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沖縄に押し付けられた“痛み”を知る──東京に住む私が沖縄・米軍基地を巡り、聞かせてもらった声

  • 2025.10.11

沖縄本島の約15%が米軍専用施設に占用される

北部・山原(やんばる)から沖縄最北端を見晴らす景色。
北部・山原(やんばる)から沖縄最北端を見晴らす景色。

慶良間諸島、粟国島、渡名喜島、久米島、硫黄鳥島、そして沖縄本島など──多数の島々から構成される沖縄諸島は、緑濃い山々と青い海、豊かな動植物が唯一無二の魅力を放ち、観光客や移住者を惹きつける。

「沖縄は日本の国土面積の約0.6%にすぎないのに、全国の米軍専用施設面積の約70%が集中している」──沖縄を語るうえで欠かせないもう一つの事実だ。1945年から使用される極東最大の米空軍基地・嘉手納基地を筆頭に、県内には30以上の米軍専用施設があり、沖縄本島では面積の約15%が占用されている。島の広範囲において騒音や水質汚染が問題視され、米軍機の事故や性暴力被害も後を絶たない。

私は今回、パレスチナと沖縄の問題をつなぐ活動を行う団体が主催するツアーに参加し、沖縄本島で抗議活動に加わり、島の人々の声を聞かせてもらった。

中部・読谷村付近を散歩中の風景。
中部・読谷村付近を散歩中の風景。

羽田空港から飛行機で3時間。那覇空港の外に出ると、強い日差しと激しい太陽雨(沖縄の言葉でティーダアミ)に迎えられた。蒸した空気と雨に包まれながら、体にまとわりつく湿気と雨量に驚いていると、15分も経たずに雨は止んだ。東京とは全く違う気候に、はるか遠くへ来たことを実感した。

ここはかつて、独立した琉球王国として大きく栄えた地。1609年、薩摩藩の侵攻によって日本の影響下に置かれたものの、中国とも交易・交流を続けていた。しかし1879年、明治政府が武力と政治的圧力をもって王国を強制的に併合。一連の政策は「琉球処分」と呼ばれ、沖縄県として日本に編入されただけでなく、方言札の導入などの同化政策によって、文化や誇りまでも奪われた。1945年、本土を守ることを優先した日本軍の戦略によって米軍が沖縄に上陸、と激しい地上戦が繰り広げられ、20万人超が犠牲となった。そのうち約10万人は民間人だった。その後、27年にわたる米軍統治のなかで基地は拡大し、1972年の本土復帰後も、その影響は色濃く残り続けている。

「政治や基地のことはあまり沖縄の人と話さない」

那覇市内から北上した先、宜野湾市の中央に位置するのが普天間基地だ。その周囲には住宅や学校、市民の生活が密接に隣接している。それもそのはず、普天間基地のある場所は、戦前には約9,000人が10の集落に分かれて暮らしていた豊かな地域だった。豊富な湧水と美しい景観から「神山」とも呼ばれたこの地は、戦後、住民が収容されている間に米軍が鉄条網で囲い込み、強制的に接収した。先祖の墓が基地内に残っている人もおり、近隣の保育園には米軍機の部品が落下する事故も起きている。

基地のそばにある飲食店に入ると、店主が「シークワーサーあげるよ、水に絞って飲んでみて」と声をかけてくれた。話すうちに、彼が宜野湾市で生まれ育ち、数年東京に住んだのち故郷へ戻ってきたことがわかった。「米軍が来てよかったことといえば、本土より先にトイレが水洗になったことくらいだね。ここは普天間飛行場に近いし、事故も多くて危ないよ」と、皮肉を交えつつも柔らかな表情で話してくれる。20分ほどの会話の最後に、彼はこうも言った。「でも、政治のこととか基地の話は、あまり沖縄の人とはしないよ。ここにはお客さんも来るし、周りには米兵も住んでるしね」。米軍基地があるということは、米兵やその家族、基地内で働く人々とともに暮らすということ──その現実を突きつけられた瞬間だった。

嘉数高台公園から望む普天間飛行場の滑走路。オスプレイが並ぶ様子が、肉眼で確認できる。
嘉数高台公園から望む普天間飛行場の滑走路。オスプレイが並ぶ様子が、肉眼で確認できる。

「普天間基地を見たいなら、近くに高台があるよ」と教えてもらい、その足で嘉数高台公園へ向かった。ここは沖縄戦時の激戦地でもあり、公園内には追悼碑や平和を願う言葉が所狭しと並んでいる。しかしその先に見えるのは、住宅地に囲まれた普天間飛行場と、ずらりと並ぶオスプレイ。オスプレイは事故率の高さが問題視されており、2016年には名護市沖に不時着し、大破する事故も起きている。

1996年の日米「SACO合意」では、普天間飛行場を含む11施設の返還が合意された。しかし、普天間の返還は「沖縄県内への移設」が条件とされたため、30年近くが経過した今なお、実現していない。その移設候補地として挙げられたのが、沖縄本島北部、名護市・辺野古の沿岸部だ。

11年続く辺野古抗議。奪われ続けるのは沖縄の尊厳

テント前に掲げられた看板には、私が訪れた日が「抗議開始から4099日目」であることが記されていた。
テント前に掲げられた看板には、私が訪れた日が「抗議開始から4099日目」であることが記されていた。

私は辺野古に向かった。目的は、キャンプ・シュワブのゲート前で行われている抗議に参加すること。抗議活動は1日3回(9時、正午、15時)実施されており、私は正午の回に参加した。少し早めに到着し、ゲートから少し離れた場所にあるテントに向かうと、「座り込み抗議、勝つまで諦めない。2014年7月7日から4099日」の文字が目に飛び込んできた。この抗議運動はすでに11年以上続いており、地元住民を中心に、県外・国外からの参加者によって支えられてきた。テント内で話を聞いた人々の多くが、長い年月をかけて活動を続けてきたのだった。反対の声は今も根強く、毎月第1土曜日には県内から約500人が集まるという。

テント内の様子。漁で使われるブイには、「命どぅ宝」、「戦争いらない」、「海どぅ宝」などのメッセージが手書きされていた。
テント内の様子。漁で使われるブイには、「命どぅ宝」、「戦争いらない」、「海どぅ宝」などのメッセージが手書きされていた。

辺野古が移設候補地として挙がったのは1997年。当初は沖合に海上基地を建設する予定だったが、計画は何度も見直され、2006年には沿岸部の埋め立て案に変更された。2019年に実施された県民投票では、約7割が反対票を投じたにもかかわらず、土砂搬入工事は進められ続けている。さらに2020年、防衛省は軟弱地盤の改良工事に向けた設計変更を沖縄県に申請。玉城デニー知事は環境・技術面での懸念や調査不足を理由にこれを不承認とした。これに対し国は裁判を起こし、沖縄県が拒否を貫いた結果、国が県に代わって承認を行う「代執行」を初めて実施。2024年には県の承認がないまま工事が着工されるという、民意が無視された事態に発展している。

環境面への影響も深刻だ。辺野古の海域は生物多様性が豊かで、5,000種以上の生物が確認されている。工事による破壊は避けられず、ジュゴンを含む希少な生物や珊瑚礁の生態系へのダメージが強く懸念されている。また、埋め立てに使用されている土砂の一部が沖縄本島南部から採取されていることも問題視されている。南部は沖縄戦の激戦地であり、地中には今なお遺骨が多く残されている。その土砂に遺骨が混ざっている可能性が高いとして、県内外からの強い反発が起きている。

キャンプ・シュワブのゲート前での抗議の様子。前列に座っていた方が、「子どもたちの未来に基地はいらない」と書かれたプラカードを掲げていた。
キャンプ・シュワブのゲート前での抗議の様子。前列に座っていた方が、「子どもたちの未来に基地はいらない」と書かれたプラカードを掲げていた。

ゲート前に着くと、青い制服を着た警備隊員が、表情を変えることなく横一列に並んでいた。その無言の圧力に、思わずたじろいでしまう。道路沿いには、土砂を積んだダンプカーが何十台も列をなしていた。抗議参加者たちは思い思いのプラカードを掲げて座り込み、声を合わせて歌を歌う。この日、歌われていたのは「涙そうそう」だった。沖縄では、抗議の場で歌う歴史がある。辺野古で歌い継がれる「一坪たりとも渡すまい」は、1971年に米軍が土地接収を断念した昆布地区での座り込みで歌われたものである。かつて座り込みが歴史を動かした記憶を、今も人々は引き継いでいる。

私たちはゲート内に向かって、何度もシュプレヒコールを叫ぶ。「沖縄に基地はいらない」「土地を返せ」「沖縄解放」──。そこで、中部・読谷村に暮らすという方と知り合った。「座り込みには、タイミングが合うときに行ってます。実は、警備隊のなかに高校時代の同級生が何人かいるんです。どういう気持ちで立っているのかは人それぞれで、(基地建設)反対運動に共感しつつ仕方なくやっている人もいれば、自分がどっち側とかは何も言えない、という人もいますね」。また、ある参加者はこう語ってくれた。「ゲート前で警備をしているあの子も“うちなんちゅ”だから、敵じゃないよ」。東京という遠く離れた場所から「代執行」を行った政治家たちに、この沖縄の負荷と葛藤が本当に見えているのだろうか。胸の奥に怒りと申し訳なさが込み上げた。

さらに北上すると、ユネスコ世界自然遺産にも登録された「山原(やんばる)」に辿り着く。この地は、沖縄に生息するオオシマゼミの鳥のような鳴き声が響き渡る、豊かな自然に恵まれた地域だ。そのやんばるの東部・高江には、米軍北部訓練場と6つのヘリパッドが存在している。2017年には近くで米軍ヘリが墜落・炎上する事故が発生し、現在も住民による抗議が続いている。

嘉手納町の約80%を占拠する、極東最大の嘉手納基地

嘉手納道の駅から望む嘉手納基地。手前の土地は「黙認耕作地」と呼ばれ、一時的に住民の耕作が認められているエリア。
嘉手納道の駅から望む嘉手納基地。手前の土地は「黙認耕作地」と呼ばれ、一時的に住民の耕作が認められているエリア。

嘉手納基地──それは、極東最大の米空軍基地である。羽田空港よりも広大な面積を持ち、東京都で言えば新宿区がすっぽり収まるほどの広さだ。嘉手納町の約80%を占めていると聞き、あらためてその大きさに驚愕した。実際、市内を車で走ると、至るところに米軍ゲートが点在している。周囲はフェンスと黄色のラインで厳重に区切られており、当然ながら一般人が立ち入ることはできない。1959年には、嘉手納基地所属の戦闘機が墜落し、小学生12人が命を落とす「宮森小学校米軍機墜落事故」が起きた。以降も墜落や炎上といった事故は続き、周辺住民に大きな被害をもたらしてきた。離着陸時の轟音、性的暴行事件、ベトナム戦争などでの出撃拠点としての利用──。嘉手納基地が周辺地域に与えてきた負荷は、極めて大きい。

そんな嘉手納基地の前で、毎週欠かさず抗議活動を行っているのが「嘉手納ピースアクション」だ。現在、かれらが特に問題視しているのが、有機フッ素化合物=PFAS(ピーファス)による水質汚染である。PFASは基地内で使用される泡消火剤などに含まれ、河川・地下水、さらには飲料用の水源までも汚染していると考えられるそうだ。この物質は体内に長く蓄積され、有害な健康被害をもたらすことがわかっており、県民の間でも不安が広がっている。「基地の前にただいるだけに見えるかもしれませんが、反対の意思を示すために立っています」「黙っていたら認めたことになってしまうから、反対の意思を示しているんです」、そう語るメンバーの方々。

嘉手納道の駅からは、広大な基地の全貌を見渡すことができる。私が訪れた際には、パラシュート降下訓練が行われており、上空から次々に兵士たちが舞い降りてくる様子が目視できた。ある人は、静かにこう語った。「沖縄の人は、生まれたときから基地があるから、当たり前だと思ってしまっている。でも、それは当たり前じゃない。おかしいことなんだよ」

佐喜眞美術館の屋上から。
佐喜眞美術館の屋上から。

普天間基地の北側には、土地の一部が返還されたことで建てられた佐喜眞美術館がある。疎開先の熊本県で生まれた佐喜眞道夫館長は、「先祖代々の土地が基地の中にあった」と話す。そこに美術館を建てたいと考え、3年間にわたって日本政府に掛け合ったが、土地は返還されなかった。あるとき「自分は門前払いを受けているのだ」と気づき、方針を転換して米軍に直接話をしたところ、意外にもあっさりと返還が実現したという。「アメリカと日本の立場の差を実感しましたね」と館長は語る。

そこに展示されているのが、丸木位里・俊夫妻による『沖縄戦の図』。1945年、米軍が沖縄に上陸し、激しい地上戦が展開された当時の様子が、入念な取材と調査をもとに描かれている。日本は本土を守るため、沖縄で時間を稼ぐ作戦を取り、訓練も受けていない子どもたちまでもが戦闘に動員された。一方、米軍は無差別な攻撃を行い、住民10万人以上が悲惨な死を遂げた。「米兵に捕まったら男は轢き殺され、女は乱暴される」と日本軍に教え込まれた住民たちは、ガマ(洞窟)に逃げ込み、集団自決へと追い込まれていった。その自決を軍が命令・誘導した事例もある。久米島では、日本軍による住民虐殺も起きていた。

佐喜眞美術館には、こうした戦争の実相を伝える作品が数多く展示されている。私は、展示を見ながら頭がフラフラするような痛みを感じ、ゆっくりと時間をかけて少しずつ見ることしかできなかった。沖縄戦の最終局面、日本軍は南部へ追い込まれ、現在の平和祈念公園がある周辺が激戦地となった。その地中には今も遺骨が残されており、発掘が続けられている。「沖縄の人は結局みんなここに戻ってくる」「世界中の“うちなんちゅ”が集まるとき(世界のウチナーンチュ大会)には、何十万人もが帰ってくるんですよ」と館長。先祖と土地とのつながりを深く持つ沖縄の人々。にもかかわらず、米軍基地は今も返還されず、新たな基地建設が進められている。その現実に、どうしようもない悔しさと悲しみ、居た堪れない申し訳なさがこみ上げた。

痛みを語り継ぐべきは誰なのか

沖縄・米兵による女性への性犯罪(1945年4月〜2021年12月)第13版』(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)。
沖縄・米兵による女性への性犯罪(1945年4月〜2021年12月)第13版』(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)。

帰り際、那覇市内の共同書店を訪れた私は、『沖縄・米兵による女性への性犯罪(1945年4月〜2021年12月)第13版』という冊子を手に取った。これは、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」が発行しており、米軍が沖縄に駐留した1945年から2021年にかけての性暴力事件が、詳細に記録されている。学生、主婦、基地内労働者まで、被害者は多岐にわたり、場所も帰路や飲食店、自宅などあらゆる場に及ぶ。しかし「日米地位協定」によって、米兵が日本国内で犯罪を犯しても、原則として日本側へ身柄を引き渡す義務がない。そのため、たとえ被害者がやっとの思いで被害を告発しても、裁判で裁くことは極めて困難だ。ページをめくるごとに、吐き気を催すような記述が並ぶ。残忍でグロテスクかつ暴力的な実態が、突き刺さった。

ある20代はこう語る。「沖縄の戦争のことをたくさん教えてくれたのは、おばあおじいなんです。でも、あるとき『本当は戦時中のことなんて思い出したくないけど、語らなきゃいけないんだ』って言っていて……。それを聞いて、もう語らせたくないって強く思ったんです。だから次は自分の番だと思って、行動するようになりました」

別の人も言った。「基地のことはずっと気になっていて、以前はよく話を聞きに行ってました。ベトナム戦争のとき、沖縄の基地が拠点になったように、アジアや中東での戦争に行く前や、帰ってきた米兵が街にいるわけです。特に米兵の多い地域に住んでいると、友だちになることもあるし、いろいろな話を聞きます。米兵になる理由も人それぞれだし、基地で働く一人ひとりが悪いわけじゃないんだろうけど……」

平和祈念公園内にて。
平和祈念公園内にて。

地平線を望む、青く静かな南部の海を前に思いを巡らせる。この場所で、20万人以上の命が奪われ、そのうち10万人以上が罪のない民間人だった。そして今なお、米軍基地という形で、この地は傷つけられ続けているのだ。日本全体で見れば、沖縄県の人口はわずか1%。仮に県民全員が基地建設に反対しても、本土=ヤマトの人々が声を上げなければ、その声は権力によって掻き消されてしまう。私たちは、かつての「琉球併合」から続く構造的差別のうえに、今もなお沖縄に基地を押しつけている。それを、忘れてはならないと強く認識した。

たった数日間の短い滞在を終え、東京に戻ってから2週間が経つ。今、沖縄の土地と人々を思い出し、私は声を上げていきたい。軍事の拡大に反対し、歴史から目を逸らさず、繰り返される暴力に抗うこと。戦争の影響を最も受けるのは、いつも社会のなかでマイノリティとされる人々だから。揺るがぬ反対の声を長年にわたって紡いできた先人たちから学び、私たちが行動しなければならない。

辺野古基地前テントに掲げられていた、「命どぅ宝」の文字。
辺野古基地前テントに掲げられていた、「命どぅ宝」の文字。

Photos & Text: Nanami Kobayashi

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