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サラ・バートンがジバンシィで切り拓く、新たな道

  • 2025.7.12

「ちょっと鏡の前に立ってみてくれる?」

パリにあるジバンシィGIVENCHY)の豪奢なスタジオで、サラ・バートンの1日が始まる。彼女はクリエイティブ・ディレクターとして初めて手がける春夏コレクションのフィッティングに臨もうとしていた。フィッティングモデルのハナ・グリゼリが、白いオーガンザのドレープが美しいキャリコ生地のドレスを着て彼女の前に立つ。ブラカップには青鉛筆でそれぞれ左、右と印が付けられたままだ。その近くには、淡い色のボーン入りのドレスと黒い構造的なジャケットが、宙を浮かぶようにハンガーレールに掛けられている。バートンが着ているのは、「私のユニフォーム」というデニムに白いコンバースCONVERSE)のスニーカー、襟のない白のコットンシャツ。23年間、バートンと仕事をしてきたパターンカッターのジュディ・ハリルが彼女のために何着も仕立てたうちのひとつだ。

デザイナーの中には、いくつかスケッチを描き、最後に完成品をちょっと見るだけ、というタイプもいるかもしれないが、バートンは生身の人間をモデルにして、自ら服を作ることで知られている。彼女はあちこち機敏に動き回り、生地の裁断、ピン留め、生地選び、春夏シーズンのショルダーの形決めなど、さまざまな仕事をこなしていく。(「ハンガーに掛けた状態で見ることもできるけど、実際に着てみると全然違う」と彼女は言う)。バートンの仕事仲間たちは、ジバンシィに来客があると、冗談半分で「コートをハンガーに掛けないでくださいね。サラに切られるかもしれないから」と注意している。

「裏地をクレープデシンにして、柔らかさを出しましょう」とバートンがスタジオのスタッフに指示する。

グリゼリの隣に立ち、鏡を見ながら目を細めるバートン。

「コルセットは、この長さが必要?」

コルセットが6センチほど引き上げられる。

「もう少し短くした方がいいかも」

彼女は素早い身のこなしでグリゼリの背中側からはみ出したオーガンザを切り取ると、今度は床にひざまずき、手首に針山を巻き付けたまま、はさみで裾をカットし始めた。

「そうそう。ハナ、ゆっくり回って……」

バートンの口調は穏やかで、その細やかな気配りは外科医を思わせる。フィッティングには、ウィメンズウェアの責任者であるマッテオ・ルッソ、パリのアトリエの責任者であるタチアナ・オンデ、ロンドンでバートンとともにデザイン画を立体に起こす仕事に携わるジェームズ・ノーランなど、数名のスタッフが関わっている。ジバンシィで新たに加わった仲間もいれば、バートンが1996年から2023年まで在籍していたマックイーンMcQUEEN)でともに働いた、忠実なスタッフたちもいるが、皆、手術をサポートする看護師役としてこの場に立ち会っている。今にもバートンがメスや鉗子を要求するのではないか、という雰囲気だ。

2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。
2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。

ロンドンに住むバートンは、先週だけでパリに2回、ロサンゼルスに1回行った。目下、取り組んでいるコレクションや、カンヌ国際映画祭レッドカーペットのために制作しているルックに加え、6日後にはニューヨークで行われる「メットガラ」も迫っている。階下のアトリエでは、裁縫師たちがシンシア・エリヴォの見事なロングドレスに手刺繍で宝石を散りばめている。だが、バートンの様子からは睡眠不足や、歴史あるファッションメゾンを率いる傍ら、3人の幼い子どもたちを育てるという多忙極まる日常はまったく感じられない。

彼女は床に這いつくばったままグリゼリを見上げ、落ち着いた声で言った。「この服を着たまま、少し歩き回ってくれる?」

誰もが何とか目立とうと大騒ぎするこの業界で、50歳のサラ・バートンは他者を信じるという信念に基づいてキャリアを築いてきた。本質的に控えめで、まるで前からの知り合いのような親しみやすさを持つ彼女は、多くの人々から絶大な支持を得てきた。

「『人にやさしく』という言葉は、観光客がこぞって買うご当地Tシャツのグラフィックみたいにチープになってしまったけど、サラのようにこの言葉が分子レベルで染み込んでいる人に実際に会うと、優しさが相手の良さを最大限に引き出すのだと分かります。彼女は天才と呼ばれる人の人物像を根本から作り替えていると思う」とケイト・ブランシェットは言う。

バートンはファッションカレッジを卒業してからリー・アレクサンダー・マックイーンの右腕として働き、それは彼が14年後に自ら命を絶つまで続いた。彼女はそのまま、メンターであったマックイーンのブランドで献身的に、そして誇り高く働き続けた。そして2023年に同ブランドを辞し、昨年、ジバンシィの指揮をとるまで、ファッション界への貢献をただひたむきに示し続けた。クリスチャン・ディオール・クチュールの会長兼CEOであり、バートンの任命に尽力したLVMHの取締役会メンバーであるデルフィーヌ・アルノーは、次のように語っている。「私はずっと彼女の仕事に注目してきました。すばらしい才能の持ち主だから。スーツやイブニングドレスを作る技術はとても正確で、クチュールにも通じるものがあります」。(実際、ジバンシィは来年、クチュールラインを追加する予定だ)。

マックイーンでバートンを最初に採用し、親しい友人となったトリノ・フェルカーデは、リー・アレクサンダー・マックイーンは例えば「着心地は良いか」などと質問することはなかったと指摘する。「リーが求めていたのは、服を着た人が部屋に入って、皆の視線を浴びることだった」とフェルカーデは言う。一方、「サラが服に求めているのは、それを一晩中着ていられること」だ。

バートンが作る服は仕立てが美しく、しかも着心地が良いとあって、華やかなイベントに赴く多くのセレブリティが指名するようになった。例えば、過去1年間だけでも、ティモシー・シャラメアカデミー賞で着たイエローのレザージーンズ、エリヴォがメットガラで纏った宝石を散りばめたコルセットとトレーン、ルーニー・マーラがカンヌ国際映画祭で魅せたヘプバーン風のミニドレスなどが挙げられる。彼女はまた、世間が注目する荘厳な儀式で王室のメンバーが纏う衣装の制作にも対応してきた。特にキャサリン妃は2011年に自身のウエディングドレスを頼んで以来、長年バートンに信頼を寄せており、2022年のエリザベス女王の葬儀ではコートドレスを、その後のチャールズ国王の戴冠式ではトリコロールのドレスとケープをバートンに依頼している。

ロンドンの中心部にある彼女のスタジオで初めて会ったときから、バートンは録音していないときでもしきりに「オフレコで」と言っていた。私は彼女が緊張していて、さまざまなことに神経を尖らせているからだと解釈し、お互いにうまく立ち回りながら対話をしてきた。彼女の気持ちは理解できた。特にマックイーンが亡くなってからは、部数拡張のためならネタを選ばない、英国のマスコミの餌にされたこともあっただろう。しかし、バートンの発言を観察していくうちに、彼女が最も不安に感じるのは、誰かの秘密を打ち明けてしまうかもしれない、あるいは自分の出世のために他人を利用しているように見えるかもしれないと感じているときだと気づいた。誰かの装いを任されるというのは、「とてもパーソナルで親密な行為」だと彼女は言う。「私にとって、それは本当に光栄なこと。そして、プライバシーは私たちに残された最後の贅沢のひとつだと思います」。他者から託されたものを守るという彼女の姿勢に、マックイーンで築き上げた「親密さの砦」を見る思いがしたのだった。

バートンはジバンシィにも、この親密さをもたらした。今回の移籍は、ファッションの世界をより豊かにするだけでなく、彼女が何年経っても逃れられずにいたある種の負の感情から彼女を解放するように思われる。

「ジバンシィへの移籍は、サラにとってちょっとした解放であり、これまでで最高の出来事」

2025年7月、ウィンザー城で開かれた国賓晩餐会に、バートンが手がけたジバンシィのイブニングガウンを着用したキャサリン妃。
State Visit By The President Of The French Republic - Day One2025年7月、ウィンザー城で開かれた国賓晩餐会に、バートンが手がけたジバンシィのイブニングガウンを着用したキャサリン妃。

ロンドン北部の自宅で夫のデイヴィッド、12歳の双子の娘セシリアとエリザベス、そして9歳の娘ロミリーと暮らすバートンは、私を2階のリビングルームへと案内してくれた。壁は深く鮮やかなホルベイングリーンのベルベットで覆われている。ソファの頭上には、金色の額縁に収められたオランダの写真家ヘンドリック・ケルステンスによる大判の写真が飾られ、高い棚にはマックイーンにとって最後のコレクションとなった「プラトンのアトランティス」に登場したアルマジロシューズが、アクリルボックスに収められている。日が差し込む部屋で、バートンと私はゆったりとした午後を過ごしながら会話を楽しんだ。

「家族が一番、ということでしょうね」と彼女は振り返る。バートン(当時はサラ・ジェーン・ハード)は5人兄弟の2番目として育った。マンチェスターの外れにある、なだらかな丘陵地帯と荒涼とした原野に挟まれた小さな村で育ったバートンは、いつも荒野に惹かれていた。母親は音楽と英語の教師で、父親は会計士。、博物館や美術館には、母親がよく連れて行ってくれたという。本であふれる家の中で、バートンは子どもの頃、いつも人や自然、ドレスの絵を描いていた。そしてハード一家が揃ってどこかに出かけるときは、友人たちも引き連れて白いバンで移動した。その大人数で移動する様子から、地元の人たちが彼女たち一家を「孤児院」と呼んでいたことをバートンは覚えている。

バートンは8歳のときから自分の将来を見定めており、マンチェスターで1年間、大学進学準備コースを受けた後、アートとファッションの教育機関として有名なロンドンのセントラル セント マーチンズCENTRAL SAINT MARTINS)で学んだ。「サラはほかのファッションの学生とは違っていました」と、彼女のチューターだったサイモン・アングレスは振り返る。「頭にパンティをかぶって登校するような学生たちの中で、ただ素敵なジーンズを履いているというのが、何とも新鮮だったんです」。

バートンを親友のリー・マックイーンに紹介したのはアングレスだった。「誰もがリーの下で働きたがっていました。ショーに出るか、バックステージで働こうと皆、必死でした」とバートンは振り返る。マックイーンはセントラル セント マーチンズを卒業してから3年後の1995年に、かの悪名高い「ハイランド・レイプ」ショーを手がけたが、そのバックステージ・ドレッサーとして、バートンは初めて彼と仕事をすることになった。残念なことに、彼女はショーを一切見ていない。出番を控えたモデルが履く靴を確保するため、必死になって別のモデルの足から靴を脱がせていたからだ。それから1年が経ち、マックイーンは彼女を雇った。マックイーンのために零細企業を経営していたフェルカーデは「サラは唯一のスタッフだった」と振り返った。

バートンは「天才」と評するマックイーンから学び、あらゆる業務を引き受けるようになった。彼のスケッチをもとにカテゴリーを構築し、ニットウェアやレザーのすべてを手がけ、やがて、ウィメンズウェアの責任者に抜擢された。「私たちが見ていた限り、このブランドのかなりの部分はずっとサラに任されていました」とフェルカーデは言う。

バートンはリビングルームで、マックイーンにいた初期のころのスケッチブックを取り出した。

そこにあったのは参考写真を切り貼りしたコラージュと生地見本を使ったスケッチで、美しい出来栄えだったが、何より印象的だったのは、当時の彼女のスケッチが極めて構造的だったことだ。ジャケットの襟、ドレスの縫い目、ケープのボタンなどが、建築物の仕様書のように細かく指示されている。それから数十年が経ち、バートンのスケッチははるかにラフなものになった。彼女とパターンカッターはお互いを知り尽くしており、デザインを提案するだけでよくなったのだ。

彼女は額縁に入った別のスケッチを見せてくれた。それはリーがバートンのためにデザインしたスレンダーなウエディングドレス、アンティークレースをあしらった「オイスタードレス」だ。写真家のデイヴィッド・バートンとは友人の紹介で、キングスクロスのパブで顔を合わせた。「彼の正直なところが気に入りました。裏表のない人で、それから私を笑わせてくれました」。ふたりは2004年に結婚した。

マックイーンはその6年後に亡くなった。彼の最後のコレクションを完成させることを任されたバートンは、「誰もが打ちひしがれていました」と振り返る。クリエイティブ・ディレクターの役割を引き受けたいとは、一度も思ったことがなかった。バートン自身はこの時期について多くを語ろうとしないが、フェルカーデはこう説明する。「彼女はチーム内の多くの感情を背負っていました。チームのことをとても大切に思っていたからこそ、チームが彼女にクリエイティブ・ディレクターに就くよう、背中を押したのだと思います」

ゴールドが煌びやかで、それでいて静謐なリーの未完のコレクションから、バートンは2011年、マックイーンの象徴ともいうべきピークドショルダーの解体へと動き出した。分解し、ほつれた縫い目を再び軽くつなぎ合わせたり、ベルベットを使い、カットを入れて縁をきれいに処理したり。意識的であろうとなかろうと、彼女は再構築するために壊したのだ。

2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。
2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。
2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。
2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。

その後何年にもわたり、バートンのショーは高度な技術に裏打ちされたロングドレスで高みを極めた。科学の常識を覆すかのようなこれらのドレスは、オフィーリアの雑草だらけの墓をゴールドのブロケードに変容させ、ぼかし染めのシルクの花びらを幾重にも重ね、深紅のタフタでしおれかけたバラを作り、オーガンザが爆ぜるように花開かせている。

それと並行して、バートンは人々の購買意欲をかき立てるような洗練されたパワフルなルックも打ち出した。幅広のレザーベルトでウエストを絞ったノースリーブのドレス、ミリタリー風のパンツ、ブラックとゴールドの縁取りが施されたクラシックな白のブラウス。彼女のアーカイブを紐解くと、限りなく想像力豊かで、一貫してリアルであり続けたデザイナーの仕事を目の当たりにすることができる。

フェルカーデ曰く、デイヴィッドとの間に生まれた娘たちの意見を、バートンは大切する。「雨でできたドレスを作らないの?」と娘が言うと、バートンはスパンコールを使うようになった。隣の部屋の机には、椅子が左右に1脚ずつ置いてある。時々、娘のひとりが仕事中のバートンの向かいに座る。バートンが娘の教科書から方眼紙を抜き取り、そこにスケッチを描くこともある。

2年前、バートンの父親が亡くなったことも、マックイーンを去る決断を下した要因のひとつだった。「確かに、新しい挑戦がしたい、と思うようになりました」と彼女は言う。そしてマックイーンを離れてからようやく彼女は、リーの死をきちんと消化できていなかったことに気づいた。「彼があのような形で去ってしまった影響は、計り知れない。あまりに悲劇的で、私は翻弄されました。人生はあっという間に過ぎ去っていく。そしてそれを受け止める時間は誰にも与えられていないことに気づいたのです」

1年間、彼女はロンドン西部に小さなスタジオを構えた。そばにいたのはアシスタントのメグ・セミストクリアスだけだった。「生地にドレープを寄せ、スケッチを描き、いろいろなことを考えました」と彼女は言う。この時期の生産的な創造性は、今もなお心に深く響いている。バートンは仕事や家族と過ごす時間以外は、読んでいる本(今、読んでいるのはエドマンド・ドゥ・ヴァールの回顧録『琥珀の眼の兎』)からインスピレーションを得ている。また、学生時代に好きだった版画を再び始ようかとも考えている。

マックイーン時代のメンバーのうち、少なくとも12人がバートンを追ってジバンシィに移った。長年にわたりチーフ・プロダクト・オフィサーを務めてきたカレン・メンジャースは、今回の移籍について「サラにとっては、ちょっとした解放であり、これまでで最高の出来事でした」と語る。

「他人のストーリーを語ろうとしても、説得力はない」

2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。
2025-26年秋冬コレクションのバックステージにて。

バートンはリーと自分が今も比較されることに抵抗を示しているが、それでも今は、ふたりの違いについて考えることがある。リーのことを大きな筆を操る画家だと評する一方で、自分については「いつも絵画よりも線画の方が好きなのです」と語る。これはそのままの意味だけではない。線画はバートンの自然な表現方法である。描く動作は即興的であり、距離感は親密だ。バートンは人物に布を纏わせることを、「3Dのスケッチ」と呼んでいる。彼女は肌に最も近い部分に興味を持っている。「衣服の内側は、外側と同じくらい美しいという考え方がありますよね。そんなの当たり前だと私はいつも思っています」

彼女は朽ちるものの美しさを愛し、シルクで作られたバラがしおれていく様を正しく表現するために何週間も費やすことができる。2021年には植物でもあり、傷でもあるような、滲み出すような赤を前身頃にプリントした白いドレスをデザインした。バートンが「花の解剖学」への興味を語るとき、彼女はジャケットがつぼみのようにほころぶ様子や、ドレスの背中が皮をむくように「はがれていく」感覚を求めている。同時に、自然界がバラバラに分解され、流血のように布を染め上げるという概念にも心を惹かれている。

不完全さは「女性の物語でもある」と彼女は言う。「女性が完璧ではない、ということではなく、女性のさまざまな側面を受け入れること、それが重要なのだと思います。私は、女性の視点から官能性やセクシュアリティを理解するという考え方が好きなのです」。自分自身の創造的なプロセスを尊重する女性に、バートンは惹かれるという。デザインをするとき、彼女はケイト・ブランシェットやルーニー・マーラ、カイア・ガーバーナオミ・キャンベルなど、自分が知っている「人生のさまざまな局面に立つ女性たち」を思い浮かべている。ショーのキャスティングではさまざまな年齢や体型のモデルを選び、またモデルたちが特定の服を着たときにどう感じるかに心を配っている。

バートンの服は「共感的」だと、少なからぬ人々が言う。そのひとりで、バートンの服は「体に美しく寄り添う」と語るスタイリストのカミラ・ニッカーソンは、自身がそれを実感しているだけでなく、ランウェイのためにスタイリングをしているときにモデルが変化していくのを目の当たりにしているという。「それは目に見える感情的な反応です。(サラが手がけた服を着ると)背がすっと伸びて見えるのです」。ブランシェットも似たようなことを言う。「(彼女の服を着ると)とても大切にされていると感じるのです。身に着けた瞬間、息をのむような驚きがあるけれど、どこか必然的な感じもします」

ユベール・ド・ジバンシィが使っていたアトリエの改修工事中に、壁に埋め込むように隠されていた茶色の紙包みが発見され、その中からジバンシィが1952年に発表した最初のコレクションのパターンが見つかった。まるでバートンの新たな門出を祝福するために、メゾンの起源が蘇ったかのようだった。

「そこで私は、シルエットから着手しようと思いました。ですがそれはあくまで、私が作るシルエット。スケッチに描かれていた、ド・ジバンシィによるシルエットである必要はないと思って」

彼女は経験から、「他人のストーリーを語ろうとしても、説得力はない」ことを知っていた。そのため、より直接的にジバンシィを感じさせるもの、例えばフィル・クーペの生地を使ったパターンシェイプなどを試してみたが、すぐにそれらを捨て去り、独自の形のコレクションを構築することにした。ジバンシィでの初のショーで最初にランウェイに登場したのは、50年代風の黒い下着の上に黒いメッシュのボディスーツを着たモデルだった。胸には白い字で「Givenchy Paris 1952」という刺繍が施されている。バートンは創業者に敬意を表しながらも、ゼロからのスタートを切ったのだ。バートンが生み出したピースたちは、女性の体そのものに注意を向けさせながら、1枚ずつ丁寧に服で覆っていく。

「美しい瞬間でした」とアルノーはショーを回想する。「彼女はジバンシィというメゾンのサロンで、やり遂げてくれました。デザインとの距離がとても近かったおかげで、職人の技やルックの色と質感を細部まで見ることができました」

広いショルダー、くびれたウエスト、ねじれた縫い目のブラックジャケットに続いて、クロップド丈のチュールスカートを合わせたビスチェドレス、丸みを帯びたシルエットのトレンチコートや大きな襟のピーコート、ウエストを絞ったライダースジャケット、ジャケットを後前にして胸元まで大きくカットしたスーツが登場した。

「まずは女性たちに、何を着たいと思うか、と問いかけることでした。ショーではともすると忘れられがちな問いです。ショーではどうしても、インパクトが重視しされてしまいますから」とバートンは語る。

装飾はほとんどなかった。「飾り付けるのはとても簡単ですが、美しい形を作るのは簡単ではありません」と彼女は振り返る。

状況的に考えれば、このバートンの基本に返るという姿勢は思い切った試みでもあった。ユベール・ド・ジバンシィの作品であれ、アレキサンダー・リー・マックイーンが90年代後半にジバンシィに在籍していたころの作品であれ、彼らの影響が顔を覗かせる不安があったかもしれない。だがそうはならず、彼女は自分のためにまっさらなページを作った。「そこに書き加える時間はいくらでもあります」と彼女は言う。

アルノーもこれに同意する。「ジバンシィにとって新たな章だと思っています。彼女は新しい表現や言語を作り出そうとしているのです。今回のショーにとても満足していますが、彼女の人生にとってもすばらしい瞬間となったことをとてもうれしく思っています」

パリでは、バートンがジバンシィのアトリエの内壁を取り払うことについて建築家と話し合っている。「スペースが細かく区切られているのが気になります。こういうやり方では、自分らしい仕事ができません。誰もがすべてを見ることができ、誰もが関わりを持っている、そんな風通しがいい方法で仕事をするのが私は好きです。一緒に仕事をするチームは、家族のような存在になるのだから」

私と一緒にいる間、バートンはシンシア・エリヴォがメットガラで着るロングドレスの進捗状況をチェックするために階下に呼ばれた。ルビーを散りばめた袖を1つずつマネキンに着せて組み立てていく様子は、まるで戦いに赴く騎士に鎧を着せているようだが、出来上がったものは鎧というより、エリザベス1世のワードローブから引っ張り出してきたようなものだった。チュールとタフタを9枚重ねたスカートは前面が開いており、コルセットから続く襟は背中側が大きく切れている。

この組み合わせは、いかにもバートンらしい。「少し破壊的で、すべてを解体してから作っています。男性的であり、女性的でしょう」。エリヴォはこれをどうやって着るのか?「穴にひもを通すみたいに体を押し込まないと」とバートンが頷いた。

バートン自身はメットガラMET GALA)に何を着ていくのか、という問いは、彼女がどこで聞かれてもかわし続けている。ふと、彼女の視線がハンガーに掛けられたクリーム色のモスリンのカバーに注がれた。「ガーメントバッグを着るのもいいかも」

ジバンシィのアトリエで長い1日を過ごした後、バートンと私はヴォルテール河岸のレストランで夕食をとった。今夜はジントニックと厚切りのステーキだ。バートンは襟にクリスタルを散りばめたハリのある白いコットンシャツに着替えていた。「仕事場にあったのを着てきた」と、まるで掃除用具箱から見つけたもののように彼女は私に言う。

バートンに、彼女が残すであろう「レガシー」について尋ねた。自分で聞いておいてなんだが、バートンにはいささか重い質問だった。それに対して、彼女は、若かりしころの自分も含めて、人々に「世界はあなたのもの、やりたいことは何でもできる」と前向きに考えてほしいとだけ答えた。バートンが属するクリエイティブ業界は、非常に多くの人が関わっている。「服を実際に作り、またフィッティングのためにやってくる、この建物の中にいるほかのすべての人たちを称えることが重要だと思う」と彼女は言う。ものづくりが美しいものであるとすれば、美はそのあらゆる側面に宿っている、と言うのだ。

今度は、服が歴史を作ることはできるかと尋ねると、彼女は私的なものについて語った。個人にとって、あるいは家族にとって意味のある服。自分の子どもたちのことを考えているのだろうか。

「もう、これ以上のモノは必要ない」と彼女は言う。必要なのは、「人に夢を与え、その人がつながりを感じられるもの。ワードローブにしまっておいて、20年後に取り出して自分の娘にあげたり、宝物にしたりできるようなもの」だ。それは美しくカットされたもの。心を込め、愛情を注いで作られたもの。そして、女性の体のために作られたものだ。

「最高な自分になれるような何かが必要だと思う」とバートンは締めくくった。

Text: Gaby Wood Adaptation: Anzu Kawano

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