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ミス・マレーシアに選出、アクション俳優の道へ
裕福な家庭に生まれ、幼いころから英才教育を受けてきたミシェルは、バレリーナを目指してロンドンに留学するものの、ケガで夢破れます。そんな時、母が勝手に応募していたというミス・マレーシアのコンテストに出場、その美貌から、ミス・マレーシアに選出されるのです。このことが、俳優になるきっかけに。
1984年、ミスコンを通じて知り合ったある人物に、ギ・ラロッシュの腕時計の広告でのデビューをサポートされ(なんと、共演者は大スターのジャッキー・チェン!)、この広告出演が大当たり。ある人物は、自身が経営する映画プロダクションD&Bフィルムズとミシェルとの契約を結ばせ、アクション俳優として活躍していきます。
ここでの“ある人物”とは、後に最初の結婚をすることになるディクソン・プーン。彼との出会いで、今のミシェルがあると言っても過言ではないのかも...。
最初の結婚で一旦は芸能界引退、家庭に入るも…
俳優としてずっとキャリアを追ってきたイメージのあるミシェルですが、実は一旦引退していたのはご存じでしょうか。
ミシェルが26歳だった1988年、ミシェルが所属する映画制作プロダクションを経営する香港の実業家、ディクソン・プーン(写真右)と結婚。家庭生活を優先させたいとの彼女の思いから、女優業から引退します。
ところが、4年後には離婚へ。その原因は、夫がミシェルの親友である女性と不倫したためで、翌年にはその女性と早々に再婚したため一時は大スキャンダルになりました(さらになんと、ミシェルはその後生まれた前夫と再婚相手の間の子どものゴッドマザーになったそう)。
離婚の一因について、ミシェルは2024年11月にラジオ番組の中で、「結婚生活がうまくいかなかった一因は、子どもを授かることができなかったため」であると告白。「(不妊を)受け入れるのには長い時間がかかった。最初の結婚が壊れた主な原因だから」とコメント。
離婚後、俳優復帰してアジア映画界で最も稼ぐ女優に。恋愛の噂はほぼなし
離婚を機に、俳優業にカムバックしたミシェル。
ジャッキー・チェンとの共演や『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』(1997年)でボンドガールを務めたことで、国際派女優として世界的にも名が知られるように。アクション映画だけにとどまらず、『SAYURI』(2005年)で日本の俳優と共演して芸者役を熱演するなど、ミシェルは仕事モードのようで、離婚後から現在の夫トッドに出会うまでの間の浮いた噂は1人のみ。
あまり詳細は明らかにされてはいませんが、心臓専門医のアラン・ヘルドマンと一時交際しており、1998年に婚約まで果たすも、2000年に破局しているようです。
現在の夫となるジャン・ドットと、運命の出会いを果たしスピード婚約
現在の夫となるジャン・ドットと運命的な出会いを果たしたのは、2004年6月4日に上海にて、ミシェルがフェラーリの広告キャンペーンに起用されたときのこと。ジャンはF1世界選手権を主催する国際自動車連盟(FIA)の会長を務めたこともあるモーターレース界の重鎮で、当時はフェラーリのディレクターに任命されたばかりでした。ジャンによると、出会った瞬間にミシェルに一目惚れ。どう連絡していいかわからず、友人のミハエル・シューマッハに手助けを求めたのだとか。
そしてなんと、出会った翌月の2004年7月26日には、ジャンがミシェルにプロポーズ! スピード婚約を果たします。
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ミシェルの輝かしい活躍の傍には現在の夫ジャンがいた
アジア映画としては異例の大ヒットとなった2018年公開の映画『クレイジー・リッチ!』で重要な役どころを演じるなど、順風満帆に見えるミシェルですが、やはり彼女の俳優人生の中でも特筆すべき作品は、40年のキャリアで初の主役を演じた映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』であると言えそう。この作品で、2023年3月12日にハリウッドで行われたアカデミー賞授賞式にて、アジア人を自認する俳優として初めて主演女優賞を受賞したのです。授賞式での壇上にも、長年(この時点で婚約して19年)のパートナーであるジャンの姿が。ミシェルをずっとそばで支えてきたのでしょう。