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“アンパンマンのマーチ”には「死」のテーマが含まれている? 連続テレビ小説『あんぱん』で再注目、やなせ氏の生涯を梯久美子が語る【インタビュー】

  • 2025.4.5

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3月31日(月)にスタートする朝の連続テレビ小説『あんぱん』。アンパンマンの生みの親として知られるやなせたかし氏の奥様・小松暢さんを主人公にした物語だ。やなせ氏については「自分の顔をお腹が空かせた人に分け与えるヒーロー・アンパンマンを思いついた背景には自身の戦争体験があった」「三越で現在も使われている包装紙に書かれた筆記体はやなせ氏によるもの……」など多くの逸話が残されている。しかし絵本作家としてだけでなく、多方面で活躍したやなせ氏にはまだまだ知られていないエピソードが多数ある。そんなやなせ氏の半生をまとめたのが『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』(文藝春秋)だ。

やなせ氏が編集長を務めた雑誌『詩とメルヘン』で働き、晩年まで親交があった上に、『あんぱん』の脚本家・中園ミホ氏とも交流のある梯久美子氏による本著。早くに父を亡くし母と別れて暮らすことになった寂しさから、仕事が順調に舞い込むようになってからも続く自分の才能への葛藤まで、やなせ氏の生涯が濃密に描かれた本作はどのように執筆されたのか。「怒っているところを見たことがない」という生前のやなせ氏の人柄についても伺った。

“アンパンマンのマーチ”の歌詞は変更されていた 歌詞に込めたやなせ氏の想い

――まずこの本を書こうと思った経緯から教えてください。

私はやなせ先生の伝記を以前にも一度、ジュニア向けに出版したことがあって(『勇気の花がひらくとき: やなせたかしとアンパンマンの物語』《フレーベル館》)。この時は、先生が亡くなられた直後くらいに「やなせ先生の話をしてください」とNHKのラジオ番組に呼ばれたことがきっかけだったんです。ご一緒した編集者の方に「子ども向けの伝記を書きませんか」とお誘いいただき「そういえば先生とは長い付き合いだったけれども、人生については意外と知らないな」と思って。やなせ先生はすごくお世話になったし尊敬する先生なので、私自身が先生のことを深く知るためにも書かせていただこうかなと思ってお引き受けしました。

刊行後、教科書会社から「教科書に載せたい」という問い合わせがきまして。今も2種類の小学校5年生の国語教科書に載っているんです。教科書に載ると、一気に問い合わせや感想のお便りが増えるんですよ。中でも親御さんからの反響が大きくて。「子育て中にアンパンマンにはお世話になったけど、作者の方がこういう人だとは知らなかった」というお声をたくさんいただいたんです。なのでそういう方たちに向けた大人向けの伝記をいつか書きたいなと思っていたのが、ひとつめの理由です。

もうひとつは2019年に高知の香美市立やなせたかし記念館に行ったときに、“アンパンマンのマーチ”の手書き原稿が展示されていたんですね。それを見たら、冒頭の歌詞が少し違っていたんですよ。〈たとえ 胸の傷がいたんでも〉という部分がもともとは〈たとえ いのちが終るとしても〉だったことがわかった。それを見て、「アンパンマンは“死”がテーマだったんだ!」と衝撃で。

死は先生の人生の中でずっと大きなものだったと思いますが、私が見てきた先生からは全く暗さを感じなかったんですね。時折、寂しげな感じがしたことはあったけれども、ユーモアがあってダンディな方だった。人生のつらさ、きびしさを超えて命を肯定して生きようとしていた方だったことに改めて思い至りました。そんな先生の姿を伝えたいとも2019年からずっと思っていて、今回の出版につながりました。

――執筆にあたって多くの資料を集められたと思うのですが、印象に残っている資料はありますか?

今回は今まで表に出ていない資料もいくつか見つけることができました。ひとつは高知新聞社から提供いただいたものです。高知新聞社は先生が小松暢さんと出会われた職場ですが、暢さんに関することって、出会ったときや亡くなられたときのことを先生ご自身が少し書いているくらいで、客観的な資料はなかったんです。今回、高知新聞社に行ってご協力いただいて、おふたりの若い頃の写真や編集していた『月刊高知』の現物を見せてもらいました。終戦翌年の1946年のものですから、とても貴重です。先生が描かれた漫画やイラスト、短い小説なども載っていて、暢さんが書いた文章も見つけました。

もう一つはやなせ先生のアルバムです。戦争で先生が中国大陸に行く直前の時期に、学生時代の友達の写真などを貼ったアルバムがあったんです。写真の横に先生の手書きの文章があって、先生の「戦争でもしかしたら死ぬかもしれない」というときの気持ちがわかる重要な資料でした。弟さんの写真の横には、海軍予備学生になったばかりの弟さんに宛てた詩のような長い文章もありました。

――膨大な資料ということで、取材にも多くの時間がかかったのではと思うのですが。

それがそうでもない……と言うと語弊がありますが、前回の本を出すときにほぼ取材していますし、2019年に手書きの原稿を見たときから気になっているものを集めたりしていました。『詩とメルヘン』はもちろんうちにありますし、先生からいただいたお手紙も。私の23歳くらいから今までの人生そのものが資料だったとも言えますね。

――まさに人生を費やした一冊ですね。中でも記憶に残っている出来事はありますか?

やなせ先生が戦時中、中国で行軍をしたときのことを「そこは父が昔歩いた場所だった」と書いているんですね。なぜ先生がそれをわかったかというと、お父さんは上海に日本が作った東亜同文書院という学校を出ていて、その卒業旅行の文集が残されていたそうなんです。そこに、旅のルートが記されていた。ただ多くの人が関わった本なので、お父さんがどの文章を書いたのかはずっとわかっていませんでした。

ところが今回、お父さんがお母さんに宛てて中国から出した手紙が見つかって。そこに“浪男”という署名があったんです。その時は「ふたりの間だけで使っていた名前みたいなものなのかな?」と思ったんですが、改めて卒業旅行の文集を見てみると、同じサインがある文章が結構出てきて。それで、文集の中でやなせ先生のお父さんが書いた部分を特定できたんですね。

評伝を書くときいつもそうなんですが、ひとつの資料を見てもわからなかったことが、複数の資料を突き合わせるとわかることがあって。今回の場合は、文集と手紙ですね。調べていくうちにいろいろなことが繋がってくる。そこが評伝作家としての醍醐味、面白さですね。

「なんで僕なんかに頼むのかわからない」最後まで謙虚で優しかったやなせ氏

――やなせ先生ご自身についても伺いたいのですが、憧れていたやなせ先生にお会いして一緒に仕事をするようになって、第一印象はどんなものでしたか?

風のような感じの、さらりと軽やかな方でしたね。『詩とメルヘン』で働いていたときは私ともうひとりの編集者のどちらかがやなせ先生のところにほぼ毎日伺っていたのですが、一度も怒られたことがないし、誰かを叱っているのも見たことがないんです。7年くらい先生のもとで働いていましたが、きつく当たるとか、ちょっと不機嫌な顔するとか、「ああしろこうしろ」と命じる姿も一度も見たことがありません。

――本書の中には、やなせ先生には仕事が順調になって以降もご自身の中では悩みがあったとありました。それは接する中で感じたことだったんですか?

いや、お会いしているときは悩んでいる姿を見せない方でした。先生がお書きになった本などを読んで感じたことです。やなせ先生自身はアンパンマンがヒットするもうずっと前から売れっ子で、メジャーな仕事をいっぱいなさっていたんです。何でもできる人だったし能力もあって性格もいいからたくさん仕事を頼まれて、どんな分野でもある程度成功して。でもだからこそ、ご自身に代表作がないことを悩まれていたのかな、と先生がお書きになった本を読んで感じましたね。

漫画家の方って、みなさん必ず代表作がありますよね。だからそこにはちょっと忸怩たるものがあったのかなと。私が先生に憧れて編集部に入った頃にはすでに巨匠で、詩集『愛する歌』だって十何万部も売れていたし、『手のひらを太陽に』も『やさしいライオン』もすごくヒットしていて。詩や絵本が好きな人たちの中ではすでにとても有名だったんです。

――本書を読んで、「やなせ先生ほどの方でも悩みがあったんだ」と親近感を持ちました。

非常に謙虚な人だったので「自分がすごい」とか、本当にあんまり思っていなかったんだと思います。著名な方から仕事を依頼されても、「なんで僕なんかに頼むのかわからない」って何度も書いていらっしゃるんです。例えば宮城まり子さんからリサイタルの構成を依頼されたことがあったのですが、それもやなせ先生は「突然頼まれた」みたいな書き方をされていて。でもその前に宮城まり子さんにインタビューして、記事を出しているんですよね。そこで宮城さんは「いい人だし仕事ができる。こういう人と一緒にやりたい」とお感じになったんだと思います。

アンパンマンが世に出たのも、ずっとさかのぼっていくと、手塚(治虫)さんが初めて大人向けのアニメーションを作るときに「美術監督やりませんか」と声をかけてこられて、その仕事が評価されたことがもともとのきっかけなんです。「なんで僕なんかに」ってやなせ先生は謙虚だから言うけど、すべてやなせ先生がそれまでにやってきた仕事が評価されたからなんですよね。

――一方で本作の中にはやなせさんが辛い時や苦しい時、力になってくれる人が現れたという記述もあります。人柄の魅力もお感じになったことはありますか?

それはもうね、会った人全員が口を揃えると思うんですけど、いい人なんですよね。優しい人なんです。暢さんも取材を受けたときに「本当に優しい人で虫も殺さない」と答えているくらいですから。長年連れ添った奥様がそう言うのってすごいことですよね。

あと本には引用しませんでしたけど、精神科医の斎藤茂太さんがやなせ先生に会ったときに「あなたそんなに優しい目をしていて、今までよく生きて来られましたね」っておっしゃったエピソードもあって(笑)。本当におだやかで優しい人だからこそ、人が親切にしてくれるっていうのはあったと思いますね。

「ただ自分が知りたいから」ノンフィクション作家が評伝を書く理由

――梯さんご自身が評伝を書かれたり戦争について書かれたりするようになったのは、やなせ先生と過ごした時間が関係しているんでしょうか?

直接的には関係ないですね。逆に「やなせ先生の人生を書こう」「私が書いてもいいのかも」と思ったのは私が戦争に関する本でデビューしたからこそというのはあります。やなせ先生と対談したときに、先生がご自分の戦争体験をお話ししてくれる流れになったのは、私が戦争に関する本を出していたからなので。今ではよく知られている「アンパンマンが自分の顔を食べさせるのは、先生が戦地で飢えた経験があるからだ」という話もその時伺いました。

――戦争について詳しく調べられている梯先生だからこそ、やなせ先生も戦争体験をお話しになったんですね。

そう考えると、私は戦争のことを調べていなかったらやなせ先生の評伝を書かなかったかもしれないですね。評伝って自分が書く必然性みたいなものがある程度ないと「なんで私が書くのか」って思ってしまうんです。私が書いている他の評伝も、自分の中で自分が書く必然性みたいなものを感じられたから書いています。

これまで私は戦争の時に20代前後だった方々のことをたくさん調べて、書いてきました。この世代の方たちは青春時代が戦争と重なって、しかもたくさんの方が亡くなっているので「死んでしまった人たちのために自分は何をしたらいいのか」というのをずっと考えてきた。同時に戦後の日本を作ってきた人たちでもあります。そこが私のテーマになっているんですが、やなせ先生もその世代の方なんですよね。戦争の重さを背負っていた人という感じが全然しなかったので、近くにいる間はそのことに気付いていませんでした。

――今回の本もそうですが、評伝は執筆のために膨大な資料にあたらなくてはいけないしすごく大変な作業ですよね。そのモチベーションになっているのはやはりその方々の想いを伝えたいというところなんでしょうか?

実は、「伝えたい」という気持ちはあまりないんです。ジャーナリストの方は「これを伝えなければ」という使命感が仕事の根本にあって、本当に立派だと思うんですけども、ノンフィクション作家である私は、もっと自分本位というか、「私が知りたい」という気持ちがまずあるんです。

ただ取材ってすごく暴力的なことで、たとえばインタビューでも相手の方からしたらこちらに話す義務があるわけでもないのに、当事者ではない私が「その時どうでしたか」とかって聞くわけです。でもその時、私の中には「どうしてもこれが聞きたい、これを聞かないと私の人生が前に進めない」という気持ちがあって、それが伝われば答えてくれる人は答えてくれる。もちろん拒否されることもあって、その時は意を尽くして、「なぜあなたでなければならないのか」を説明しますが、それでも駄目ならあきらめます。

――梯さんご自身の心が動く瞬間みたいなものがあって、それが表れているからこそ評伝作品から伝わってくるものがあるんだろうなと感じました。

私自身これまで本を読んできて、自分と全然環境も違う話だけど「なんかわかるな」「励まされるな」と思うことがあったんですね。だから遠いところにボールを投げる気持ちで書くというか、作品の本筋が印象に残らなくても、意外なところで伝わったりすることもあるんじゃないかなと思います。

書いても本にならなかったり、最後まで書き終えられなくて命が尽きる、ということがあるかもしれない。でも文章にすべき出来事とか人物とか、そういうものがあると思うので、私は最期までノンフィクションを書いていたいと思います。

取材・文=原智香、撮影=文藝春秋写真部

■梯 久美子(かけはし・くみこ)

1961年熊本市生まれ。北海道大学文学部卒業後、やなせたかしが編集長をつとめた雑誌『詩とメルヘン』の編集者となる。40代でノンフィクション作家としてデビューし、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。同書は米、英、仏、伊など世界8か国で翻訳出版されている。読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞ほかを受賞した『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮文庫)など著書多数。ジュニア向けに書いたやなせたかしの伝記『勇気の花がひらくとき やなせたかしとアンパンマンの物語』(フレーベル館)の内容が、小学校5年生の国語教科書に掲載されている。

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