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なりたくてもなれない「魔性の女」、この人こそ、最強の「魔性の女」?

  • 2025.7.13

演技なのか素のままかが不明なほど、リアルな世紀の「魔性の女」とは誰か?

前回は「誰もが虜になる女」を、映画の中から3人探したが、今回は「魔性の女」編。

そもそも「魔性の女」は、小説では非常によく現れるが、映像化された「魔性の女」が実はとても少ないことに気づいていただろうか? というのも「魔性の女」は、見た目に特徴的なものがあるわけではない。むしろ、ある種の気配によって人を惑わす“魔性”というものを演じるのは、恐ろしく難しいことだからなのだろう。それこそ小説でならば、どのようにでも想像力を掻き立てることができるけれど、逆に映像だとまったくごまかしが利かない。えー、ちっとも魔性じゃないじゃん!と言われてしまうと、映画はそこで終わるから。致命的なリスクを冒したくないということから、「魔性の女」を描く映画はそう多くないのである。

映画史に残るほど有名な「魔性の女」といえば『氷の微笑』のシャロン・ストーン。下着を着けていないかもしれないという危うさの中で、脚を組み替えるシーンはあまりにも有名だが、このシーンがなかったら、この映画はすぐに忘れられてしまったかもしれない。シャロン・ストーンは美しくセクシーだが、そこ止まり。同性から見て平然としていられるのは、「魔性の女」として成立してはいない証だ。

そういう意味では、やはり本人にそうした“魔性”性が多少なりともないと、同性をゾクゾクさせるほどの妖しさや怖さは、表現できないということなのだろう。であるならば、女優史上もっともやばい魔性を持っていたのは、やはり20世紀のセックス・シンボル、ブリジット・バルドー。そこまで遡らざるをえない。もうどんな役をやろうと魔性があふれ出てきて、常にハラハラドキドキさせられる。そういう意味で、この往年の女優の若い頃だけは、何らかの形で見ておくべきなのだ。

実際に『素直な悪女』という作品では、「あの女は男を滅ぼす」と言われる幼き魔性を演じて、まさに見るものを惑わせて話題を集めたが、監督は当時の夫(ロジェ・ヴァディム)なのに、共演者の俳優と不倫をして離婚に至るという、とんでもない悪女っぷりは、演技なのか素のままなのか、本当にわからない。「魔性の女」はそのぐらいでなければ。

ちなみに、この人はマリリン・モンローと世界の人気を二分したセックス・シンボルだったが、モンローは魔性とは言われず、バルドーだけが魔性の称号を得ていたことに、単なる色気の塊扱いされたモンローは悩んでいたともされる。魔性って、それくらい得ようとしても得られない不思議な力なのである。

少なくとも今の時代、「魔性の女」は旬ではない。そんな面倒くさい女にわざわざ関わろうとする冒険心あるゆとりある男はもういないから。しかし、どこかに魔性をひとかけら持っている女は、やっぱりその分、冒しがたい女性力が輝くはず。男に魔性は宿らない、女の特権だからこそ、決して無視できない魅力の一つであることに変わりはないのだ。

透き通るような透明感の魔性に勝るものは、この世に何もない

おそらく、あらゆる美しさの中でも、最上級なのが“透明感ある魔性”ではないだろうか。ただの魔性も難しいが、さらに難易度が高くなる。なのに、透明感ある魔性を見事に演じた女優は3人もいた。

一人は、存在そのものがもはや“透明感の化身”のような人、エル・ファニング。子役時代から異彩を放っていたのは、ここまでの透明度って見たことないというくらい、どの作品を観ても、目を見張らせられるから。

ただ、彼女の場合は、単なる妖精ではない。子役時代にすでにひとつまみの甘やかな毒のようなものを宿していたからこそ、その透明感が、なおさらにまぶしく感じられ、人を惹きつけて離さないのだろう。アンジェリーナ・ジョリーが継母を演じた『マレフィセント』で、オーロラ姫を演じた時の、この世のものとは思えない透明感には、清純な姫なのに、何か怖さを感じさせられたはず。魔性と呼びたいだけの力強さがあったのだ。

やがてそれは衝撃のサスペンス映画『ネオン・デーモン』で、一気に昇華する。特別な美しさを持った16歳のモデルへの嫉妬、そして復讐。美をめぐる憎しみのグリム童話的展開も戦慄だけれど、それ以上に透明感を持つ魔性のすごみがあまりにも強烈。透明感至上主義の時代、それは必ず目撃しておくべきだ。

2人目は、今はもっぱらちょっと危ういフェムテックアイテム満載のライフスタイルブランド、Goopの創設者としての露出の方が多くなったグウィネス・パルトロウ。しかし、彼女が20代の頃の、なんとも透明度の高い美しさには誰もが打ちのめされる。ディケンズの名作『大いなる遺産』の映画化で、主人公が子どもの頃から憧れ続ける美少女が成長し、大人になって再会した瞬間のグウィネス・パルトロウは、透明感の魔性が炸裂し、思わず息を呑んだほど。

彼女が演じた大富豪の孫は、少女の頃からどこか謎めいていて、つかみどころがなく、成人するとその神秘性が増していた。そして主人公をさまざまに翻弄するのだが、その存在感には見ている方がちょっとめまいを感じるほど。彼女のキャスティングだけで、この映画は成功。こういう透明度はなかなか描けないから。

残念ながら私たちアジア人は髪色もあって、どう頑張ってもああいう純白な透明魔性は生めないが、ひょっとして“あのちゃん”のごとき不思議な透明感は不可能ではないのかも。そう、透明感は神秘的で、近寄りがたく冒しがたい。一度見たら忘れられなくなるからこその、魔性なのである。

そして、本人にその自覚がない無邪気な透明感にこそ、魔性がほとばしるのをこれでもかと見せてくれたのが、『真珠の耳飾りの少女』。画家フェルメールの名画が生まれたいきさつを映画化しているが、汚れなきメイドの少女に果てしない官能を感じた画家が、その姿を無心に描くというストーリーだけれど、その少女は描かれたことに性的な刺激を受け、その直後に恋人のもとへと疾走する。特に事は起こらないのに、その分、ひどくエロティックな映画だった。

つまり限りない透明感は、非常に官能的だということ。透明感って、だから、ひどく罪深いのだ。

ゾクゾクするような「魔性の女」が、一転「退屈な女」に見えてしまう残酷

それこそ「魔性の女」を演じられるのは、その本人に多少の魔性がなければ無理と言ったが、まさにこの人は自らの中に魔性を宿す人。『真珠の耳飾りの少女』で、無言のまま、ただ立ち尽くすだけで、画家の創作意欲を狂おしいまでに掻き立てたメイドの少女を演じたのが、スカーレット・ヨハンソンだった。この人はまったく別の映画『マッチポイント』でも、同性から見ても何だかゾクゾクするほどの「魔性の女」を演じた。いや魔性って本当に実在するものなのだと確信するほど、さりげないのにゾクゾクする魔性を。

婚約者の兄の恋人役で登場するスカーレット・ヨハンソンは、言うならば、絶対に恋をしてはいけない相手なのに、主人公はどんどん惹かれていって、気も狂わんばかりになる。もし自分が男なら、あんなふうになっただろうと思うほど、性的誘因パワーがものすごいのである。

で、結局結ばれてしまうのだが、義兄と別れたスカヨハ演じる女は、主人公の子どもを妊娠し、主人公との結婚を望むようになる。もっとも恐ろしいのは、その瞬間から魔性が消えること。魔性ってパタリと消えるのだ。

実は、これと同じような現象が、ロマン・ポランスキー監督の傑作『赤い航路』でも描かれている。主人公の男が女豹のような魔性を持つ若い女性に一目惚れし、同棲し、愛欲に溺れるが、男が女にだんだん飽きてくると、彼女の魔性がまさしくパッタリなくなるのだ。もうあっけないくらいパッタリと。で、ゴミのように捨てられる。

そりゃあ映画だもの、と言うだろうが、演技と演出だとわかっていても、魔性というのは、なんと儚いのだろう、と思い知らされる。ましてや、どちらも男目線で描かれた映画、立場が逆転すると、魔性なんてあっという間に消し去られることを描きたかったのだとすれば、さらに恐ろしい。結局のところ、魔性なんて幻想なのだ、と男たちは言いたいのだろうから。手に入れたくても手に入らない、だから、限界まで達する欲望が魔性という幻覚を見させるのだ……そんなふうに映画をまとめたかったのだろうから。

しかも、魔性を失ってからの彼女たちは、ちょっと信じられないくらい魅力を失い、醜くさえ見える。それはあんまりじゃないかと思うほどの残酷さで、男が飽きた時の女の変貌が、客観的に描かれているのだ。皮肉にも、そうした変貌までもリアルに演じた『マッチポイント』のスカーレット・ヨハンソンの演技は、映画賞でも高く評価された。

魔性は、男たちの幻想? 仮にそうであっても、単なる美しさではない。とても罪深く、そして官能的で危うい。そういう魅力の正体をぜひ覗いておきたいのである。知るだけで磨かれる、それこそが永遠に謎めいた女の魅力、魔性なのだから。

今どき「魔性の女」は旬ではない。そんな面倒くさい女にわざわざ関わろうとする冒険心あるゆとり男はもういないから。でもどこかに魔性をひとかけら持っている女は、やっぱり冒しがたい女性力が輝くはず。決して無視できない魅力の一つであることに変わりはないのだ。

撮影/戸田嘉昭 スタイリング/細田宏美 構成/寺田奈巳

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