合ったマーケティング会社の社長。知香より一つ年下だったが、よどみなく続く会話や哲学論を交えた巧みな話術に、すっかり魅された。毎週のように会い、夜11時、12時まで話し込むこともあった。

その間、夫はひとりで夕食をとり、寂しさを抱えていたはずだが、知香は振り返ろうともせず、身勝手で強気な態度をとり続けた。

やがて夫の浮気が発覚した後は、さすがに知香は出かけなくなったが、その時のことを引き合いに出すことはなかった夫は、潔い人だったと後に知る。

離婚届を出してから、3年になる。そのことを身内以外はだれも知らない。旧姓に戻さず、以前と同じように暮らしを続けているけれど、紙切れ一枚の呪縛から徐々に解き放されてきた実感があった。

離婚後も、食事や掃除など家事は分担制だ。夫は料理に凝り始め、出刃包丁から柳包丁までそろえ、刺身が食卓に並ぶようになった。
「知香のために、何がいいかいつも考えているんだ」
その言葉に、偽りはなかった。知香専用の料理人のごとく献立を工夫してくれる。今日の料理もその心配りに満ちていた。

夫の浮気は許せない。けれど、活かし方次第では悪くない。そう思うようになっていた。

友人たちに食後のコーヒーを淹れながら、知香は誰も知らない秘密を胸に、幸せな奥様を演じた。

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