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「べらぼう」で渡辺謙演じる田沼意次に同情せざるを得ない…頼りになる自慢の息子・意知を襲った突然の惨劇

  • 2025.6.15

江戸時代後期の老中・田沼意次の息子、意知(おきとも)とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家督を継いでいない立場でありながら、大名並みの位階と仕事を与えられていた。能力は高かったものの、世間からの評判は良くなかった」という――。

NHK大河で目立つ「田沼意次の息子」とは

田沼意次(渡辺謙)の頼りになる息子として、田沼意知(宮沢氷魚)の存在感が、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で急速に増している。

俳優の宮沢氷魚が2024年2月14日、東京で開催された第78回毎日映画コンクールに出席した。
俳優の宮沢氷魚が2024年2月14日、東京で開催された第78回毎日映画コンクールに出席した。

意次が側近の提案を受け、蝦夷地(北海道)を幕府の直轄領にし、金銀をはじめとする蝦夷地の資源をもとにロシアと交易することを検討しはじめた場面で、準備のための調査をみずから買って出たのが意知だった。

蝦夷地は松前藩が管轄しているので、幕府の直轄領にするためには、松前藩の領地を召し上げ、権利を奪う必要がある。そのための調査と工作を請け負ったのである。

第22回「小生、酒上不埒にて」(6月8日放送)では、松前藩が抜け荷(密貿易)をしている証拠をつかむために、意知はさまざまな手を打った。松前藩の元勘定奉行、湊源左衛門(信太昌之)から、抜け荷の取引の場を記した地図があると聞くと、その調査を勘定組頭の土山宗次郎(栁俊太郎)にまかせ、自身は吉原に出向くなどして、抜け荷の痕跡を探った。

大文字屋の花魁、誰袖(福原遥)も抜け荷の証拠集めに必死で、大文字屋に遊びに来た松前家江戸家老、松前廣年(ひょうろく)が、琥珀の腕飾りをしているのを見逃さなかった。その腕飾りを手に入れると、「松前公の弟君の腕飾り。オロシャ産の琥珀という石。抜け荷の証しにござりんす」という手紙とともに土山に渡し、土山が意知に届けた。

家督を継いでいないのに異例の出世

ただ、ロシア産の腕飾りを身につけていただけでは、抜け荷の証拠にはならない。松前廣年がロシアと直接取引した証拠が要る。意知は「花雲助」という忍びの姿で吉原に出向き、誰袖にその旨を伝えるが、誰袖は、廣年にけしかけて抜け荷をさせればいいという。

誰袖のしたたかさを知って、意知は自分の正体を明かし、「見事抜け荷の証しを立てられたあかつきには、そなたを落籍いたそう」と覚悟を決めた。

さらには蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)にも、自分が何者かを明かして蝦夷を天領にする計画を話し、「最後に源内殿も口にしておった試みだ。どうだ、そなたもひとつ、仲間に加わらぬか?」と誘いかけた。

「べらぼう」第22回で描かれているのは、天明2年(1782)ごろである。寛延2年(1749)に生まれた田沼意知は蔦重より1歳年長で、この年に数え34歳。それなりの年齢にはなっていたが、田沼家の当主はなおも父の意次で、意知はまだ家督を継いではいなかった。つまり、部屋住みのままだった。

それにもかかわらず、このころの意知は、すでにかなりの力を得ていた。

エリート街道まっしぐら

父の意次が側用人に取り立てられた明和4年(1767)には、19歳にして従五位下大和守に叙任されている。従五位下とは一般に、大名がそこからスタートする位階で、その後、昇進せずに従五位下に留まる例は珍しくなかった。そもそも父の意次が大名になったばかりで、まだ家督も継いでいない部屋住みの息子が大名並みの位階を得るなど、異例のことだった。

その後、天明元年(1781)9月に老中の松平輝高が死去したのち、やはり老中である松平康福の娘を妻にしている。これは父の政界対策だった。松平輝高亡きあと、意次より先任の老中は松平康福だけになった。そこで意次は、その娘を迎えることで、ライバルになりかねない先輩を自派に取り込んだわけだが、意知にとっても、後ろ盾を得ることにつながった。

続いて、同じ天明元年の12月には、奏者番に抜擢されている。これは江戸城内で武家関係の典礼の執行を担当する役職で、具体的には、大名や旗本が年始や五節句などの機会に将軍に謁見する際、大名の姓名を言上したり、進物を披露したり、将軍からの下賜品を渡したりした。

朝の皇居
※写真はイメージです

いわば中間管理職だが、なにしろ大名や旗本と将軍とのあいだの連絡役だから、幕府の中枢での仕事で、出世への登竜門とされていた。実際、奏者番を皮切りに、老中まで上り詰める例は少なくなかった。言い換えれば、老中に昇格する大名は、最初に奏者番を務めることが多かった。

それに奏者番も、原則的には大名が就く役職で、そのとき33歳とはいえまだ部屋住みだった意知の就任は、やはり異例だった。

父子が特別に許されていたこと

そして天明3年(1783)11月、意知はついに若年寄に出世する。老中を補佐する若年寄は、幕閣のなかで老中に次ぐ重職で、老中が管轄する以外の旗本や御家人を指揮した(老中は主に朝廷や大名に関する事柄を指揮した)。

若年寄の定員は原則4人(実際には3~5人)で、少禄の譜代大名(多くは3万石未満)が就くことが多かったが、この時点でも、意知は部屋住みの世子にすぎなかった。35歳という年齢はともかく、大名の当主となる前に若年寄になるのは、やはり、きわめて異例のことだった。

しかも、意知は将軍が起居し、日常的に政務を執る中奥に入ることを特別に許されていた。江戸城の中枢である本丸御殿は、大名が将軍に謁見したりする「表」、将軍が起居する「中奥」、将軍の妻や側室、子女らが暮らす「大奥」に分かれ、中奥に入れる大名はかぎられていた。

父の意次は、明和9年(1772)に老中就任後も、将軍家治の厚い信任を背景に側用人も兼務し、中奥で将軍と直接接し、その意を老中に伝えた。このために権力が膨張することになった。そして意知もまた、まだ家督すら継いでいないのに、父と並ぶ事実上の側用人として将軍の近くに仕え、結果として、父子がそろって権勢をふるうようになったのである。

江戸城内で起きた凶行

意知はこのまま老中への階段を駆け上がる――。当時、だれもが思っただろう。だが、若年寄に抜擢されてわずか半年足らずで、運命は大きく暗転してしまう。

天明4年(1784)3月24日。この日も本丸御殿の表の御用部屋には、上之間に老中、下之間に若年寄が集まり、いつものように午前10時ごろから政務が行われた。そして、午後1時近くに仕事が終わり、幕閣が退庁した。同役の太田資愛(掛川藩主)、酒井忠休(出羽松山藩主)らと連れ立って、意知は新番の詰所の前を通りかかったが、そのとき大事件が発生した。

新番とはいわば将軍の身辺警護役で、このとき詰所にいた5人のうち、「べらぼう」で矢本悠馬が演じている佐野政言が飛び出し、「山城守殿、佐野善左衛門にて候、御免!」と叫んで、大刀の鞘を払い、切りかかったのである。

石部琴好 作 ほか『黒白水鏡』
石部琴好 作 ほか『黒白水鏡』,[出版者不明],寛政1 [1789] 序. 国立国会図書館デジタルコレクション 参照 2025年6月11日

城内で刀を抜くと、喧嘩両成敗で処分されてしまうので、意知はあえて脇差を抜かず、刀の刃を鞘で受けたようだが、肩先に一太刀受ける。周囲の同僚たちは恐れをなして、意知を守らず逃げてしまい、意知も部屋に逃げ込んだが、追ってきた佐野の刀を、今度は両股に受けることになった。

その後、70歳を超える大目付の松平忠郷が羽交い絞めにし、目付の柳生久通が刀を奪い、佐野はようやく取り押さえられた。しかし、深手を負った意知は、神田橋の田沼家の屋敷に運ばれたが、あらゆる手を尽くしたのも虚しく、2日後に死去した。出血多量が原因だったようだ。

犯人を讃えて意知には厳しかった世間

この刃傷事件に対しては、大目付と目付の取り調べの結果、佐野政言の乱心と認定された。しかし、乱心の場合は情状酌量があって死罪にならないことが多いのに、佐野には切腹が命じられた。

乱心とされたが、佐野は意知を明らかにねらい撃ちし、執拗に追いかけた。その理由はなんだったのか。「べらぼう」でも、佐野が田沼家に系図を提供し、それを意次が捨ててしまう場面があったが、当時も、系図を返してもらえずに恨んだという説があった。昇格できるように意知に依頼し、大金を渡したのに叶わなかったので恨んだ、という見方もあった。

また、このころは権勢を誇る田沼父子に反発する動きは顕在化しており、そうした流れのなかで起きた可能性も取りざたされた。実際、この当時、反田沼のだれかが佐野を背後から操った、という見方は生じていた。

いずれにせよ、事件後の世間は意知に厳しく、むしろ佐野の「世直し」が讃えられる傾向にあった。それは、ひとつは権勢絶大な意次のもと、その嫡男が異例の出世を遂げ、周囲の妬みを買っていたからだろう。加えて、この時期は天明の大飢饉の最中で、米価が高騰するなど政治への不満が噴出し、矛先が田沼父子に向いていたことも挙げられる。ともかく、この事件を機に、田沼意次の運命も大きく暗転していくのである。

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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