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「ロールモデルがいないから、私がなりたいと思った」──50、60、70代、それぞれにとってレズビアンとして生きること【プライド月間 2025】

  • 2025.6.2

近年、LGBTQ+という言葉が広く認識されるようになってきた。そこには多様なセクシュアリティや性自認等で暮らしをおくる、さまざまな当事者が含まれる。徐々に言葉が広がりをみせる一方、現在の日本社会の枠組みや法制度、メディア表象などでは未だに不可視化され、とりわけ特定のコミュニティに対しては差別や偏見が根深く残り続けている現状がある。そんな周縁化されてきた当事者の声を訊くことで、さらなる社会の変化を促すと同時に、当事者にとってのロールモデルが増えることを願う。

50代の笹野みちる、60代のクミコ(仮名)、70代の沢部ひとみは、1980年代のレズビアンコミュニティを通じて知り合った。インターネットのない時代、そして性的マイノリティおよび女性への差別が今よりもさらに蔓延っていた時代をどう生きたのか、そしてどのように歳を重ねてきたのか。

6月のプライド月間に合わせ、30年来の友人である3人のストーリーを聞いた。

80年代の日本。自分みたいな人はいないと思っていた

〈左から〉クミコ(仮名)、沢部ひとみ、笹野みちる。
〈左から〉クミコ(仮名)、沢部ひとみ、笹野みちる。

──笹野さんが50代、クミコさんが60代、沢部さんが70代を迎えられています。まずはみなさんがセクシャリティを自認された変遷や簡単な自己紹介をお願いします。

沢部 思い返してみると、1960年代中盤の小学校高学年のときに友人から好きな歌手を聞かれて、女の歌手が好きって言ったら「普通、男の歌手が好きでしょ。なんで女なの」と聞き返されて、すごくドキッとしたの。これは言わない方がいいんだなと思ってから、心を許すのをやめた記憶があります。それからは好きな人ができたり、パートナーと暮らしたり……。当時は女が自分の稼ぎで暮らしていくための職種は限られていたから、一時期教師として働いた後に、ノンフィクションを主にしたライターになりました。今は、東京の郊外で1人暮らしをしつつ、「パフスクール」っていう、性的マイノリティの女性に向けたメルマガの発行とトークイベントをやっています。

クミコ 自認にもいろんな段階があると思うんですけど、最初は中学生のときに笑顔が素敵ですごく好きな子がいました。でもある日、その子に“友だち”と書いたプレゼントをもらったことがショックで……。そこからは公にはせず、ずっと茨の道を歩んできました。世の中に存在しないはずの人を追い求めているみたいな感じです。24歳のとき、沢部さんの『女を愛する女たちの物語』(別冊宝島64号)に出合って道が開けました。その後、今のパートナーとも知り合い、彼女と一緒に暮らして19年目です。あとは今は休んでますけど、大学卒業後から学校で教師の仕事をしています。

笹野 私はずっとレズビアンでいることがかっこいいと思ってたんですよ。だって自由だし、家父長制に捉われなくていいじゃないですか。お互いに対等で常にイコールな世界で、何が違うかって個性だけ。だから自分自身すごくキラキラしていた記憶があります。中学から女子校に入って、そこでさらに自由を感じました。毎学年1人ずつめちゃくちゃ好きな子がいたりして、さらにその気持ちをすごく尊いものだと感じていたから、(同性同士の恋愛が)後ろ指刺されるような類のものであるはずがないと頑なに信じていましたね(笑)。大学を卒業する前にデビューをして芸能界にいたこともあり、現在も歌手として活動はしつつ、普段は東京で障害がある人の支援をする仕事をしながら、パートナーと暮らしています。

──そのなかでもとくに大きな転機となった出来事はありましたか。

クミコ ずっとヘテロセクシャル砂漠のなかで、もがき続けていました。表面上は周りに合わせて彼氏もいたけど、もう死にそうだ……ってなっていたあるとき、本屋を彷徨っていたら沢部さんのムック本を見つけたんです! インターネットのない時代ですからね、バレないように全然関係ない本2冊の間に挟んでレジに持って行ったのを憶えています。それを読んで救われた気持ちで、必死の思いで本のなかに書いてあった連絡先に問い合わせたんです。世の中にこんなコミュニティがあったんだ、やっと見つけたと思いました。1988年当時は、自分みたいな人なんていないと思っていた時代ですから、仲間がいるんだと。そこからは友だちも彼女もできて、救われましたね。

笹野 わかる! 私もほかの本に挟んで買ってた。それくらい隠してたね。

沢部 私は1975年、アメリカへ行ってレズビアン・フェミニストに出会うんです。ちょうど夏だったんですけど、Tシャツにジーンズを履いて、ショートカットでとにかく自由な印象でした。英語がよくわからないのに、彼女らのラジオ番組に出してもらったりして、「こんな人たちみたいに暮らせたらいいな」って。結局3カ月くらいかけて各地を周って、この人たちみたいにだったら生きられるかも、と思ったんです。当時1970年代の日本におけるレズビアン表象は、日活ロマンポルノ映画の性的な描写ばかりで、私はそれを観て絶望していました。そんなとき訪れたアメリカで希望をもらいつつ、シアトルで出会った友人に「Go back to Japan and say “Come out!”(日本に帰って「カミングアウトしな」と言いなさい!)」と言われたこともあり、頑張るぞという気持ちで帰国しました。その後は食べていくために教員になり、パートナーもできたけど、学校は私の居場所ではなくなって──。

その頃、レズビアンが主人公のハンガリー映画『アナザウェイ』を観たことが2つ目の転機になりました。恋愛を中心とした話だけでなく、異性愛規範の強い社会のなかでどのように同性愛者が生きれるかということを、大国の侵攻を受ける小国に重ね合わせながら描かれていて、非常に社会的な物語でした。こんなふうに恋愛だけじゃない自分たちの人生を描くこともできるんだ、とすごく刺激されて、結局映画館で8回も観たんです(笑)。それでこの思いを書きたくてたまらなくなって、ミニコミ誌(70年代前後の社会運動のなかで生まれた自主出版誌。マスコミに対抗するコンセプトを持つ)を作り始めました。1986年春には、スイスのジュネーブで開かれたILIS(International Lesbian Information Service)の会議にも参加して、欧米はもちろん、南アメリカやアジアなど世界各国から集まった600人ぐらいレズビアンたちと出会って、生きるエネルギーを交換したんです。そのときの話を初めて女性誌に書いて発表したらかなりリアクションがあって、読者がポルノじゃなくて、等身大の実際に暮らしている人たちの話を待ち望んでたんだと気がつきました。それでライターとしての道を歩み始めたわけです。

笹野 私は基本、全部受動的。転がってきたままで、あんまり何かを“選んだ”っていう感覚もないんです。セクシャリティも仕事も周りの環境も、前から来るものを毎回ちゃんと受け止めながら歩いているだけ、みたいな生き方でしかなくて、「どっちにしよう」と悩んで決心して選択するっていう経験が本当にないんですよ。

ロールモデルの不在に対し、自分がその1人になる

──今はLGBTQ+という言葉も広がってきましたが、レズビアンや性的マイノリティ女性、トランスジェンダー女性、とくに高年齢の当事者の物語がメインストリームで語られる機会は少ないですよね。

クミコ まず性的マイノリティじゃなくても、「子どもを産んで育てている」もしくは「若いきれいな女性」以外の物語って、メインストリームでやっぱり少ないじゃないですか。なんていうか結局、社会の根底の価値観が変わっていない。女性に植え付けられた役割ですよ。大きな力を握っているメディアのなかの人も変わっていない。需要というかニーズというか……、大衆、権力とか男性に利益がないから、出そうと思っても難しかったり、取り上げられないんだろうなと思ってます。

沢部 性的マイノリティへの差別、男女差別、そして年齢差別っていうのは常にあると思うね。

──そんななかで、ロールモデルとなる存在はいましたか。

クミコ ロールモデルがいないことに私は苦しんできたから、自分がモデルになりたいと思ったんです。一般的な教師だったり、社会のいろいろな場所に当事者はいて、女性同士で暮らしていたりするよって。生徒のなかにもさまざまなセクシャリティの子がいるはずだから。そう思って数年間はカミングアウトをして頑張ったけど、今はちょっと疲れてきたからあまり顔出しはしなくなりました。でもロールモデルの1人として、60歳を過ぎた今も幸せに暮らしてますから大丈夫ですよ、とみなさんに伝えたいです。

笹野 社会のなかで“きっちりした人たち”と思われている先生という職業でカミングアウトしたのは、すごいものを背負ったと思うわ。

クミコ 昔は「良妻賢母教育」というのがあり、その後に女性の社会進出の流れがあって、自分としてはそのさらに先を行っているつもりでした。もっと個人を尊重した生き方をしていいし、自分の生きたいように生きましょうって。それまでは教壇で“机上の空論”みたいなものを伝えてたのが、先生である私が語ることによって、その問題が生徒たちにとって一気にリアルになる。自分のことを語らない先生もおったけど、「家族に障害があって〜」や「親の介護がしんどくて〜」だったりを語り部として前で話してくれる先生って人権教育として素晴らしいと思ってたから、自分のセクシャリティの話も人権問題やんな、なんでこれが人権教育のなかに入ってへんねやろう、っていう気持ちから踏み切りました。欧米ではすでに、人権教育の一部とされていましたしね。

沢部 私のロールモデルはやっぱり湯浅芳子さん、彼女とはライターになった年に出会って『百合子、ダスヴィダーニヤ』(文藝春秋)という評伝を書かせてもらったんですけど、とくに彼女が小説家の宮本百合子と別れた後、1人で生き抜いたことに励まされました。若いころ私は1人になるのが怖くて、パートナー探しにかなりのエネルギーを注いでいたと思います。湯浅さんが93歳で亡くなる直前、浜松の老人ホームに会いに行ったとき、聞いたんです。「一人で寂しくないの?」って。そうしたら、「淋しくはない、同じ魂の人間もいるし」ってはっきり答えてくれた。私はそれを遺言だと思って、ずっと憶えています。1人で歳を重ねるのはたまに心細くなることもあるけれど、この言葉が今も私を支えてくれています。

笹野 私は掛札悠子さんかな、『レズビアンである、ということ』(河出書房新社)を読んだのがきっかけでカミングアウトできたし、そのお陰でフェミニズムとレズビアンであることをしっかり結び付けて理解ができるようになりました。本に助けられましたね。

怒りや正義の火を持続的に灯し続けること

──日本では未だに婚姻の平等が実現していないなど、多くの抑圧が残っていると思います。このような状況に対し、率直な気持ちを教えてください。

沢部 私は結構長いあいだ、言葉を失ってたみたいなんです。でも、10年くらい前からLGBTQ+に光が当たって、少し息がしやすくなった。最近は子どもを産み育てるレズビアンの幸せそうな姿も見られるようになって、今の時代ならもっと別の人生を送れたかも知れないと夢想することもあります。でも自分が研究対象のようにモノ扱いされると、抑えられないくらい強い怒りがこみあげることもあって、正直な話、複雑です。やっぱりこの社会はいろいろなことがおかしくて、でもこの状況に怒ることで周りとの関係性を壊してしまうこともある。だけど、なんでだろうってくらい強い怒りの感情が湧くときって、多分それは自分にとってとても大事なことだから、そういう意識は持っていたほうがいいなと思います。

笹野 自分のなかの“正義”や“倫理”みたいなものって、どんなときでも育てていけると思うんですよ。そしてそれは相応しいときに発揮できるもの。歳を重ねるなかで、段取り通りに変化が起こらないことも見てきて、でも自分自身の役割みたいなものがあるときある瞬間に訪れます。そのときまで力を蓄えておくこともできるのかなって。常に自分のなかを整理して、正しいものや真実は何だっていうのをあたため続けていることが、大事だって気がします。何もできないときは見守るというのも1つのサポートだし。人生長いから。

沢部 ずっと結婚なんてできないと、そういうことはありえないという認識だったので、最初は「結婚なんか……」って思ってたんですよ。でも、昔すごく愛し合った人のことを思い出したら、私自身が「同性同士の結婚なんてありえない」っていう社会の考えを、いつの間にか内面化してたんだなって気づいたんです。「幸福追求権」とか言われても、ずっと人間扱いされてこなかった人間には、それが信じられない。でも裁判の傍聴に何度か通って、知り合いが「なぜ結婚したいのか」毅然とした態度でていねいに語るのを聞いたとき、すごく感動して。「ああ、これはやっぱり必要なことなんだ」って思うようになりました。希望も絶望も言葉で伝えられるようになることで人間になれるんだと思います。好きな人との関係を公にできないもしくは好きだってことも伝えられない、そういった状態は自尊感情に影響するんです。希望や欲求を自由に伝えられないっていうことが、どれだけ人間を“ダメ”にしてしまうか。

笹野 理不尽です。そう理不尽。どうしてっていうか、ほんと酷いもんなんだよね差別は。なんでそんなこと当たり前のように言うの、みたいなシーンばかり。でも世の中全体から言われると、そうなのかもと思えてきちゃう。だから、どんなコミュニティや社会のなかにいても、おかしいことにはおかしいと言って、“正義”みたいなものに燃え盛ること。そうすると数ではマイノリティだけど、大きく発光して火花が出てくる。もし今賢くなりすまして淡々と力を蓄えてる段階だとしても、いつかは絶対やってやるぞと思えていれば出番がきます。

クミコ 敵が巨大だから個人ができることってそんなに大きくはなくて、こうなるべきとかを思い過ぎると疲れてしまう。だから、それぞれの人がそれぞれの立場とできる範囲で小さな穴を開けていったら、そのうち壁が崩れる日も来るだろうと思ってます。個人が折れてしまったら終わりなので、せっかく生まれてきたからには人生を楽しむことも忘れず、自分ができることをそれぞれやっていけばいいのかな。

沢部 フェミニズムが明らかにした家父長制。それは男女差別や女性嫌悪による分断や暴力をまき散らしながら、どうして今も残っているのかっていうことをもっと自分に引きつけて研究してみたい。こちらがカミングアウトするたびに、相手がパッと10センチくらい後ろに退くように感じるとき、相手は何をイメージしてどんな感情を抱いたのか、そういうことを具体的に確かめ合えるような研究をしてみたい、もう時間不足だけどね(笑)。日常の差別体験を両者の感情をちゃんと言語化して共有していけたらなと思います。

変化は段取り通りに起こらないから、まずは生き続ける

──沢部さん、笹野さん、クミコさんは長年友人として結びついてこられました。お互いはどのような存在ですか。

クミコ 友人じゃないんですよ、2人は私にとって尊敬する人たち。あの時代に公にカミングアウトをして、茨の道を切り拓いてくれたから。

笹野 長年ずっと定期的に会ってはお茶をして……。もう長いこと一緒にいるね。

沢部 “同志”って言葉がぴったりだと思う。誠実に生き抜いてきた同志って感じですね。

──最後に、過去の自分にかけたい言葉と、日本のLGBTQIA+コミュニティに伝えたいメッセージを教えてください。

笹野 「待ってるで」かな。苦しくて鬱で死にそうになってた時期がありましたから、全然道はあるよと伝えたい。私の外側には幸せなものもあれば、不幸なものもある。いろいろなものがいっぱいあって、一旦自分と距離を置いて大きな意味で世界を信頼する感じで、楽になれるよって言ってやりたいですかね。

クミコ 踏み出してよかったよ、ということ。辛い目にも合うけれど、生きているよさを実感できるときが来るから、それでよかったんだよって。最近同窓会に50歳になった生徒たちが呼んでくれて、そのときに「先生の(カミングアウトの)本読んだで、感動した」って言われて、読んでくれてたんだって驚いたんです。後でわかることもいっぱいあるから大丈夫っていうことと、別に逃げてもいいし、探したり、置いといたり、休んだり……、元気になったら動いたりまた休んだりを繰り返して、生きてくれたらいいよって思います。

沢部 好きなことをして生きてほしい。それには自分は何をすると楽しいのか、落ち着いた気分になれるのか。また逆に、どんなとき不機嫌になるのか、落ち込むのか。案外簡単そうなんだけど、この快・不快の感情に気づいているって「自分を知る」ことの基本なんだと思うんです。7時間熟睡できたとか、好きな俳優のドラマを観れたとか。小さいことでも積み重なっていくと、自分が何をすれば自分をよろこばせることができるかが分かってくる。不機嫌のきっかけが行動なら止めればいいし、天候なら諦めもつく。とにかくまずは自分と仲良くしながら生きていきましょう。1度だけだからね。

Photos: Aya Yasuda Text & Editor: Nanami Kobayashi

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