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山田詠美「女流作家として戦ってきた人たちのことを、忘れてほしくない」。3人の女性作家の人生を描いた、Audibleオーディオファースト小説『三頭の蝶の道』【インタビュー】

  • 2025.4.11

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直木賞をはじめ、数々の文学賞を受賞してきた山田詠美さんが、Amazon オーディブルの「オーディオファースト作品」のために書き下ろした『三頭の蝶の道』を発表。Audibleでオーディオブックとして先行配信され、その後に書籍として出版される「オーディオファースト作品」に、デビュー40周年という節目の年に初めて参加した本作は、激動の昭和を生き抜いた女性作家たちの人生を描く長編小説だ。朗読は俳優・高畑淳子さんが担当した。本作はどのようにして生まれたのか? 本作に込めた想いや、山田さんが考える「小説」について話を聞いた。

●きっかけは「ベランダの蝶」

――作家と、作家にかかわるすべての人たちが背負う業のようなものが、それぞれのかたちで描かれている非常に凄みのある小説でした。1行目から、句読点の位置もそのままに、文章が頭のなかで鳴り響くような美しさもありますが、Audibleのための書きおろしということは意識されていたのでしょうか。

山田詠美(以下、山田):あまり意識せずに、ご依頼をいただいたときに書きたかったものを書いただけなのですが、昔、ドラマ『大奥』で岸田今日子さんがナレーションされていたように、ねっとりとした雰囲気で朗読してもらえたらいいな、とは思っていました。非情に閉ざされた世界を描いた物語ではあるけれど、どこか開かれた部分を求めている。そんな雰囲気を文章で醸し出したいとも。

実際に書くときは、朗読していただくことなど忘れて、ただ作品に集中するばかりでしたが、人の声に乗ることによって新たなケミストリーが生まれ、また違う印象をもって聴く人に届くのだろうと思うと興味深いですね。

――蝶をモチーフに三人の作家を描くという構想は、どこから生まれたのでしょう。〈あの蝶たちは、いつも、同じ道を舞いながら行くのよ。蝶にしか見えない通り道。そういうの、蝶の道と呼ぶの〉というセリフと、三者三様の生きざまが重なり、描かれていない部分にまで思いを馳せてしまいました。

山田:私ね、実をいうと蝶が苦手なんですよ。『蝶々の纏足』とか『唇から蝶』とか、タイトルに使うことも多いから好きなのだと思われたみなさんが、蝶をモチーフにした贈り物をしてくださることも多いのですが、本当は観るだけでおそろしい。でも、自然界が作ったアーティスティックな雰囲気に、かきたてられるものがあるのかな。自分でも、理由はよくわからないのだけれど。

――意外です。

山田:避けようとするからこそ妙に気になってしまう、ということもあるんですよね。だから、うちのベランダにやってくる蝶のことも、つい観察してしまう。それであるとき、おもしろいことに気が付いたんです。うちはマンションの6階で、ベランダのバルコニーも広いのだけど、毎年、同じ種類の蝶がひらひらと飛びながらやってきて、同じところに止まるんです。これはどういうことなんだろうと夫に聞いたら、人間には見ることのできない蝶だけの道というのがあるのだという、セリフのようなことを教えてくれた。導かれるように同じ道をゆき、その止まり木にたどり着かざるを得ない。そんな蝶の姿に、小説を創作する人たちの姿が重なった、というのがきっかけです。

――なぜ、三頭の蝶……三人の作家を描こうと思われたんですか。

山田:蝶を「頭」でカウントすると知ったとき、その存在に何か大きくうごめくもの……生き物としての巨大さを感じたんですよね。だから本作では、女流と呼ばれた三人の大作家たちを描くことで、生き方や作家としての在り方はそれぞれ異なれど、どこか通じるところのある特質を描けるんじゃないかと思いました。最晩年の瀬戸内寂聴さんが、河野多恵子さん・大庭みな子さんとの絡み合いをモデルに『いのち』という小説を書いていらっしゃいますが、お三方とそれぞれ交流のあった私の視点で、フィクションだからこそ浮かび上がらせることのできる作家の姿を、蝶に重ねて描いてみたいな、と。

――物語は、2015年に河合理智子という作家が亡くなり、ごく少人数で執り行われた葬儀の風景から始まります。第二章は遡って2007年の高柳るり子、第三章は2023年、森羅万里の葬儀から。三人の作家が亡くなったところから、その生が語られるという形式も味わい深かったです。

山田:葬儀には、その人の人生の他者からはうかがい知れぬ事情が凝縮されていると思うんですよ。だから、長い人生をしめくくる葬儀を起点に、なぜこういう最期を迎えることになったのか、人々はどういう想いでその人を送ろうと考えたのか、とさかのぼって思案するのが好きなんですよね。生まれたときから順を追って書くよりも、その人がどういう人なのか、想像もふくらませやすい。亡くなった順どおりではなく、河合理智子の章から始めたのは、ひとりだけモデルとはっきり言える河野多恵子さんに対する思い入れがいちばん強いからで、実際、葬儀に三人だけ招かれた作家のひとりは私でもあるのですが、ディテールはすべて想像。具体的な実像からは、だいぶ離れた物語になっています。

――それぞれの章で語られる作家の姿が少しずつ異なっているのも、おもしろかったです。三人のパーソナルな部分と作家としてのありようがさまざまな角度から浮かび上がってきて、人はこんなふうに誰かの記憶のなかで生き続けるのだな、と。

山田:真実というのは人の数ほどあるものですからね。「女性の作家」とひとくくりにして批評したがる方もいると思いますが、小説もけっきょくのところ、男も女も関係ない個人的な問題なのだということを、改めて感じました。

●差別主義であることと、差別を描くことはまるで違う

――本作では、三人を通じて「女流作家」と呼ばれた時代についても描いていらっしゃいます。〈むかしむかし、女流作家という名の妖怪たちが棲息していました〉という第二章の冒頭には、ぞくっとするものがありましたが、一方的に差別されていたわけではない、女流作家たちの矜持みたいなものも感じられました。

山田:女流作家という呼び名には吐き気がする、と若い女性の作家が発言しているのを読んだとき、なんだかいやな気持ちになったんですよね。もちろん、その呼び名を使わなくなったことは、時の流れにそっているんだけれど、あなたが今、ただの作家として立っているその足元には、女流作家として戦ってきた人たちの累々たる死体があるんですよ、その人たちが土壌を固めてくれたから今の場所があるんですよ、ということを言いたかった。

――〈女流っていう差別言葉を、そのうち、敬称に変えて見せてよ〉と、河合理智子が言う場面がありました。〈差別語を逆手に取って、自分たちの存在を主張するのは、言葉による決起〉という言葉も。

山田:アメリカの黒人がみずから蔑称を用いて結束したように、差別を逆手にとって負けるもんかと奮起する。そういう時代があったことを、忘れてほしくないんです。差別主義であることと、差別を描くことはまるで違うし、その呼称を受け入れざるを得なかった人たちがどのように戦ってきたかは、今の時代を生きる人たちにもちゃんと知っておいてほしい。女流作家という言葉を使わなくなったからといって、その時代をなかったことにはできませんからね。女流という言葉をむしろ特権にしてしまおうと生まれたのが女流文学者会で、『女流文学者会・記録』という本も刊行されているので、ぜひ読んで、学んでいただきたいとも思います。

――逆に、男性作家だからといって、女流作家を下に見ていたわけではない、それもまたひとくくりにできるものではないんだということも、本作では川津直太郎という作家を通じて描かれていました。

山田:女流作家という言葉がひとり歩きしているせいで、よほど差別的に扱われていたんだろうと思われがちだけど、私が知っている先輩男性作家のほとんどは、そんなふうではなかった。もちろん、女のくせにと言いたがる人もいたけれど、それは作家に限った話ではないでしょう。優れた女性の作家にはちゃんと賛辞を贈り、応援しよう、支えになろうとしてくれた人もたくさんいましたし、むしろ一般社会に比べて、男女がスタート地点で区別をつけられることがない、フェアな業界だと思っています。

●質がよければ、カテゴリーなど関係なく評価される

――区別、ということでいうと、純文学と大衆文学(エンタメ)の区別は、今よりも明確だったことが描かれていますよね。〈伝統を踏襲するのではなく、その先の新境地に自分の筆を持って行って動かそうとする人。咲は、そんな書き手を純文学作家と呼びたい〉と編集者が思う場面がありました。

山田:その区別をなくしたのは、私が『ソウル・ミュージック・ラバーズ・オンリー』で直木賞を受賞したときだと言われているのですが、そもそも私は、小説のカテゴリーなんて意識したことがなかったんですよ。

初めて書いた小説でデビューしてしまったものだから、芥川賞と直木賞の違いもよくわかっていなかったし、最高におもしろい小説は、純文学とエンタメが最良のかたちで交わったものだと今でも思っている。

素晴らしいエンターテインメントも、自分自身を追求する過程で生まれるものだし、それは純文学もどちらも同じですからね。質が良ければ、カテゴリーなど関係なく評価される。それでも、エンタメと純文学では選ぶ言葉が違うのだな、ということは書き続けるなかでわかってきて、そうした想いも本作にはあらわれていると思います。

――そういう作家としてのスタンスも含めて、三人は「仲良し」というわけではなかったし、ときに険悪になることもありましたが、〈愛に近い敬意、そして、嫉妬に近い憎しみが、その三人の間には常に交錯していた〉と描写されるその関係に、女流作家としての共闘みたいな得難いものが感じられました。

山田:高柳るり子みたいに、男性相手ならうまく人間関係を築けるけれど、女性相手には、誰かの悪口を言って取り入ろうとするやり方しかできない、サークルクラッシャーみたいな女はたくさんいますし、女同士だからって連帯できるとは限らない。私自身、嫌いな女はたくさんいますし、近頃は安易にシスターフッドという言葉を使いすぎなんじゃないかと思うこともあります。でも、個人的な関係を築いていくなかで、“この人だ”と思えた相手とひそやかな友情をはぐくむことはできるし、その一つひとつのかたちを丁寧に描けるのが、小説の良さなんじゃないかとも思います。そしてそのディテールのなかに、本作では、女性の作家たちがもつ特性を描けたのではないかな、と。

――畏敬をもって妖怪と呼ぶに値する、彼女たちのような存在と同じ時代を生きられなかったことが、読み終えたあとに悔しくなりました。

山田:これから先、彼女たちのような作家がどれだけ生まれるかというと、やはり難しいものがあると思います。文学というのはそもそも女が始めたことなのだと、矜持と不屈の精神をもって彼女たちが戦い抜くことができたのは、戦争を経験し、時代に鍛えられてきた部分も大きいでしょうから。

とはいえ、同時代を生きてきた他の女性作家たちに比べても、やはり三人の存在感は圧倒的だったと思いますよ。病床の高柳るり子に、他の女性作家がポインセチアの鉢植えを差し入れされたというエピソードを書きましたが、これは実際、ある女性作家の親族の日記に書かれていたことで。寝付くに通じる鉢植えというだけでだめなのに、花言葉を知ったときは本当におそろしかった。以前、憎い女の死を願って苦しんで死ぬを思わせるシクラメンの鉢植えを贈るシーンを短編で書いたことがありますが、本当にやる人がいたとは。

――それを無邪気に喜んでいたというエピソードからして傑物ですよね。そして、そのエピソードを語る編集者や、周囲の人たちがいてこそ、作家というのは生きるのだなということも本作を通じて感じました。

山田:たったひとり、孤独のなかで自分は小説を書き続けているのだと思っていても、実はそうではない。多くの人たちの影響を受けながら自分の世界は構築されているのだということを、改めて意識せずとも感じます。価値観や風俗が変化するにつれて、物語のディテールも変わっていくけれど、描かれる関係性自体は決して古びることはない。だからこそ、いつまでも小説は読まれるのだなと。三人の作家が歩んできた道筋と、その不変の関係性を通じて、これからの時代を生きる人たちに何か響いてくれるものがあったら嬉しいですね。

取材・文=立花もも、撮影=干川修

(著者:山田詠美、ナレーター:高畑淳子)

【作品詳細】

『三頭の蝶の道』

配信日:4月11日

著者:山田詠美

ナレーター:高畑淳子

URL : https://www.audible.co.jp/pd/B0F32C9P9B

編集者の林田咲は、作家・河合理智子の告別式に参列していた。河合はかつて女性が書いた小説が「女流文学」と称された時代から活躍し、文学史に名を遺した、偉大なる女性作家。しかし、その葬儀はごく質素なものだった――。激動の昭和を生き、自分の筆一本で創作の世界を切り拓いた三人の魅力的な女性作家たち。その足跡をたどり、確かにあった熱い「女流」の時代を、同世代の作家、編集者、親族など様々な視点からフィクショナルに描き出す。著者デビュー40周年に満を持してリリースされる、記念すべき書き下ろし長編作品。

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