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ブリジット・バルドーの波乱に満ちた91年の人生──「私は幸せではないけれど、不幸せではない」

  • 2025.9.28

裕福な家庭で厳しく育てられた幼少期

Brigitte Bardot Reclining on Bed

「(映画界に入ったのは)家を出て自立するため。厳しく育てられたから、そうすることである種の自由を見つけることができた」

ブリジット・バルドーは1934年9月28日、会社経営者の父と専業主婦の母の長女としてパリに誕生。裕福な家庭で高級住宅街の16区にある広いアパートに暮らし、カトリックの私立校で教育を受ける恵まれた幼少期を過ごした。詩人でもあり映画好きの父とバレリーナ志望だった母は芸術を愛したが、礼儀作法などに厳しく、体罰を行うこともあったという。反抗的だったブリジットに対し、4歳下の妹マリー・ジャンヌは秀才で、両親のお気に入りは妹だと感じていた。さらに右目が弱視で眼鏡をかけていたブリジット自身も、容姿にコンプレックスを抱いていた。

母の影響で7歳からバレエを習い始め、14歳の時にパリ国立高等音楽・舞踊学校に成績優秀で入学したが、直後に母の友人でファッション誌の編集者エレーヌ・ラザレフと出合ったことがブリジットの運命を大きく変える。ラザレフに勧められて15歳から雑誌モデルの仕事を始めた彼女は1950年、映画監督のマルク・アレグレの目に留まり、次作のオーディションに誘われた。出向いた先で彼女の相手役を務めたのが、監督の助手だったロジェ・ヴァディムだ。だが、映画は製作されることはなかった。

奔放なセックスシンボルとして、俳優、シンガーとしてのマルチな活躍

Brigitte Bardot seen Cannes Film Festival making her first appearance, 1953.

「映画は解放の行為だった」

「私は演じていたのではなく、演じていた人物だった」

モデルの仕事を続けながら、小さな役で映画にも出演するようになったブリジットは1953年、カンヌ国際映画祭の開催中にビーチで見せたビキニ姿が注目を集め、徐々に映画界でも存在感を増していった。そして、ロジェ・ヴァディムが監督した『素直な悪女』(1956)で、大ブレイクを果たす。

『素直な悪女』は、奔放な10代の主人公ジュリエットがその魅力で周囲の男性たちを振り回す物語。全裸で日光浴する登場シーンからクライマックスでマンボを情熱的に踊るシーンまで、最愛の妻の魅力を最大限に引き出すヴァディムの演出は、新しい時代に生きる女性の解放と自由を体現するスター誕生を印象づけた。与えられた役になるよりも、役を自らの個性に引き寄せるという本物のスターだけが持つ魅力で、次々と話題作に出演し、姓名の頭文字を使った愛称“BB”(ベベ)も定着。ハリウッドで活躍中だったマリリン・モンローと人気を二分するセックスシンボルとなった。

Brigitte Bardot in Roger Vadim's “Et Dieu… créa la femme” ,1956.

彼女にとて、音楽も生活の一部として欠かせない存在だった。ギターを弾くのが好きだった彼女に歌うことを勧めたのは、かつての恋人サシャ・ディステル。1961年に主演作『私生活』の主題歌「Sidonie」をレコーディングすることに。そしてセルジュ・ゲンズブールとのコラボレーションで、数々のヒット曲を世に出していく。

外見ではなく演技力を評価されて主演した『バベット戦争へ行く』(1959)や、名匠アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『真実』(1960)、マルチェロ・マストロヤンニと共演した『私生活』(1962)やジャン=リュック・ゴダール監督の『軽蔑』(1963)、ジャンヌ・モローとダブル主演したメキシコが舞台の冒険映画『ビバ!マリア』(1965)など、1960年代は多岐にわたるジャンルで活躍する。『シャラコ』(1968)ではショーン・コネリーと共演、70年代には『ラムの大通り』(1971)や、元夫のヴァディムが監督してジェーン・バーキンと共演した『ドンファン』(1973)に主演。だが、その頃には演じることより動物保護運動へと気持ちは傾き始めていた。

そして1973年、『L'Histoire très bonne et très joyeuse de Colinot trousse-chemise(原題)』の撮影中に引退を宣言。映画界を退いて50年ほどが経つが、今世紀になってもディオール(DIOR)のフレングランスの広告にインスピレーションを与え、フランスでは今年5月に彼女の半生を描くミニシリーズが放送されるなど、その魅力、影響力は衰えていない。

動物愛護への熱意

Brigitte BARDOT in Bazoches.

「私は若さと美を男性に与えましたが、今は自分の知恵と経験を動物に捧げています」

1973年、ブリジットは最後の出演作となった映画の撮影現場で、一匹の子ヤギを引き取ることに。翌週に宗教行事で命を奪われると聞いて、たまらずに所有者から買い取ったのだ。「同時に楽屋の鏡に映る自分の姿を見て、こんな格好をして一体何をやってるのかとふと思ったんです。こうやって映画で歳をとっていくのか?と。あの子ヤギが引き金になって、辞めることを決意しました」と2020年9月の仏版『VOGUE』で語っている。

そして映画界から引退したBBは、以前から携わっていた動物愛護の活動に打ち込むことになる。実際子どもの頃から動物が好きで、活動はキャリア全盛期の1962年から活動を始めていた。フランス国内での食用肉の処理法が残酷だとして、苦しみを与えない無痛銃の導入を求めるキャンペーンを行ったのが最初の活動だ。

TV出演や当時の内務大臣との会談などといった熱心な働きかけの結果もあり、フランスの屠畜場で無痛銃が使用されるように。また、動物がどのように命を奪われるかを示す写真を見たのをきっかけに、彼女は野菜・芋類・豆類など植物性の食品と魚介類のみを食べるペスカタリアンとなった。

Brigitte Bardot Visits Dog Refuge

30代まではレザーや毛皮を着ることもあったが、その後1976年には国際動物福祉基金(IFAW)とアザラシ猟の残酷な手法に反対する国際的なキャンペーンを行い、当時のフランス政府にかけ合ってアザラシの毛皮の輸入禁止を実現させた。また1986年には、宝飾品など私物の数々をオークションにかけて得た収益で「ブリジット・バルドー財団」を設立。動物実験やペットの放棄、闘牛など動物を戦わせる催し物など、あらゆる場での起きている動物虐待を告発し、保護活動を行なっている。

恋に生きた半生──ロジェ・ヴァディム、セルジュ・ゲンズブールetc.

ロジェ・ヴァディムとの挙式。
Brigitte Bardot and Roger Vadim (1928-2000) at the Church of Passy, Paris, 12th December 1952ロジェ・ヴァディムとの挙式。

「(愛のためなら)誰かを殺すこと以外、何でもしたと思う。そのためにしか生きていません」

ブリジットは16歳で受けた初めての映画オーディションで、6歳上のロジェ・ヴァディムと恋に落ちる。だが、両親は未成年の愛娘の恋愛を許さず、絶望したブリジットは彼らの目の前で自殺を図る。それに驚いた2人は、ブリジットが18歳になるまで結婚しないことを条件に交際を認めたという。そして、18歳になった直後の1952年12月に結婚。ブリジットは映画界で、夫はジャーナリストとしてそれぞれのキャリアを築いていった。1956年に夫の映画監督デビュー作『素直な悪女』に主演し、新しい世代のスターとして大ブレイクを果たす。BBという愛称もこの頃から定着した。

ジャン・ルイ・トランティニャンと共演した『素直な悪女』(1956)より。
Brigitte Bardot and Jean Louis Trintignant in Roger Vadim's “Et Dieu… créa la femme” ,1956.ジャン・ルイ・トランティニャンと共演した『素直な悪女』(1956)より。

同時に、共演者のジャン・ルイ・トランティニャンとも恋に落ちる。互いに家庭がある身だったが、トランティニャンは当時の妻と離婚し、ブリジットと暮らすことに。ブリジットも翌1957年にヴァディムと離婚。後年、トランティニャンとの関係を「私の人生で最も美しく、激しく、幸せだった時期」と振り返ったが、実際は彼の兵役中にブリジットと歌手のジルベール・ベコーの浮気が発覚し、同年秋にトランティニャンが関係に終止符を打った。

ジャック・シャリエとの挙式。
Brigitte Bardot And Jacques Charrierジャック・シャリエとの挙式。

1958年には新進歌手だったサシャ・ディステルと交際。破局後も1970年代まで何度かデュエット曲を発表し、関係は良好だったようだ。1959年6月、ブリジットは『バベット戦争に行く』(1959)で共演したジャック・シャリエと結婚する。翌年1月に息子ニコラが誕生したが、すぐに仕事復帰した彼女はアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『真実』(1960)で共演したサミー・フレーと恋に落ち、夫と別居してフレーと同居を始めた。

サミー・フレーと共演した『真実』(1960)より。
Brigitte Bardot and Sami Frey On the set of La Vérité, written and directed by Henri-Georges Clouzot.サミー・フレーと共演した『真実』(1960)より。

ジャック・シャリエとは1963年1月に離婚。ブリジットはキャリアを優先し、夫が息子を引き取った。だが、フレーとも同年夏に破局してしまう。1966年、3度目の結婚をする。相手はドイツの実業家ギュンター・サックスだ。同年5月に知り合った富豪のサックスはバラ1万本をヘリコプターで空輸するなど派手なアプローチで彼女の心を掴み、7月14日にラスベガスで挙式した。だが、タヒチでの新婚旅行から帰国後にブリジットは同居を拒否し、別居生活が始まる。

ハネムーン先のタヒチに向かうためラスベガスを発つBBとギュンター・サックス。
Brigitte Bardot and her new husband Gunther Sachs Von Opel exit plane.ハネムーン先のタヒチに向かうためラスベガスを発つBBとギュンター・サックス。

次に彼女と接近したのは、セルジュ・ゲンズブールだ。主演作『気分を出してもう一度』(1959)に彼が出演して以来の知人だが、1967年にシングル「ハーレイ・ダヴィッドソン」を制作した前後から恋愛関係に発展。翌年には連名でアルバム「ボニーとクライド」を発表している。ゲンズブールの代表作の一つ「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は2人のデュエットとして録音された。夫との仲は冷え切っていたものの、過激な内容が離婚の引き金になりかねないと危惧した彼女のエージェントの意向でお蔵入りし、1986年まで発表されなかったという。

Brigitte Bardot and Serge Gainsbourg

ギュンター・サックスとは結局1969年10月に離婚し、その後もブリジットは恋愛遍歴を重ねたが、安定した関係を築くことはなかった。1992年、58歳で出会ったのが、現在の夫であるベルナール・ドルマルだ。知り合って2カ月で結婚し、南仏のサントロペで暮らしている。

ファッション・アイコンとしての功績

Brigitte Bardot

「髪を結うように、その時の気分で気に入ったものを着こなしていた」

1950年代の映画スターといえば、ドレスアップして髪もメイクも完ぺきに仕上げるのが慣わしだった。そこにナチュラルな美の新風を吹き込んだのが、ブリジットだ。ブロンドのロングヘアを乱れ気味に下ろしたり、アップにする時もゆるくまとめ、少女のような三つ編みやツインテールにすることも。

服はボーダーのTシャツなどガーリーな要素もありつつ、デコルテを大きく開けたり、ウエストを強調して曲線美をアピールした。レペット(REPETTO)のバレエシューズもBBを象徴するアイテムのひとつだ。また、60年代にはベルベットのダブルのスーツにネクタイというマニッシュな装いをし、70年代にはボヘミアン調も取り入れ、多彩なスタイルを楽しんでいた。

Brigitte Bardot with Repetto ballerinas on a Simca Aronde Week-end during Cannes Film Festival 1956.

『素直な悪女』で大ブレイクした後、全盛期の1950〜60年代は、1937年生まれの同世代デザイナー、アルレット・ナスタがスタイリストを務め、ギンガムチェックのドレスやカプリパンツなど、アイコニックなスタイルを作り出す。60年代後半に訪米した際のワードローブはすべて、アルレットのブランド「Real」のものだった。70年代にはサントロペの別荘の名前を冠した「La Madrague」というアパレルラインを2人で立ち上げ、20年以上コラボレーションを続けた。

公の場でドレスを着ることもあったが、1967年にド・ゴール大統領がエリゼ宮で開催した芸術と文学がテーマのパーティーに招待された際は、ビートルズの「サージェント・ペッパー」風のミリタリー調のパンツスタイルで出席。女性はカクテルドレス着用が常識とされる中で異彩を放ち、アンドレ・マルロー文化相に「ブランデンブルク飾りのパジャマ」と揶揄されたが、軍人でもあった大統領は大喜びしたそうだ。

Brigitte Bardot After Meeting With General De Gaulle At Elysee Palace On December 8Th 1967.

4回結婚したが、オーソドックスなウェディングドレスを着たのは最初の挙式だけ。2度目の結婚式ではピンクのギンガムチェックのワンピース、3度目はオレンジのミニドレスだった。60年代半ばから70年代初期のヒッピースタイルは、サントロペが拠点のデザイナー、ジャン・ブカンによるものが多く、出演映画でも彼のデザインを着用した。

彼女は「偉大なデザイナーのドレスも着たけれど、型にはまらない素敵なボヘミアン調も着たし、偶然見つけて着た服が流行したこともあった。楽しかった」と2016年に自身のスタイルの変遷を振り返った。所有していた衣装の大半を売却し、動物保護活動費に充てた彼女は「ファッションは卒業した。もう着飾らない」と語っている。

嘘のない、率直な言葉の数々

Brigitte Bardot Playing Guitar

厳格な家庭で育った生い立ちはブリジットに反骨精神を植えつけた。恋愛もライフスタイルも自分の意思を貫き、一般常識から外れたとしても揺るがない。「私はいつも好きなことをやってきただけ。そして多くの男性たちよりも度胸がある。(略)私はいつも自分の言動に責任を持ってきた。自分が何者であるかを恐れてはならない」

奔放な自由の象徴でありながら、男女の性差や結婚については保守的な価値観を譲らない彼女だが、波瀾万丈を乗り越えた今、老いに逆らいもせず、逃げもせず向き合う言葉に説得力がある。

「年齢は受け入れなければ。知恵、優しさ、落ち着きといった大きな長所とともに。死も同様に受け入れなければなりません」

「年月は顔に刻まれていきます。大切なのは魂の若さです」

2020年のインタビューでは、「この歳になって、すべてどうでもよくなった。誘惑なんてしたくない。何も、誰も」と語っている。彼女の言葉はどれも率直で嘘はないが、あまりに正直すぎる言葉は相手を傷つけてしまうこともある。母親になる覚悟を持てないまま息子を出産したことについて、「母親になったのは、まさに間違ったタイミングでした。私にとって悲劇だった。息子と私、不幸な人間を2人作っただけ」と語った。

1960年にジャック・シャリエとの間に誕生した息子ニコラ。
Brigitte Bardot, Jacques Charrier And Their Son Of 3 Days Old Nicolas. 19601960年にジャック・シャリエとの間に誕生した息子ニコラ。

ブリジットは10代の頃、国外で人工妊娠中絶を2度受けている。最初の夫との子どもで、2人とも親になる意思がなかったのが理由だ。1959年、妊娠を知った彼女は堕胎を考えたが、当時フランスで人工妊娠中絶は違法だったため、子どもの父親のジャック・シャリエと結婚、1960年に息子ニコラを出産した。1996年発表の自伝では、より赤裸々な表現で後悔を綴ったが、この言葉に息子のニコラはひどく傷つき、プライバシーの侵害で父とともに彼女を訴えた。その後に母子は和解し、頻繁ではないが、息子の妻や孫娘たちも含めて交流が続いているようだ。

多くの苦悩や痛みを抱え、自分も他者も傷つけることさえあったブリジット・バルドー。2014年、彼女の半生を振り返るドキュメンタリー番組「Un jour, une histoire(原題)」に出演した際、「私は幸せではないけれど、不幸せではない」と波瀾に満ちた半生を振り返った。

Text: Yuki Tominaga

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