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【黒柳徹子】憧れの大女優が過ごした「激動の人生」とは

  • 2025.9.13
黒柳徹子さん
©Kazuyoshi Shimomura

私が出会った美しい人

【第40回】女優 東山千栄子さん

今年で、終戦から80年が経ちます。日本では、毎年8月にテレビでも戦争の特集が組まれたりしますが、昭和から現在までを振り返るときは、「激動の◯年」みたいなタイトルをつけられることが多いように思います。戦前に生まれた私は、確かに激動の昭和の時代を過ごしてきましたが、私の祖母の時代――明治、大正、昭和を生きた女性からお話を伺うと、激動のレベルが違う、とでも言ったらいいのかしら。「徹子の部屋」でも、憧れていた大女優の方が、移り変わる世情に翻弄されて、想像とは全く違う生き方を選んでいた、なんてお話をされているのを聞くと、「え? そんなことが?」と、本当にビックリします。

そんな、激動の人生を歩まれた女優の代表が、東山千栄子さん。といっても、「ああ、あの方!」なんてピンとくる読者の方は、ほとんどいらっしゃらないかもしれません。映画好きの方なら、『東京物語』のお母さん、と言えばわかるでしょうか。昭和51(1976)年に、86歳で「徹子の部屋」に出ていただいたのですが、その時点で、それまでに当たり役とされた『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役を310回も演じ、体力的に舞台に立つのが難しくなってからはテレビを中心に活躍をなさって、世界でも稀な現役最年長の女優でいらっしゃった方です。「舞台に立つのが難しい」とはいっても、「徹子の部屋」では、「『出ろ』って演出家がおっしゃれば、まあ出られたら出していただきたい」なんておっしゃっていたくらい。

女優になってからも大変なご活躍をされた東山さんですが、実は、女優になる前の人生がすごいんです。まさに波瀾万丈、有為転変(ういてんぺん=世の中は移ろいやすく、儚いものであるという意味)。10歳のとき、母方の叔父の家の養女になり、「ゆくゆくは外交官夫人に」という義母の希望もあって華族女学校に入学。女学校を卒業して2年後には、両親の勧めで、会ったこともない15歳年上の貿易商の男性と結婚することになるっていうんだから驚いちゃいます! しかも、相手の男性はモスクワ在住。その河野さんという方がモスクワから日本にやってきて、挙式後しばらくして2人でモスクワに渡ったんですって。ウラジオストクまで船で渡って、それから10日間もシベリア鉄道を乗り継いで……。帝政ロシアの時代です。モスクワで着る洋服は、三越でも作れず、帝国ホテルの地下の、中国人が経営する洋品店で作ってもらったそうです。西洋風の帽子や靴などは東京にはなくて、わざわざ横浜まで買いに行ったというんですから、明治の終わり頃といっても、まだ当時は西洋のものがいかに貴重だったかがわかります。

モスクワに移住してからがまた大変! モスクワでは、バレエにオペラに音楽に絵画と、様々な西洋の文化に触れて刺激を受けていたのですが、旦那様から「このままでは、みっともなくて社交界に出せない」と、単身フランスに留学させられてしまうんです。それまでは、「お金の勘定をするのは下品」と教えられていた東山さんが、初めて自分でお金を持って買い物をする生活を始めて、「銀行には、1年分の生活費が入れてあるから安心して使っていい」と言われたお金を、4ヵ月で使い切ってしまったそうです(笑)。それで、「モスクワに帰ってこい!」となって、旦那様の指導のもと、本をたくさん読み、芝居や絵画、音楽やソーシャルダンスなんかの教養を身につけたんですって。そのとき、モスクワ芸術座で観たチェーホフの『桜の園』に、強く心惹かれたようです。先祖代々受け継がれてきた美しい“桜の園”を手放すことになる貴族のお話ですが、故郷から遠く離れて暮らす東山さんだからこそ、主人公のラネーフスカヤ夫人の心情と重なる部分があったのかもしれません。

日本での休暇中に、ロシア革命(1917年)が起こって、ロシアには戻れなくなってから、東山さんは「女も男の方と同等の意見が出せるようにならなければ。そして経済的にも、自分が独立しなければ、男女同権なんて言ってられない」と思い立ちます。35歳で築地小劇場という劇団に入団して、そこからは芝居一筋。「徹子の部屋」に出ていただいたのが、ちょうど女優生活50年にあたる年でしたが、「出られるもんなら一生懸命で、まぁおしまいかもしれないけれど、また次があるかもしれないっていう気持ちで、いつでもおります。芝居が好きでしょうがないものでございますからね」とおっしゃっていたのが印象的でした。

東山千栄子さん

女優

東山千栄子さん

1890年生まれ。千葉県出身。貴族院議員を務めた渡辺暢の二女で、10人きょうだいの3番目。1899年、母方の叔父である法学者の寺尾亨の養女となる。華族女学校(のちの学習院女子中・高等科)を経て、現在の白百合学園でフランス語を学ぶ。1909年、結婚してモスクワへ渡る。17年帰国。25年築地小劇場に入団。30年青山杉作らと劇団新東京を結成。44年、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎らと俳優座を結成。舞台、映画、ドラマで活躍。56年、女優として初の紫綬褒章受章。日本新劇俳優協会初代会長に就任。80年没。享年89。

─ 今月の審美言 ─

いつも「最後かもしれないけれど、次があるかもしれない」と思いながら舞台に立っている。出られるものなら一生懸命で。

取材・文/菊地陽子 写真提供/朝日新聞社【Getty Images】

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