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【北九州市若松区】火野葦平旧居『河伯洞』で作家・火野葦平の素顔を感じる

  • 2025.7.9

リビングふくおか・北九州Web地域特派員、火野葦平愛好家岩井です。

石炭仲仕小頭の父金五郎のもと若松に生まれた火野葦平。石炭景気に沸く若松に全国から集まった荒くれ者のごんぞう(石炭荷役を行う沖仲仕達)に囲まれて幼少期を過ごします。気性は荒いが人情深いごんぞう達をこよなく愛した葦平、その出発点も終着点も石炭の町若松でした。

1936(昭和11)年、日中戦争に応召した葦平は、翌年の芥川賞を受賞をきっかけに次々と作品を発表、特に1938(昭和13)年に出版された「麦と兵隊」はミリオンセラーとなります。

「麦と兵隊」の印税で父金五郎は、従軍中の葦平の為に家を新築工事に取り掛かりました。兵隊の戦場での命懸けの戦いが印税となったのであり、自分のために使ってしまうものではないと、新居の建築には反対し続けた葦平。(印税の半分は軍報道部に寄付したようです。)しかし1940(昭和15)年に建物は完成、葦平の河童好きに由来し、「河童の住む家」という意味で「河伯洞」と名付けられました。

出典:リビングふくおか・北九州Web

築80年を超える歴史を感じさせてくれる家屋

河伯洞の歴史

1939(昭和14)年、現地除隊して帰国した葦平は、自分の新居が印税の上に成り立ったことを苦々しく思い、しばらく寄り付かなかったそうです。そして1942(昭和17)年に白紙徴用をうけてフィリピンに渡りました。その年の末に帰国した葦平ですが、1944(昭和19)年に始まったインパール作戦に参加。終戦時は西部軍報道部員として福岡で活動しており、若松に残った家族も河伯洞からは疎開していました。数多くの戦場を経験した葦平ですが、戦地でも内地でも執筆を続け、戦時中だけでも夥しい数の作品を残しています。流行作家となった葦平は内地に帰還している間も講演などで全国を飛び回り、戦時中においては河伯洞で寛ぐような暇はなかったかもしれません。

出典:リビングふくおか・北九州Web

火野葦平の本名、玉井勝則の表札。

若松にも空襲があった戦争末期、玉井家は修多羅付近に家を借りて疎開していたため、河伯洞は知人に貸し出していたそうです。終戦後に一家は河伯洞に戻ったものの、葦平の死後は長く製鉄会社の社員寮になっていました。1999(平成11)年に市文化財となり、葦平三男の玉井史太郎氏が管理人をつとめる形で一般公開開始。玉井史太郎氏がお亡くなりになったため、2021(令和3)年からは後任に推されていた藤本久子氏が新管理人に就いています。

出典:リビングふくおか・北九州Web

河伯洞の玄関。式台も上り框も当時のまま。

葦平と若松

当時、流行作家となった者は仕事の都合上、東京に拠点を移すのが常であったのに対して、葦平は若松の河伯洞と東京阿佐ヶ谷の鈍魚庵を行き来しながら膨大な量の原稿を書き、生まれ故郷を捨てることはありませんでした。飛行機を使えば福岡東京間は日帰りも可能な時代になっていたとはいえ、多くの費用と時間を払ってでも若松をひとつの拠点として維持し続けたのは、故郷と家族に対する愛ではないでしょうか。

ふるさとは 遠きにありて 思ふもの

そして悲しく うたふもの

よしやうらぶれて 異土の乞食と なるとても

帰るところに あるまじや

この室生犀星の小景異情という詩を作品の中でよく引用した葦平。故郷に対して複雑な思いもあった事は疑う余地もありませんが、結果として東京ではなく、若松に骨を埋めるという事を選んだのは、世知辛い都会よりも泥臭い人情の町の方が肌に合うという、川筋の血が流れていた証拠かもしれません。

出典:リビングふくおか・北九州Web

父金五郎はこの箪笥に日本刀を収納しており、葦平の妹は箪笥には日本刀を入れるものと思っていたそうだ[/caption]

河伯洞の魅力

「花と龍」など、葦平は若松を題材にした作品を数多く残しています。出世作となった「糞尿譚」も(高塔山は佐原山と、地名は変更されていますが、主人公も若松に実在した人物をモデルに描かれています。)絶筆となった「真珠と蛮人」も若松を舞台にした作品で、文字通り生涯を通して若松と向き合っていたと言えるのではないでしょうか。

火野葦平資料館は当初小倉に建設される予定でした。しかし、これだけ故郷を愛した作家の資料館なら小倉ではなく若松に作るべきだという大きな運動が起こります。そして十数年後、若松公民館に葦平資料館の開設、さらに14年後に河伯洞の公開と、多くの人々の努力の結晶として現在の2館運営に至りました。

出典:リビングふくおか・北九州Web

管理人の藤本さん

金五郎のこだわりが詰まった歴史ある建物の細部に河伯洞の魅力があると、管理人の藤本さんが語ってくださいました。特に廊下に敷かれた、おそらく樟であろう巨大な一枚板は必見。これほど大きなものは珍しいと建築家の来館者も唸る逸品とのこと。おおよそ畳一枚ほどの大きさですが、実際の木の太さは何倍も大きなものを、何年も乾かした、大変貴重なものを探し出して廊下約10mにわたって惜しみなく敷き詰めています。

出典:リビングふくおか・北九州Web

非常に大きな一枚板を贅沢に使用した廊下

式台の亀の彫刻も精密で、80年以上の時の経過でより美しさを増したような落ち着きのある情緒で来館者を迎えてくれます。

出典:リビングふくおか・北九州Web

式台に施された精密な亀の彫刻

お風呂場の天井の通気口は非常に凝った作りになっています。炭鉱で財をなし、筑豊御三家と呼ばれた安川敬一郎氏の旧安川邸のお風呂場も、規模は違えど似たような作りになっており、金五郎のこだわりが伝わるようです。

出典:リビングふくおか・北九州Web

旧安川邸と似た構造で凝った造りのお風呂の天井。

また透かし彫りはまさに家の装飾品というよりは美術品といった方が良いほどに精巧で、細部にわたって一切の妥協なく彫刻されています。

欄間には河童進軍図が、これも美しい黒柿の一枚板に丁寧に彫り込んであり、これは玉井家の知人であり、仏師の松本唯助が腕によりをかけて、この河伯洞のために制作したもの。葦平は初期の作品「山芋」などに、松本唯助をモデルとしたキャラクターを登場させています。

出典:リビングふくおか・北九州Web

緻密な透かし彫りが美しい

出典:リビングふくおか・北九州Web

欄間には松本唯助の手による、躍動感あふれる河童進軍図

出典:リビングふくおか・北九州Web

手入れの行き届いた日本庭園も美しい

出典:リビングふくおか・北九州Web

葦平の著作「幻燈部屋」に登場する久賀国蔵の肖像画「或る高利貸しの像」を実際に再現したもの、原作のファンは必見

葦平はこの河伯洞で、なんとライオンの子供を飼っていました。キグレサーカスで産まれたライオンの子供をもらってきたのです。葦平は動物を愛しており、火野葦平選集第八巻は動物について書いた短編を多く収録したものになっています。様々な苦しみを抱えていた葦平ですが、ライオンと戯れる笑顔を見ると、動物との触れ合いが傷ついた心の癒しになっていたのがわかります。

出典:リビングふくおか・北九州Web

ライオンの名前は彦太郎。糞尿譚の主人公から取ったもの。

現在の河伯洞

出典:リビングふくおか・北九州Web

1960(昭和35)年1月24日、葦平が命を絶った書斎。

戦火を乗り越え、混乱の最中にあった日本、その歴史を葦平と共に現在に留めた河伯洞。その魅力を一言で言い表す事はできません。河伯洞は現在、多くのボランティアの方々の支えのおかげで運営されていいます。ここでは葦平の著作や、それ以外にも当時の九州文壇を知る上で非常に参考になる様々な書籍の貸し出しも行なっているので、私も足繁く通わせていただいております。いつでも快く迎えてくださる心温かいスタッフの皆様に感謝の念を禁じ得ません。

「糞尿譚」の頃から火野葦平というペンネームを使い続けた葦平が、唯一、本名の玉井勝則に帰れる場所、それがここ河伯洞だったのではないでしょうか。多くの著作から火野葦平という作家の人物像を窺う事はできますが、河伯洞は玉井勝則の素顔の一端を垣間見ることができる数少ない場所の一つかもしれません。

休日の予定に迷った際は、ぜひ河伯洞で日本の歴史を想い、若松に骨を埋めた一人の郷土作家の心を感じてみてください。

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