1. トップ
  2. 恋愛
  3. 史実で読み解く『トンイ』⑩生きていれば廃妃もなかった!? 王后の父の「絶対権力」

史実で読み解く『トンイ』⑩生きていれば廃妃もなかった!? 王后の父の「絶対権力」

  • 2025.9.10

時代劇『トンイ』でパク・ハソンが演じた仁顕(イニョン)王后は視聴者からも人気が高かった。パク・ハソンが清楚に演じていたことも高評価につながったが、そもそも仁顕王后が聖女のように上品で品行が正しかったのも大きかった。

そんな仁顕王后はなぜ粛宗(スクチョン/演者チ・ジニ)の二番目の妻として選ばれたのか。粛宗は最初の王妃を1680年に亡くした後、1681年に仁顕王后を迎え入れている。

それは政治的な思惑があったからだ。仁顕王后は当時の派閥闘争で優勢だった西人(ソイン)派の重鎮の娘だった。その重鎮こそが閔維重(ミン・ユジュン)である。果たして彼はどのような人物だったのだろうか。

閔維重は1630年に生まれている。官僚として大きく出世し、1680年に政権の中枢に入った。この年に粛宗は官僚の人事異動を積極的に行って西人派を重用した。その結果、対抗していた南人派が勢いを失ってしまった。

優勢な西人派の首脳となった閔維重は兵曹判書(ピョンジョパンソ/兵士を管轄する役所の長官)だった1681年に、次女を粛宗の妻とすることに成功した。こうして閔維重は国王の岳父になったのである。

1682年には閔維重が王室の親衛部隊の創設を主導し、自ら部隊の大将に昇進している。兵士を統率していた閔維重は王室の部隊まで掌握し、大変な実力者となった。

『トンイ』
(写真=韓国MBC)
西人派の首脳となった人物

朝鮮王朝の歴史では、国王の外戚が権力を握ったケースが何度もあった。結局、閔維重も外戚として重大な権利を得るようになった。

こうなると批判も大きくなってくる。

特に南人派は徹底して閔維重に対抗しようとしたのだが、それでも閔維重は安泰だった。亡くなったのは1687年で、57歳で世を去った。まさに自らの人生を絶頂のうちに終えたのである。

閔維重がいなくなってからの西人派は勢いを失っていく。南人派は張禧嬪(チャン・ヒビン)を支持することによって勢力の拡大を成功させた。張禧嬪が粛宗から寵愛されていることを巧みに利用したのであった。

1688年には張禧嬪が粛宗の長男を出産して、ますます南人派は勢いを得た。逆に、西人派はどんどん立場が悪くなっていき、1689年に仁顕王后が廃妃(ペビ)となってしまった。

父親が生きていれば…。仁顕王后が廃妃になることはなかったかもしれない。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

元記事で読む
の記事をもっとみる