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夫婦のすれ違い、嵐の前夜——80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さんが描く、愛のゆらぎ【私小説・透明な軛#3】

  • 2025.10.10

夫婦のすれ違い、嵐の前夜——80歳の元ミス日本代表・谷 玉惠さんが描く、愛のゆらぎ【私小説・透明な軛#3】

今年の夏、80歳を迎えた元ミス・インターナショナル日本代表、谷 玉恵さん。年齢を感じさせない凛とした佇まいは、今も人を惹きつけます。そんな谷さんが紡ぐオリジナル私小説『透明な軛(くびき)』を、全6回でお届けします。第3回は「再婚から12年——すれ違いの夏」。 ※軛(くびき)=自由を奪われて何かに縛られている状態

#3 再婚から12年——すれ違いの夏

37歳で再婚。小さな城と大きな信頼

帰国後、住まいは知香の友人がいたところをそのまま借り、秀雄と二人で暮らすことになった。とりあえずフランスからの延長という形で、結婚というわけではなかった。秀雄も年上の知香との結婚は考えていなかったし、知香自身もバツイチということもあり慎重でいたかった。

それでも、前向きで何にでも挑戦する積極派の知香と、穏やかに日々を暮らしたい消極派の秀雄とは、相反する性格でありながら、お互いに必要な存在でもあった。

自分を思い続けてくれる、「知香一途」の秀雄がそばにいることで、知香の毎日はとても心地よいものだった。

九州生まれで、父親の転勤で北海道に行く10歳までを九州で過ごした秀雄は、男子厨房に入らずと決め、食事はすべて知香の係だった。毎日秀雄を想い、彼の好物を考え、疲れて帰宅しても手抜きをせず、精一杯食事の支度をした。甘えてくる秀雄が好きだった。

2年後、新築分譲マンションがローン流れで安く手に入ることになった。1LDKと広くはないが、自分の「城」を持ちたかった知香にとっては願ってもない物件だ。ローンや名義は二人でと思っていたが、他人同士では税法上面倒であるということがわかった。

知香は秀雄との結婚に異存はなく、秀雄も拒否はしなかったので、吉日を選んで二人で役所に届けを出した。以来、秀雄は「不動産屋とグルになった」と知香をからかうこともあった。

知香37歳、秀雄30歳のときだった。

それから3年、知香は40歳のときに念願のエステサロンをオープンした。秘書をしながら2年間エステの学校に通い、いつか自分で独立して仕事を持ちたいという夢を実現させたのだ。

業績も順調で、バブル期だったのが幸いして売り上げも右肩上がり。スタッフも1人から4人に増えた。一方、秀雄も蓄えた自分の資金で理学療法士の学校に入学した。金銭的にはお互いに甘えないことを信条としていたので、秀雄はアルバイトをしながら学費や家のローンを捻出。それでも食費の一部や光熱費や雑費などは収入の多い知香が払った。

そして3年後、秀雄は免許を取得し、整形外科クリニックの職員となった。生活もやっと安定し、それを機に住まいも少し広めの分譲マンションに移った。

バブルがはじけ、いっときの勢いがなくなったものの、知香の仕事は培った信用によって支えられていた。

正月や夏の休暇は、クリニック勤めの夫に合わせて日程を決め、旅行先を一緒に考えるのが二人の楽しみだった。夏は海外のリゾート地へ、正月はスキーか海外というのが、いつしか定番になっていた。

48歳。変わりゆく夫婦の距離

そして結婚12年目を迎えた。

この年のゴールデンウィークは、7日間の大型連休がとれた。知香はいつものように海外旅行をするつもりだった。外国行きも毎年だと当たり前のことに思えてくる。

「正月のアメリカ旅行でボーナスを使い果たしたから、今回は行けないよ。たまには誰か友だちでも誘ってみたら」
「それであなたはどうするの?」
「ひとりであっちこっち車で行ってみるよ。寝袋持参で車の中で寝てもいいしさ」

思いがけない言葉だった。今まで絶対に離れることを嫌がっていた夫とは考えられない返答だった。

結局、ゴールデンウィークは、職場の主任の女性とシンガポールに行くことにした。予定もなく日々過ごすなど考えられなかったからだ。

思えば正月を過ぎたころから。知香は夫の様子が少し変わってきたように感じていた。常に二人で過ごしていた夕食を、時々外で食べてくるようになったからだ。

「若い人ばかりだから、いろいろあってまとめるのが大変なんだ」
夫はそう弁解しつつ、11時過ぎに帰る日が多くなっていた。
「カラオケまで付き合わされて、帰してくれないんだよ」

お酒の匂いをさせながら帰ってくる日が週1回から時には2、3回に増えていった。

横になっていても、いつ帰るかもう帰るかと気になって、エレベーターの止まる音で、帰って来たとわかるようにまでなった。

「主任なんだから、たまにはみんな誘って飲んできたら」
社交的でない夫に以前、何度か言ったことがあった。夫はきっかり定時に帰ってくるので、たまにはゆっくりと帰ってきてほしいと思ったのだ。友人の多い知香は時々、食事や飲み会に出かけていたが、嫌な顔ひとつせず気持ちよく送り出してくれた。だからこそ、夫の遅い帰宅も寛大な思いで受け入れていた。

しかし、2月25日は午前2時まで帰らなかった。その2日前も1時半だった。

こんなことは初めてだった。ついに堪忍袋の尾が切れた。
「いったいどうしたの? 何があったの!」

聞き出すまでは後へひかないつもりで問い詰めた。
「みんなが帰してくれないんだよ」
夫は憮然とした顔で答え、黙ってしまった。

言い合いをしても口では妻にかなわないことを知っているから、彼は決して余計なことは言わない。話さないからボロも出ない。沈黙に苛立つ知香は、布団を別室に運んで寝ることもあった。

家庭内別居を2、3日続けたこともあったが、折れた夫がニコニコしながらすり寄ってくるので、気がそがれ、許してしまう。

しかし、午前2時に帰宅したときばかりは我慢がならなかった。翌日、知香は初めて仕事場に泊まった。怒りが収まらず、少し脅かしてやろうと思ったのだ。常に知香の思い通りに動いていた夫だったから、自分を無視する行動は信じがたかった。

知香は耐えることが苦手な性格だ。不快なことがあると、すぐに口に出したり行動に移す。白黒はっきりさせなければ気が済まない。それを今日まで通してきただけに、何を考えているのかわからない夫の態度は、もはや許しがたいものだった。一人で夕食をとらなければならないたびに、変わってしまった夫婦の関係が心を重くした。

一人でいる孤独も寂しいが、二人でいるときの孤独はもっと寂しく、惨めだと思った。

自分だけに向けられていた夫の気持ちに、変化が起き始めていることを感じた。

嵐の前の静けさ

やがて、夏休みの季節になった。夫は旅行のパンフレットすら持ってこない。
「どこへ行こうか?」
と言う知香にまったく乗ってこなかった。

はっきりしないうちに海外旅行のパックツアーは満席になってしまった。夫の休暇が7日間もあるのに予定がないのは初めてのことだ。

夫への当てつけもあり、休みは短いほうが経営的にもよいと思うことにして、知香だけ5日間に短縮した。

夏休み初日、夫の提案で初めてディズニーランドへ行くことになった。盆休み前の日を狙った彼の読みが的中して、思いのほか混雑はなかった。

少しでも多くの乗り物に乗りたくて、吹き出る汗をぬぐいながら二人で走り回った。「アラジンと魔法のランプ」のショーでは、開演1時間半前から席取りをしているらしく、地面に敷物を敷いて人々が座っている。知香も夫と一緒に場所を確保した。

昼の時間帯で、容赦なく太陽が照りつける中、「お互いによくやるよね」と笑いながら、二人は子どもに戻ったようにはしゃぎ、久しぶりに心の底から笑った。夫は自分の帽子を知香に被せ、体で日陰をつくり太陽から守ってくれた。ここ半年間、自分を見ていないように思えた夫の優しい目があった。

開門と同時に入場し、花火が夜空を彩るまで、飽きることを知らなかった。

2日目は、ヨットを楽しみに逗子まで出かけた。ヨットは夫が職場の同僚と共同で購入した「シーマーチン」という二人乗り。休みのたびに二人でヨット教室に通い、風の読み方や波のうねり、帆を操る技術などを勉強した。その甲斐あって、最初はおっかなびっくりではあったが、帆いっぱいに風をはらませ、船首を上げて海面を滑るように進めることができるようになった。

春や秋の風の強い日や波の高いときは、バタバタはためく二枚の帆に恐れをなして、せっかくセットしてもたたんだこともあった。しかし、夏の海は穏やかだ。

時には船を停めて昼寝もできる。平和な時が過ぎてゆく。たまにはこんなのんびりした夏休みも悪くはないものだと知香は思った。

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