1. トップ
  2. 恋愛
  3. 映画『ひゃくえむ。』を見る前に知りたい3つのこと。アニメの前に「実写で撮影した」理由は

映画『ひゃくえむ。』を見る前に知りたい3つのこと。アニメの前に「実写で撮影した」理由は

  • 2025.9.22

劇場アニメ『ひゃくえむ。』が9月19日より劇場公開されます。原作となるのは『チ。―地球の運動について―』で手塚治虫文化賞マンガ大賞を史上最年少受賞した魚豊(うおと)の連載デビュー作です。結論から申し上げれば、尖った特徴を持ちながらも親しみやすいスポーツ映画として、幅広い年代層に大いに推薦できる作品でした!

スクリーンで映えるアニメ描写も圧巻で、100m走に真剣に挑む姿勢と作品に込められた熱量は、まさに「世界陸上2025」が東京で開催されている今だからこそ、劇場で「体感」してほしいのです。具体的な魅力を記していきましょう。

1:極端だけど正論な「哲学」を語る物語

本作は「100m走に挑む人たち」の群像劇。その中で主人公といえるのは「トガシ」と「小宮」の2人です。彼らは小学生の時にライバルとも親友ともいえる関係になり、やがて高校生になり、さらに社会人になってからの姿も描かれます。

普段は知る機会のない、100m走に人生を懸ける人々の半生を追うだけでも、一定の面白さは保証済みといえる物語ですが、真にこの作品を唯一無二としているのは「極端なようで納得もできる哲学的な思想」の数々。代表的なのは、主人公のトガシのキャラクタービジュアルにもなっている「100mを誰よりも速く走れば全部解決する」です。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

ここだけを取り上げれば極端そのものですが、実際の本編ではそこに至るまでの会話と、それから先の2人が歩む人生があるからこそ、このシンプルな言葉が「正論」あるいは「真理」として心に響いてくるのです。

さらに、「結論から言うと、不安は対処すべきではない」や「現実が何かわかってなきゃ、現実からは逃げられんねぇ」といった独特の哲学それぞれが、興味深く感じられるようになります。

また、「生まれつき足が速く、『友達』も『居場所』も手に入れてきたトガシ」と、「辛い現実を忘れるため、ただがむしゃらに走っていた転校生の小宮」は、性格も考え方もほぼ正反対(でも実は似てもいる?)。その2人がどのように人生を歩んでいくのか、どのように自身の信念を持ち続けるのか、そのドラマも見どころになっています。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

100m走に賭けたキャラクターそれぞれの情熱は、時に「呪い」のようにも、もっといえば「狂気」のようにさえ描かれる場面もあります。

つまり意図的に危うさを描いた作品でありながらも、哲学それぞれが、100m走の世界を知らない人にも「そうかもしれない」「自分も参考にできるかも」とさえ思えてきます。その情熱や呪いや狂気もない交ぜになるからこそ、この『ひゃくえむ。』は心が揺さぶれる物語に仕上がっているのです。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

ちなみに、『ひゃくえむ。』の着想は、原作者の魚豊が2016年のリオデジャネイロ五輪でウサイン・ボルト選手の活躍を見た時に、「この選手は『足が速い』という一点で、ほぼ全てのものを手に入れている。多くのことを解決している」と感じたことにもあったのだとか。

それこそが劇中の「100mを誰よりも速く走れば全部解決する」という言葉に表れており、作り手の発想のユニークさが、作品の面白さに直結している作品といえるでしょう。

2:「ロトスコープ」で描く圧巻の「3分40秒のワンカット」

本作で監督を務めたのが、2020年の長編1作目『音楽』で「アニメ界のアカデミー賞」と名高いアニー賞のノミネートをはじめ、国内外の多数の映画祭で高い評価を受けた岩井澤健治であることも特筆すべきでしょう。その『音楽』は実写の動きをトレースする「ロトスコープ」という手法で作られていることが大きな特徴で、クライマックスの野外フェスシーンでは、実際にステージを組んで、ミュージシャンや観客を動員してのライブも行われていたそう。自主制作で7年の時間をかけ、4万枚以上の作画をした苦労も報われる、「アニメながら実写のような動きをしている」ことが面白い作品だったのです。

今回の『ひゃくえむ。』でもロトスコープの手法を踏襲しており、それはトラックを全力で走る選手の動きのリアリズムと迫力につながっています。世界陸上2025へ出場している鵜澤飛羽をはじめ、江里口匡史、山本匠真、金丸祐三、朝原宣治などの一流の陸上アスリートの協力のもと、本物のスプリントフォームを3DCGで再現し、それをベースに作画を行っているのです。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

そのリアルさのこだわりは陸上用器具やシューズにも及んでおり、スターティングブロックやスターターピストルなどの陸上用器具は、国内唯一の陸上競技専門メーカーであるNISHIの監修を受け、細部まで表現しているのだとか。

音響の素材録りでは、スパイクにマイクを装着したり、実際にトラックに水を撒いて劇中と同じ状況にしていたほか、実写撮影時にヘアメイクやスタイリストを入れて、キャラの髪形と同じウィッグを用意していたのだとか。アニメの前に実写とほぼ同じ録音や撮影をした作品でもあるのです。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

ロトスコープの手法が劇中で最も発揮されている、本作の白眉は「雨の中の高校全国大会を描いた3分40秒のワンカット」です。

このシーンは岩井澤監督が実際に陸上の大会を観戦したとき、選手が入場してアップをしたのちに、各々が位置につくレース前の一連の動作にドラマ性を感じて、「この部分をあえて長回しで見せたら緊張感も作れて、劇場のスクリーンでも見ごたえがあり、この作品の売りになるのではないか」と思いついたのだそうです。

まさにその通りの圧巻のシーンになっていますし、それこそロトスコープという手法でしかなし得ない、息を飲むほどの、今までにないアニメの表現になっているとさえ思えました。

なお、『音楽』は岩井澤監督が自ら200カット以上を手直しした「ブラッシュアップ版」が、9月19日より新宿武蔵野館で1週間限定のリバイバル上映がされます。この機会に『ひゃくえむ。』と併せて見てもいいでしょう。

3:100m走が決着するまでの「約10秒」につながる、原作の再構成

原作漫画は全5巻(新装版では2巻)と、映画化には比較的向いているボリュームとはいえるものの、それでも106分のアニメ映画化にあたって原作からの取捨選択が行われています。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

特に、高校生の時のエピソードやキャラクターは大胆なまでに刈り込まれており、原作を読んでいた人にとってはやや賛否を呼ぶポイントかもしれません。しかし、筆者個人は、小学生、高校生、社会人、それぞれの時代の物語をバランスよく盛り込んだ調整として納得できましたし、描かれたキャラは魅力的で、過不足なく仕上がっている印象でした。

さらに、原作の序盤の暴力を振るってしまう場面のカットや、小宮が「走るのをやめたほうがいい」というきつい言葉を告げられる場面を小学生の時から時代をずらすといった改変も、それぞれ的確といえるものでした。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

それでいて、原作の特徴や良さを映像化するための工夫も多分に行われています。例えば、岩井澤監督は「魚豊先生の作品はセリフが印象的なため、形は変えてもできる限り上手く落とし込めるように脚本のむとうやすゆきさんと話し合いながら進めていきました」と語っています。

映画の尺にどうしても収まらない「モノローグ」も、岩井澤監督が再解釈して映像に落とし込むアプローチが取られていたのだとか。このことは原作者の魚豊にも最初の打ち合わせの際に提案し、理解を得たうえで、脚本開発が進められていたそうです。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

また、セリフのニュアンス、ユニフォームやシューズに関しても魚豊とやりとりを重ね、そのイメージする世界観にハマる映像になるように進めていった一方で、絵コンテやキャスティング等は監督を中心とした映画側からのアイデアを、魚豊が受け入れた部分もあったのだとか。

作り手と原作者がお互いに柔軟に対応しながらもリスペクトをする、理想的な関係があったことを思わせますし、それは出来上がった作品に確かに反映されていると思えたのです。

(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会
(C) 魚豊・講談社/『ひゃくえむ。』製作委員会

なお、ビデオコンテができあがったとき、原作者の魚豊は「原作通りの映像化は不可能であるうえに、目指すべきではないと僕は思っています。せっかく映像化するならメディアの特性を活かした漫画にはできない作品にしていただきたいですし、今回の企画はそれが達成できているようでうれしいです」というニュアンスのコメントもしていたそう。その言葉は、映像化というアプローチの1つ「理想」ともいえるのではないでしょうか。劇中で描かれる100m走という競技は、始まりから終わりまで文字通りに「約10秒」、そのわずかな時間で決着が着きます。自分のペースで読める漫画とは違って、映像化作品ではその「約10秒」という時間を、心理的な「時間が長く感じる」演出を踏まえたとしても、意識させる必要があるでしょう。

しかしながら、今回のアニメ映画の『ひゃくえむ。』では、「本当にたった約10秒なんだ」と思える、原作を踏まえたとある演出がされており、それは映画向けに再構成された物語があってこそ、より際立っていました。

前述した「選手が入場してアップをしたのちに各々が位置につくレース前の一連の動作を描く3分40秒のワンカット」もまた、その「たった約10秒」を、相対的に際立たせるための描写なのでしょう。

豪華声優陣と『チ。』との共通点もぜひチェックを

さらに、映像化作品としての魅力には、松坂桃李と染谷将太という共に声優経験もある俳優のクセの強いキャラへのハマり具合、さらには笠間淳、内山昂輝、津田健次郎、高橋李依、種﨑敦美、悠木碧という豪華声優陣の参加も大きく寄与しています。特に、トガシがある感情を発露させた時の松坂桃李の熱演は、その時のアニメ表現における「崩れ方」も含めて、とてつもないインパクトがありました。しかも、この場面で松坂桃李は実際に床に突っ伏していて、手持ちマイクでその声を収録していたのだとか。

また、魚豊による漫画およびそのテレビアニメ化作品の『チ。―地球の運動について―』は、15世紀のヨーロッパで禁じられた地動説を文字通りに命がけで研究し「自身の行動や意志が世界を変えるかもしれない」ことも示した作品でした。その「外向き」とも言える意志を描く『チ。』に対して、『ひゃくえむ。』はキャラクターそれぞれがほぼ「内向き」「内省的」というのも面白いところ。何よりユニークかつ納得でき、作品に触れる側も「生き方」や「生きる意味」を考えられる、哲学的な思考は両者で共通しています。そのことも踏まえて、『チ。』も『ひゃくえむ。』も楽しんでほしいです。

この記事の執筆者: ヒナタカ
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「マグミクス」「NiEW(ニュー)」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。

文:ヒナタカ

元記事で読む
の記事をもっとみる