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新学期を前に知っておきたい、男らしさが子どもを苦しめる理由。“ふつう”を押しつけない教育とは

  • 2025.9.1

学校は“ふつう”が特濃な場所。男社会は高圧釜のなかのよう

小学校教員として勤務していた当時の星野俊樹さん。
小学校教員として勤務していた当時の星野俊樹さん。

──本書冒頭には、「社会が学校が押し付ける“ふつう”に揺さぶりをかけたいと考え、小学校の教師になりました」とありました。星野さんが実践の場として学校を選んだ理由を教えてください。

それこそ大学卒業後すぐ、カルチャー誌の編集者として働き初めて、そこで取材する人たちの多くが“ふつう”に揺さぶりをかける仕事をしていました。そうすると、自分には何ができるんだろうと考え始めるわけです。自分は別に、音楽ができるわけでも演技ができるわけでも、アートが作れるわけでもない。でもせっかく転職するんだったら、大きなアクションをとってみたい気持ちがありました。あとは、強い情動が自分の内から湧き上がることじゃないと仕事として続かないと思っていて、それは何だろうと考えたときに学校や教育に対しては、「こうしてほしかった」「これは本当に嫌だった」みたいな痛みや傷つきが残っていることに気がつきました。加えて、学校とは関係なく子どもの頃から、「“ふつう”ってなんだろう」とか「なんで“ふつう”を押しつけてくるんだろう」と社会に対してずっと思っていたんです。私の場合は大学に入って学問と出合うことでだいぶ楽になりましたけど、学校は極めて“ふつう”が特濃なところ、息苦しいほど“ふつう”で満ちている場所だと思ったんです。

ジェンダー・セクシュアリティの観点からだと、異性愛規範や性別二元論が“ふつう”ですが、それだけじゃないですよね。発達の面で言えば、たとえば定型発達。つまり、“ふつう”の子どもを基準にしてカリキュラムが組まれています。また、40人近い子どもがひしめく教室は、ハイリー・センシティブ・チャイルド(HSC=とても敏感な子ども)にとってノイズにあふれた世界です。多くの“ふつう”の子どもは気にならないざわめきも、かれらには強いストレスとなり、学校生活をさらに過酷なものにしてしまいます。挙げればキリがありませんが、いろいろな意味でぜんぶの“ふつう”が定まっている場所が学校なんです。だからこそ、いちばん揺さぶり甲斐があります。

──星野さん自身、高校生までは学校内の男社会ヒエラルキーが苦しく、そこで生き抜くことに精一杯だったそうですね。

高圧釜のなかに閉じ込められているような…… そんな感覚でした。学校が本当に嫌だけど、当時は不登校という選択があることすら知りませんでした。だから、長期休みが終わりに近づくにつれ、「あぁ、またあの男ノリに付き合わないといけない、地獄の学校生活が始まるのか……」と絶望的な気持ちになっていました。

じゃあどうしてその環境でサバイブできたかというと、いわゆる「スクールカースト」で治外法権的なポジションにつくことでした。つまり、成績がよく一目置かれるけれど、エキセントリックな言動をすることによって、みんなの脅威にならないようなトリックスター的存在です。勉強のできる不思議ちゃん的な。自分でも戦略的によく立ち回ったなと思います。やっぱり男性優位な社会において、男らしくないこと、つまり男らしさから降りることは、男らしさを信仰している男性たちからすると脅威のように受け止められるんですよ。「男は強く」「男は感情を抑えろ」というような社会に根付いたジェンダー規範に対する異議申し立てを私がしてるように見られてしまう。男らしさにフィットしない私の存在が、ほかの男性たちをざわつかせてしまうんです。当時の私はうまくそのことを言語化できませんでしたが、無意識にわかっていたように思います。

──“男らしさ”から降りて解放されるのではなく、逆に教室内で脅威になってしまうと……。

そうなんです。私のような男らしさから降りる存在がいることで、男らしさを内面化しその価値を信じて必死に合わせようとしている男たちのアイデンティティを揺さぶってしまう。「俺たちが信じていることをこいつは信じてないぞ!」みたいな。男であることが優位な学校や社会のなかで、その優位性から降りる振る舞いは規範とか秩序への反逆のようにみなされますね。もちろん私は「反逆するぞ!」みたいな気持ちでやってないし、自分らしく生きていたら感情的になったり涙が出たり──、“男らしさ”にそぐわないことだってあるじゃないですか。だから、このままだったら周りの男たちに「危険な存在」だとみなされて、排除されたりボコボコにされそうだったのでトリックスターになるしかなかった。

──学生時代にはじまった星野さんの苦しみは、いつ頃まで続きましたか。

ジェンダーやセクシュアリティに関する概念や言葉を知らないから、ぼんやり「このノリなんか嫌だな」と思いつつも、そんなふうに考えてるのは自分だけかな、と悩んでいました。男ノリを楽しめない自分は“ふつう”じゃないしおかしいのかもしれないといううっすらとした葛藤はずっとあって、それに反抗しつつもどこかで「自分は男として何かが欠けてるんじゃないか」と考えたり……。だからフェミニズムの本を読んで初めて「ホモソーシャル」という概念を知ったとき、自分が感じた違和感は間違ってなかった! と感性を褒めたくなりました。救われましたね。問題はまず認識しないと向き合えないけれど、当時は何が問題かわかるまでの知識を持ってなかった。だからそれまではずっと、ストレスと違和感がジリジリと自分を蝕んでいくしんどさがありましたよ。

──子どもの直感的な違和感こそが核心をついていること、よくある気がします。

ありますね。私が担任をしていたクラスにも鋭い子がいました。当時そのクラスには、みんなで決めたルールを破ったり騒ぎ立てたり、自分たちよりも力の弱い子たちに暴力をふるったりして、ほかの子どもたちの学習権を侵害する男の子たちが多くいました。そんな集団に伝わる指導を考えたとき、自分が彼らの「ボス猿」的存在になればいいのかもしれないと。彼らとホモソーシャルな関係を結んだら、うまく“統率”できるのではないかと考えました。そのために全く私の柄ではない「俺は〜だぜ!」みたいなマッチョなノリで彼らに接してみようと思ったんです。それで実践してみたら、ある子が近づいてきて「自分のこと、俺って言うのやめて。僕はそういうホッシー(星野さんの通称)は好きじゃない」って真顔で言われたんです。それこそ小学2年生の子がですよ。男らしいノリから距離を置いている彼は、無理して迎合している私に対する違和感を抱いたんでしょうね。子どものそういう反応を目の当たりにしたときに、私が安易な解決策を選び取ったことは見抜かれているなと気がついて反省しました。

そんな私自身も子どもの頃、男らしいノリに対する違和感をその子と同様に抱いていました。たとえば、運動会で男子だけに課された上半身裸の騎馬戦がとにかく嫌だった。けれども、そういう違和感を言葉にしていいなんて思っていなかったから、それこそ“ふつう”を装ってやっていたけれど心は死んでいましたね。大人は子どもの感受性を舐めてはいけない。子どもは言葉を知らないから言語化できないけれど、本質的な違和はしっかりと感じ取っています。

ジェンダー規範を問い直す学びはみんなを幸せにする

Japan classroom

──星野さんは“ふつう”に揺さぶりをかけるため、「生と性の授業」でフェミニズムやジェンダー・セクシュアリティについて子どもたちに伝えられています。ここまでのお話を聞いても多様な生徒がいるように、女・男やゲイ・ヘテロセクシュアルだけでなく、そこにはたくさんのグラデーションがありますよね。

性別を問わず誰もが幸せに自分らしく生きられる社会を目指す、それがフェミニズムです。子どもや保護者たちに「生と性の授業」をする理由を話す際には「みんなが幸せになるための授業なんです」と伝えています。つまり授業を通じてジェンダー規範を学ぶことで、自分がどんな規範にとらわれているかがわかります。これまでどんな規範に制限や抑圧を受けてきたのか、言語化することができる。すると、自分を縛っていた規範を解除することができるようになり、自分自身と健全な関係を結ぶことができるようになる。人は自分と健全な関係が結べるようになってはじめて、他者とも健全な関係が結べるのではないでしょうか。だから、「生と性の授業」は、これからみんなが成長していくなかで出会うであろう大切な人たち、たとえば、親友やパートナー、自分の子どもといった人たちと健全で豊かな関係を結び、幸せになるための学びです、と伝えると子どもも保護者も納得します。

さらに、ジェンダー規範に捉われないための働きかけや授業を実践していると、子どもたちの遊び方が変わってきます。自分たちの可能性を確かめるように、未経験なのに男子たちがやっているサッカーに加わる女子たちが出てきたり。彼女たちは後にサッカークラブを立ち上げました。また、女の子たちがやっていた編み物に挑戦する男の子があらわれたり、女の子の遊びと見なされ、女の子しかしていなかった一輪車に挑戦しようとする男の子が出てくるなど、どんどん変化が起こります。

──「生と性の授業」に対する生徒の反応や感想文がとても豊かで、その適応のスピードにも圧倒されました。子どもの世界に希望を感じる一方で、大人の世界は果たしてどうなのか問いたくなります。

あまりのギャップに、くらくらしますよね(笑)。

──「教室と社会のあり方はリンクしている」とも星野さんおっしゃっていますが、大人の世界でも変化を起こしていくことができると思いますか。

変化を起こしていくことはできると思うし、そう信じることが教育です。ただ、難しい。大人にジェンダー平等のための教育にどう関心を持ってもらうか、巻き込んでいけるかは、伝え方が重要だと考えています。それこそ「生と性の授業」は全員が幸せになるための学びなんです。だから、大人のあなたにも幸せになってほしいという気持ちを届けたい。

この本にも書いたように、私の父は男らしさに非常に強いこだわりを持っていて、常に周りの人たちに対しマウンティングをし、他者と支配的な関係しか築くことができませんでした。家庭内では、母にDVをするだけでなく、息子である私にも肉体的・精神的な虐待をし続けてきました。私はそんな父に対していまだに強い怒りと憎しみを抱きつつ、「なぜ父はこんな人間になってしまったのだろう」という思いもあったりします。男らしさに執着しなければ、父にも他者と繋がって自分らしく生きられた未来があったはずなのに、現在の父は家族のなかで孤立し、自分自身に対するケアを一切せず、セルフネグレクトのような状態で生きている。生きているとはいえ、まるで“緩慢な自殺”のような生き方をしている。彼もまた、”男らしさ”の呪いが生んだ被害者ともいえます。そんな父を見ると、哀れで気の毒にもなります。

だから父のような男性たちを見ると、彼らの“男らしさ”への過度なとらわれを楽にするために、自分ができることはあるだろうかと考えてしまいます。もうこういう男性たちには変容する可能性などない、と彼らを糾弾して切り捨てることは簡単ですけど、自分にはそれがどうしてもできない。理想論やきれいごとと揶揄されるかもしれないですが、父のような男性たちに“男らしさ”からどうにかして少しでも自由になってほしいと願っています。そう願うのであれば、まずは私は自分の父と向き合うべきだとも思うのですが、父に対していまだにどうしても向き合えない自分がいます。正直なところ、父と向き合ってこれ以上、自分が傷つくのが怖いんです。

──「みんなが幸せになるため」であっても、多様な属性や家庭環境の違い、知識や経済的な差を持つ子どもたちに対して授業を行うのは容易ではないと思います。学校と家庭・保護者はどのように連携をしていけるでしょう。

教員の長時間労働が問題になっているようにすごく消耗するなかで、保護者には先生のサポーターでいてほしいなと思っていて、私は保護者が反応をくれるだけで救われていました。「学級通信に書いてあったこと共感します」とか、そんな一言でもいいんです。あとは、父親というか男性がもっとコミットしてほしい。教員から見えるのって、母親とされる女性ばかりなんですよ。なんでこんなにも、男性が不在なんでしょうか……。今、教育現場ではジェンダー平等のための教育の必要性が叫ばれていますが、実施している学校は少ない。ジェンダー平等や人権に対する教育現場の意識はまだまだ低いと言わざるをえません。しかし、そんな現場を変える力を実は保護者たちが持っていると知ってほしいのです。どんな組織でも言えることですが、内部から変えることはとても難しいものです。特に日本は外圧がないと組織は変われないところがある。だからこそ、保護者たちが「ジェンダー平等のための教育をしてほしい」と学校に外圧をかけてほしいんです。それに呼応する先生たちは必ずいるので、そういう先生たちと連帯してほしいと思います。その際に男性の声は大きな影響力を持ちます。なぜなら学校もまた、男性優位社会だからです。ですから、子どもの学びを豊かにしたい、学校をジェンダー平等と人権が重視される場所であってほしいと願うのであれば、男性はその影響力を自覚的かつしたたかに行使してほしいのです。もちろんすべての男性がそうではありませんが、そこに無頓着な男性たちがあまりに多いように感じています。

子どもの背景にはさまざまな環境があって、それぞれ生きづらさも違う。教員としてもどかしいのは、子どもに働きかけるしかできないことです。もちろん保護者に向けた発信もできるけれど、かれらを変えることはできない。というか、人を変えるなんて傲慢ですよね。教師は子どもに学びを保障することしかできません。同時に子どもが抱える生きづらさを少しでも楽にするためには、保護者が自身のあり方を見直す必要があります。だから、熱意のある教師はつい保護者に対して“啓蒙的”なアプローチをしてしまうけれど、そういうやり方は保護者から拒否されるし、最悪の場合には保護者との関係性が壊れます。私もそんな失敗を幾度もしてきました。

そしてあるとき思ったんです、あくまで教師が働きかけるのは子どもだけでいいのだと。そもそも教師は保護者の教育係ではありませんし、保護者を“啓蒙”するなんて傲慢ですよね。だから、保護者の変容は社会におけるさまざまな第三者や場によってなされればよいのだと思うようになりました。他方で、どれほど学校でジェンダー平等や人権についての授業をしていても、子どもが家庭で暴力的で支配的な関係に晒されていたり、ジェンダー規範を押し付けるような言葉をかけられていたら元も子もないわけですよ。ザルで水を掬っている感じ。けれども、教師はザルであっても掬い続けることしかできないんです。

圧倒的な権力差のなか、大人と子どもは健全な関係を築けるのか

『とびこえる教室 フェミニズムと出会った私が子どもたちと考えた「ふつう」』(時事通信社)
『とびこえる教室 フェミニズムと出会った私が子どもたちと考えた「ふつう」』(時事通信社)

──星野さんは過去に「子どもは大人が好むように自分を方向づけていくことがある」と述べられています。力関係では“弱い存在”の子どもが健全でいられるよう、学校と家庭の大人はどんなことができますか。

社会学者・平山亮さんの言葉を借りてお答えすると、「相手が圧倒的に弱い存在であることを認めつつ、それでも相手との関係が支配従属になってしまわないようにする実践が求められているだろう」と。弱者である子どものことを完全にはわかっていないと大人が意識し続けることしかできない、そう平山さんはおっしゃっています。「子どもにとっての最善は私がいちばんわかっている」という認識こそが、子どもに対する支配にほかならないわけです。よくある構図ですよね、でもそれって子どもの人格とかを含めすべてを枠に当て嵌めている。善意であっても、それを子どもが本当に求めているのかはわからないじゃないですか。「私は子どもにとってのベストをわかっていないかもしれない」と、子どもの存在を全掌握した気にならず関わることが必要です。そのためには大人が常に自分自身の言動を振り返って、本当によかったのかなと躊躇うこと。自分の判断する“ベスト”が間違っている可能性を常に意識する慎重さが大事かなと思います。

──それって、不安ですね。

大事なのは、子どもに「だいじょうぶ?」「どうしたい?」というケアの言葉がけをすることだと思います。もちろん大人の顔色を窺って模範回答を言ってしまうこともありますから、どこからが子ども自身の意思なのかということは留意し続けなければなりません。忖度している可能性も見込んで、考えなければいけないですね。そもそも子どもが大人に忖度するような関係性を大人が築かないことが大事だと思います。そのためには、もちろん時間と実践が必要で、「この先生には本当のことを言っても怒られないな」っていう経験が積み重なっていくと、信頼関係が構築されます。そうすると相手に忖度せず自らの意思を主張できたり、伝えられるようになるのかな。と思いつつ、どこまで行っても大人と子どもの間には権力差があるっていうことは忘れちゃいけないですよね。

大人にはどれだけの権力があるかを考えるときには、自分自身が子どものころを思い出してほしいんですよ。大人にされて嫌だったこと、どんな言われ方をして傷ついたか──、過去の自分をちょっと呼び出してみてください。ヒントはご自身の過去にあると思います。

──本書には、ある問題に対してマイノリティ性を持つ当事者が問題提起の声をあげると「偏っている」「感情的」と言われる一方で、非当事者がその問題を指摘すると「理性的」「中立的」と評価され、社会に受け入れやすいことが指摘されていました。当事者と非当事者はどのように連帯していくことができると考えますか。

コラムニストの太田尚樹さんが「優しさの半分は知識だ」とおっしゃっていて、私はその言葉がすごく好きなんです。優しくありたいとは多くの人が思っているけれど、知識なき優しさは一方的だったり見当違いだったり、なんだったら抑圧しかねないときもあります。もし差別や抑圧を目の当たりにして、その問題に対し何かしらのアクションをとりたいと思うのであれば、まずは一次資料である本で学ぶことが大切です。知ると自ずと、足りないことや自分にできることが浮かび上がってくると思います。

あとは、当事者と非当事者に分けるのにも限界がありますよ。非当事者であっても、知識を得ることで自分の部分的な当事者性に気がついたり、非当事者と思っていた自分のアイデンティティが変容していったりするんですよね。どうやら明確な当事者と非当事者は存在しないぞ、とわかってくる。学ぶ・知ることは、当事者と非当事者の間に引かれている境界線がだんだんぼやけていって、それがブレンドされることなのではないでしょうか。とくに性自認やセクシュアリティなんて、濃淡差はあれど多くの人に当事者性があると思うわけです。もちろんグラデーションはありつつ、それがわかると真の連帯が始まるんじゃないかな。

──最後に、星野さんがとくに今の世界で変わってほしいと願う“ふつう”を教えてください。

私がこの本を通してとくに変わってほしいと願っている“ふつう”は、多様性とはマジョリティがマイノリティを受け入れることだ、という前提です。そういう構図だとマイノリティは“受け入れてもらう側”とされ、そのためには礼儀正しく耳障りのいい言葉で角を立てずに語ることが求められますよね。それこそ、本書のなかでも述べた「奴隷根性を持ったマイノリティ」です。けれども、そうでなければ聞く耳を持ってもらえないとか、理解してもらえない空気がいつの間にか当たり前になっている。でもそれこそが問い直されるべき“ふつう”なんだと思うんですよ。

こういった構図を説明する際に使われるのが、「個人モデル」と「社会モデル」という視点です。個人モデルにおいて生きづらさや困りごとは個人の責任とされて、解決のための適用や努力は当事者側に求められる。一方で社会モデルは、困難が生じる背景には制度や文化、社会的な前提があるんじゃないかと問うことで構造の側に変化を求める視点なんですね。私は、個人モデルが当然とされてきたこの社会において、社会モデルの視点が普通になってほしいと願っています。つまり当事者の声の出し方ばかりが問われるのではなく、なぜその声を出さなければならないのかという構造そのものに目が向けられる社会です。そういう社会に変わってほしい。

7月の参議院選挙では、ソーシャルメディア上で「行き過ぎた多様性」という言葉を結構な頻度で見聞きしました。そのたびに心が削られるんですよ。その言葉は、マジョリティが認めた範囲内でのみ多様性は許容される、という前提に立っているからです。マイノリティの声を“わがまま”とか“過剰”だと切り捨てようとする態度こそが、構造の変化を拒んで既存の秩序を温存する。多様性社会を作っていくことは本来、誰かが誰かを受け入れるということではなく、誰もが初めからそこにいていいんだよっていう前提を作っていく営みなはず。その前提を築いていくために、マイノリティ側の“慎ましさ”ではなくて、社会の側の根本的な問い直しが必要なんだと言いたいです。

URL/https://bookpub.jiji.com/book/b662841.html

Photos: Courtesy of Toshiki Hoshino Interview & Text: Nanami Kobayashi

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