1994年、彗星のごとく現れた日本酒「十四代」。斬新な味わいで人々の心を捉え、瞬く間に人気銘柄に躍り出た。以来、現在に至るまで30年間にわたってトップスターとして燦然と輝き続けている。酒を醸したのが、蔵の25歳の跡取り息子だったことも革命的だった。流行に捉われない独自の美味しさの追求、“蔵元杜氏”というスタイル、飲み手の心をそそるネーミングや常識はずれの価格設定など、十四代はパイオニアとして日本酒業界に変革をもたらし、孤高の取り組みを続けている。この連載では、高木酒造(山形県村山市)十五代蔵元・高木辰五郎(当時は顕統=あきつな)さんの存在によって、日本酒の世界がどう変わったか、他の蔵元や酒販店、飲食店の声を交えて紹介していきたい。
■31年前に登場した一本の酒から熱狂が始まった
キリリとドライな酒、スイーツのような甘美な酒、酸のある爽やかな酒や発泡する酒など、上質で多様な日本酒が魅力を競い合う現代。私たちは好みや料理、シーンに合わせて飲む酒を自由自在に選ぶことができる。
だが、かつて日本酒のバラエティーは今よりずっと乏しく、約30年前に流行していたのは、すっきりとした飲み口の“淡麗辛口”の酒だった。淡麗で辛い酒に人気が集まったのは、大量のアルコールと糖類等が添加された安価な酒の甘さへの反動でもあった。辛口な酒こそ上質で、究極は旨味も甘味も感じない水のような酒だという人も、当時は少なくなかった。
ところが、1994年に登場した「十四代」は、新鮮な果物のような香りと、溌剌とした濃醇な旨味を併せ持つ“芳醇旨口”な酒として注目を浴びる。豊かな甘味や旨味を湛えながら、飲み口は軽く爽やかで、飲んだ後は心地良く消えていく。甘味に関しても、糖類を添加した酒にありがちな後口に残る重い甘さとは明らかに違っていた。新しい美味しさに日本酒党や酒の目利きたちは衝撃を受け、熱狂の渦に包まれていく。
酒を造った高木顕統(あきつな)さん(2023年に十五代・辰五郎を襲名)が25歳と若く、蔵元の子息だったことも業界を激震させた。当時、蔵元は経営に専念し、酒造りを行なうリーダーは、経験を積んだ熟年世代の杜氏が務めるのが通例だった。蔵元家の多くは地域に根付いた名家で、杜氏は故郷で農業や漁業を生業として、冬場に酒蔵に泊まり込んで酒造りに専念する季節労働者だった。「十四代」のように名家の“お坊ちゃま”が、杜氏の代わりに自ら酒を醸すのは、極めて異例であった。
若い跡取りが醸した新参の銘柄「十四代」は大ブレイク。雑誌やテレビなどメデイアは、高木さんを“日本酒業界の新星”“シンデレラボーイ”などと大々的に取り上げた。輝けるスター蔵元の存在は、当時、若手の蔵元たちに大きな刺激を与え、意識改革をもたらす。現在、中小規模の酒蔵では、蔵元が醸造責任者を兼任する“蔵元杜氏”というスタイルはむしろ一般的だ。季節労働者として雇用契約を結ぶ杜氏のなり手が激減したのも要因ではあるが、家業に就いたばかりの若い跡取りが、「自ら現場で酒を醸す」選択肢があると考えるようになったのは、高木さんの成功が契機といっても過言ではない。「十四代」のデビューはそれほどのエポックメイキングだったのだ。
高木さんは、なぜ自ら酒を醸したのか。どんな思いで、それまでにない斬新な味わいの酒を造ったのだろう。
高木酒造は、豪雪地帯として知られる山形県村山市富並に立地している。創業は、徳川幕府が天下平定した節目の年にあたる元和元年(1615)。1968年、老舗蔵の長男として生まれた高木さんは幼いころから、跡取りとしての期待を自然に受け入れていたという。小学生の頃から食材の食べ比べを通して祖父から味覚の英才教育を受け、中学生からは父の帝王学に従い、親元を離れて、山形市内で一人暮らしを始める。上京して東京農業大学第一高校、同大学醸造学科で学び、卒業後は伊勢丹に就職し、新宿で酒売り場を担当する。2年が過ぎたとき、父(十四代・辰五郎さん)から、杜氏が引退することになったと連絡があった。
父は県会議員を務めていたので、家業を見るのは自分しかいない。1993年に帰郷し、24歳で家業に就くと、父から杜氏代わりに酒造りをするよう要請される。「業績は下向きで新たに杜氏を雇うことは避けたかった。僕が造るしか選択肢はなかったのです」と高木さんは当時の事情を明かしてくれた。杜氏は去ったが、幼い頃に遊んでくれた蔵人たちは酒蔵に留まり、酒造りを支えてくれる。老舗蔵の誇りと跡継ぎとしての使命感を胸に、高木さんは“蔵元杜氏”としての第一歩を踏み出したのである。
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ネット上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち、山同敦子(トップ画像撮影・たかはし)