花魁から河岸女郎まで、吉原にいた遊女たちは苦界くがいから脱け出すことはできたのか。大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)で吉原についての風俗考証をした山田順子さんは「身請けが女郎の幸せというが、好きな人の妻になれるわけではない。27歳の年季明けでも多くは自由になれなかった」という――。
※本稿は、山田順子『吉原噺 蔦屋重三郎が生きた世界』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
吉原に3000人いた遊女の「出世」は14歳ぐらいで決まった
吉原に女郎は平均で2000から3000人いましたが、その女郎の出世の階段は、禿かむろのときにほぼ決まっていました。
5~14歳頃 「禿」
5歳~10歳くらいで、吉原に売られてきます。一般に「吉原の年季奉公は10年、27歳で年季明け」と言われていますが、5歳から計算すると、15歳で年季明けでは、肝心な仕事をする期間がありません。27歳まで働いたとしたら、22年間もかかります。
これは禿が子どもで女郎働きをせず、むしろ女郎屋が養って育てているという考えですから、禿の期間は年季奉公の期間に入りません。とはいえ、まったく何もしないでご飯が食べられるわけではなく、各々の花魁付きとして、花魁おいらんの世話をしたり、花魁道中に従ったり、客の前では花魁に代わって酌をしたりと、それなりに役目があります。しかしこれは仕事ではなく、女郎になるための教育期間と見なされます。さらに、読み書きはもちろんですが、吉原の女郎として絶対に必要な、読書や習字、和歌や俳句などの教養も学ばなければなりません。
これらは、その禿を預かった花魁の責任で行われるため、花魁にとってもかなりの重荷でした。さらに、禿の豪華な衣装の費用も花魁が払うので、花魁自身の借金は増えるばかりです。しかし、自分も同じように育てられた花魁にとっては当然のことだったようです。
こうして育てられた、禿が14歳くらいになったとき、将来の進路が定まります。
「呼出し」と呼ばれる最高位になれそうな美人は「引込み」に
14歳頃「引込み」
美人で将来を嘱望される禿は、女郎屋の主人夫婦の傍らに置いて、将来「呼出し」にするための英才教育をします。この期間は禿名のままで見世には出さず、細見にも載せず引っ込めておくので、「引込ひっこみ」と呼ばれました。
14歳頃「振袖新造」
「引込み」になれなかったその他大勢の禿は14歳前後で「振袖新造」になります。
そして育てた花魁が「新造出し」の挨拶廻あいさつまわりに付き添い、配り物・祝儀などの費用をすべて負担してくれます。さらに本人の衣装だけではなく、花魁の衣装も新しく仕立てるため、かなり費用がかかります。これも花魁の負担ですが、花魁はこれを複数の馴染み客にお願いをして出してもらうので、日頃からのサービスが大事です。もし不足すれば、それも花魁の負担ですが、地味なことをすれば、花魁の名前に傷が付くので、ここは奮発しなければいけません。
振袖新造になると、花魁の用事をしたり、道中の供をしたり、座敷で客の相手をしたりしますが、この段階では、原則客を取りません。
17歳で最上位の遊女、蔦重の時代は「呼出し」としてデビュー
17歳頃「呼出し」(花魁)
この頃まで、客前に出なかった「引込み」がいよいよ客前に出ます。そのため、女郎屋としてはせっかくここまで大切に育てたのですから、高く売りたいというのが本音です。
そこで振袖新造を飛び越して、一気に女郎の最上位に登ります。蔦重(蔦屋重三郎)の時代、安永4年(1775)の細見に出ている「太夫」「格子」は名ばかりで事実上は消滅したので、最高位は「さんちゃ」(散茶)になりました。さんちゃは本来、太夫格子の下の中級女郎でしたが、昇格した形です。翌年にはそれも分化して「呼出し」「付廻し」ができ、さらに「呼出し」だけになりました。
そのため「引込み」は「呼出し」に、一気に引き立てられ、女郎のトップに登りました。禿二人と振袖新造が付いていて、身の回りの用事をしてくれます。
そして、呼出しが呼出したる所以ゆえんは、張見世に出ることもなく、引手茶屋からの呼び出しで女郎屋から引手茶屋に行くことから。そのとき行われるのが花魁道中で、自分も含めて9人が並び、禿や女郎も着飾った衣装で行列を組みます。これを目当てに来る客もあり、まさに吉原の花の象徴です。
花魁になれない娘は先輩女郎に付き、17歳から客を取る
17歳頃「座敷持」(花魁)(張見世に出る)
振袖新造も17歳くらいになると、世話になった花魁から独立して、着物の袖も振袖から留袖に替わり、いよいよ一人前の花魁となります。
座敷持というのは、日常過ごす自分の部屋と、客をもてなす部屋を持つ女郎のことで、だいたい二間続きの部屋になっています。
座敷持には禿が一人付く場合もありますが、だいたいは付きません。
17歳頃「部屋持」(花魁)(張り見世に出る)
部屋持は、座敷持とほとんど一緒ですが、日常を過ごす部屋に客を迎い入れて接待するので、階級としては一段下がります。
「留袖新造」
留袖とめそでとは振袖の長い袖を切って、歯にはお歯黒をして、大人の女性になったことを表します。ここには振袖新造から座敷持や部屋持になれなかった女郎だけでなく、禿から入らず、年長で吉原に入ってきた女郎、そして他の見世から来た女郎など、大人になってからの女郎も留袖新造と呼びます。
客を迎える部屋は大部屋を複数の女郎で使う「廻まわし」で、布団の間には屏風を立てて仕切っていました。
30歳過ぎて店に残り「遣手婆」に、後輩を折檻することも
30歳代「番頭新造」
女郎を卒業したという立場で客はとらず、女郎たちの世話をしたり、花魁道中の指導をしたりする役目で、小見世では一人しかいませんでした。しかし、実際は深い馴染客の相手はしたと想像できます。
見世の主人に気に入られれば、遣手やりてになる人もいます。
40歳以上「遣手」
年齢が限定されているわけではありませんが、番頭新造からなる人が多いので年配者が務めました。そのため「遣手婆」とも呼ばれます。
遣手は女郎全員の監視役です。そのため、女郎部屋全体の動きがわかる階段の上り口に部屋をもらって、常時女郎や客の動きを見張っていました。
時には女郎を折檻することもあったため、怖いと思われていますが、困ったときには相談に乗ってくれる人生の先輩です。
身請けされるのが女郎の幸せ」というのは本当か?
さて、ここからは女郎を卒業したあとのお話をしましょう。
『身請け』
「身請け」とは、身代金を払って女郎を請け出すことです。この場合、女郎は年季奉公なので、本来は親の承諾もいりますが、多くの場合、子を売った親に、今後すべての縁を切るとの証文を入れさせているので、横やりを入れてくることはありません。あとは女郎本人の選択です。
「女郎の一番の幸せは身請けされることである」とよく言われますが。これは単に、生活面のことを言っているだけで、必ずしも好きな相手と夫婦になれるわけではありません。
女郎屋としては、少しでも高く身代金を払ってくれる客がいいのですが、一応女郎の拒否権は認められていました。とはいえ、ほとんどの女郎が売られてきたときの借金や吉原で暮らすうちに貯まった借金が積もり積もっているので、やはり高い身代金は魅力です。
とはいえ、嫁にもらわれたが「女郎上り」ということから、お姑や小姑などからいじめられて追い出されたケースもあるので、必ずしも金持ちがよいとは限りません。
27歳の年季明けで自由になれる女郎は少なかった
『年季明け』
禿として育てられた期間を除いて、17歳くらいから女郎として働けば、27歳くらいで、年季が明けます。そのため、女郎の定年も27歳くらいを基準にしていました。
それより年長はそれぞれの道を歩みます。もちろん自由の身になったというので、好きな人の女房になる幸せな話もありますが、在籍中に借金がかさんでいると、そのまま年季明けとはならず、延長されます。
その場合、番頭新造として女郎屋に残れるのは一人ですから、それ以外は身売りをして、「切見世」とも呼ばれる「河岸見世」や「局見世」に売られます。中には、女郎屋に在籍せずに一人で営業している「隠し女郎」をしている人もいました。
吉原以外の岡場所や地方の遊郭に売られることもあり、なかなか女郎稼業から抜け出せません。
山田 順子(やまだ・じゅんこ)
時代考証家
1953年広島県生まれ。専修大学文学部人文学科卒業。CMディレクター、放送作家を経て時代考証家となる。ドラマ「JINー仁一」「天皇の料理番」「この世界の片隅に」など、江戸時代から昭和まで、幅広い時代の時代考証や所作指導を担当。著書に『江戸グルメ誕生』(講談社)、『お江戸八百八町三百六十五日』『海賊がつくった日本史』(ともに実業之日本社)、『時代考証家のきもの指南』(徳間書店)など多数。2025年大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)では吉原風俗考証を担当。