1. トップ
  2. ホームコメディの裏に隠れた“絶妙な危うさ”「ちょっと違和感」「気になる」SNSでもざわついている“同性愛描写”【木曜劇場】

ホームコメディの裏に隠れた“絶妙な危うさ”「ちょっと違和感」「気になる」SNSでもざわついている“同性愛描写”【木曜劇場】

  • 2025.10.27
undefined
『小さい頃は、神様がいて』完成披露試写会&舞台挨拶 小野花梨 (C)SANKEI

「ちょっと違和感」「でもそれが気になる」。SNS上でも見られる、その微かなざわつきは、作品を嫌うためではなく、むしろ好きで観ているからこそ立ち上がる。木曜劇場『小さい頃は、神様がいて』は、岡田惠和脚本らしい柔らかな会話と“悪い人のいない世界”を掲げたホームコメディだ。北村有起哉と仲間由紀恵が演じる小倉夫妻を軸に、同じマンションの住人たちの暮らしが穏やかにやさしく織り重なる。しかし同時に、その“やさしさの設計”が、ある種の見え方をそっと既定路線にしてしまう危うさも抱えてしまうのではないか。とりわけ、女性同士のカップル(奈央×志保)の描写において。

奈央×志保の見せ方:装飾過多の“可憐さ”は何を正当化するか

小倉家と同じマンションに暮らす奈央(小野花梨)と志保(石井杏奈)は、カラーパレットを揃えた双子コーデ、ピンキーリング、パステルに統一された室内装飾……と、丁寧に“可愛い”が積み重ねられた恋人同士。ふたりのいちゃつきはポップで、編集の妙も相まって画面に弾む気配を与える。

完成披露舞台挨拶で、志保を演じる石井は「奈央が大好きという役を毎日楽しく演じている」と語る。

奈央の恋人・高村志保を演じた石井杏奈は「見ていただいてわかるように私は奈央が大好きという役を演じていて、毎日楽しく撮影しています。そんな現場の楽しい雰囲気をこの舞台挨拶でも伝わればいいなと思っています。」と語った。引用元:フジテレビ木曜劇場「小さい頃は、神様がいて」完成披露試写会&舞台挨拶 より

そして奈央を演じている小野は「10年ぶりの共演で、この10年があったからこそできるやりとりがある」と手応えを明かした。この親密さは実際、画面越しにも伝わる。

プライベートでも仲良しという小野と石井は、恋人役で10年ぶりの共演ということで、「普段仲が良いので10年ぶりという感じはしないのですが、久々に一緒に芝居をすると当時のことを思い出したり、この10年間があったからできるやりとりがあるなと感じました。」引用元:フジテレビ木曜劇場「小さい頃は、神様がいて」完成披露試写会&舞台挨拶 より

問題は、伝わり方の質だ。第1話、同じマンションの住人たちが彼女たちの関係に触れ「可愛いし」という言葉を用いて承認するくだり。そこに、ほんの小さな引っかかりがある。“可愛いからOK”という審美の言葉が、彼女たちの関係性を承認する条件になっていないだろうか、と。

承認によって生まれるハードル

“可愛い”は日本のポップカルチャーにおける信頼通貨だ。異質さ、弱さ、未熟さを包み、摩擦を減らし、世界の外側に置かれがちなものを中心へ招き入れる。『小さい頃は、神様がいて』の “悪い人がいない”設計とよく馴染む通貨でもある。

しかし、それが承認の唯一の回路として選ばれるとき、反対にハードルが生まれる。可愛くない同性愛は、受け入れられにくいのか? 装飾の少ない暮らし方、倹しい部屋、仕事にもまれて疲れている夜、化粧もせずに寝落ちする日々……そういった“可愛さ”で測れない日常は、画面の外へ追いやられていないか。承認を無害さ・無邪気さ・装飾性に寄せて設計すると、現実にある凹凸や軋みは見えにくくなる。

作品全体の志向である“織りなす”“安心”が、差異をなめらかに混ぜ合わせる力であることは疑いない。小倉夫妻の離婚話ですら、近隣への配慮としての車内口論に変換される。優しさの表現として見事だし、視聴体験としての心地よさに直結もする。

ただ、その均し方が同性愛の表象に及ぶとき、現実の重力をスルーしてしまう危険がある。カップルで暮らすうえでの労働配分や経済の問題、家族・職場の無言の圧力、法制度の段差。そうした“可愛くない”テーマは、ポップな編集のテンポを少し落とすかもしれないし、和やかな食卓の場に陰りを入れるかもしれない。しかし、陰りは“やさしさ”を壊すためでなく、深くするために必要な陰影ではないだろうか。

審美以外の、生活に根付いた語彙を

ここで誤解したくないのは、作品が同性愛を矮小化している、と断ずることではない点だ。むしろ反対で、今作では同性愛カップルを“ここにいるよ”と画面の中心に呼び入れた功績が大きい。小野と石井が語るように、ふたりの関係に実感を吹き込む芝居の呼吸があり、アドリブのやりとりがあることが日常の体温を運んでいる。

だからこそ、あと一息、審美以外の語彙で彼女たちが受け入れられる瞬間がほしい。たとえば、可愛い内装を脱ぎ捨てた朝の風景……寝癖、慌ただしい出勤、家賃の支払い計画、家事分担表を前にしたちょっとしたため息。承認の言葉が「可愛い」だけでなく、「頼れる」「賢い」「おもしろい」「しんどいときもあるんだね」など、生活の実感をともなった語彙へ広がるとき、私たちの受け止め方もまた更新されるはずだ。

その意味で、“織りなす”という制作側の宣言は、批評の文脈でも有効なキーワードだ。織物は、一本の糸だけでは成立しない。異なる色味や太さの糸が、ときに引っかかりながらも交差して布になる。

可愛いという糸は必要だが、それだけでは布は薄い。そこに“疲れ”を織り、“怒り”を織り、“面倒”を織り、“みっともなさ”を織る。小倉夫妻のドラマが、出産・育児をめぐる“見えない負債”を正面から言語化していくように、奈央と志保の物語にも、可視化されにくい段差を一段だけ入れてみる。

たった一段でいい。作品のやさしさを壊さない範囲で、現実の重力に触れる段差を足す。それだけで、承認の回路は“可愛い”から“当たり前”に近づく。

違和感は、やさしさを壊すためでなく、深めるために

“違和感”は、拒絶のための感覚ではない。織りの歪みを知らせる、いわば指先に宿る鋭敏さだ。作品が目指すやさしさをより強く、より広くするために、どこを編み直せばいいかを教えてくれる。

『小さい頃は、神様がいて』は、悪い人のいない優しい世界を志向しながら、同時に登場人物の“それぞれの未来が肯定されていく物語”だと出演者たちは口を揃える。

それなら、その肯定の手触りを、審美の条件からもう一歩だけ解き放とう。可愛いふたりが可愛いから受け入れられるのではなく、可愛い日と可愛くない日、調子の良い朝と崩れる夜、そのどちらもを織り込んで“それでも一緒に暮らしていける”ことを描く。やさしさは、均一で滑らかな面よりも、凹凸を含んだ肌触りにこそ宿る。

“ほんわか”の気持ちよさを愛でながら、私たちはその凹凸を一緒に探せる。制作陣が掲げた「織りなす」という合言葉は、視聴者にも開かれている。違和感を手放さず、やさしさを失わず。その両立こそ、今作のホームコメディがフィクションとして更新できる、いちばん現代的な徳なのだと思う。


ライター:北村有(Kitamura Yuu)
主にドラマや映画のレビュー、役者や監督インタビュー、書評コラムなどを担当するライター。可処分時間はドラマや映画鑑賞、読書に割いている。Twitter:@yuu_uu_