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「永代供養」をうたっているのに「期限付き」という大矛盾…専門家も仕組みを説明できない永代供養のややこしさ

  • 2025.3.30
現代の墓の主流「永代供養」とはそもそも何か、専門家も説明できない

近年、「永代供養」を巡ってトラブルが報告されている。「永代」「合祀」「合葬」などという専門用語がわかりにくい上、内容をよく理解せずに契約した結果、取り返しのつかない事態を招くこともある。

昨今、「永代供養」が墓の主流になりつつある。だが、永代供養とは何か、と説明を求められれば、明快に答えられる人はあまりいない。長年、墓の調査・研究を続けている者ですら簡潔な説明に窮するのだから、多くの消費者はよく分からないまま、永代供養墓を買い求めてしまっている恐れがある。

まず、「永代供養」には、大きく異なる2つの種類があることを知ってほしい。

江戸時代から続く「本来の永代供養」

江戸時代の寺請制度時代から続いてきた「本来の永代供養=永代祠堂えいたいしどう」と、永代祠堂から派生した「現代の永代供養」である。

前者の永代祠堂の利用者は、菩提寺の檀家であることが前提だ。墓や仏壇の継承者がいなくなった(いなくなりそうな)場合に、遺骨を合祀墓に移し、位牌を菩提寺の位牌堂に祀って、住職が「永代にわたって」供養する。毎日、回向する位牌を「日牌にっぱい」、月命日に回向する位牌を「月牌がっぱい」などという。戒名は永代祠堂台帳に記載され、菩提寺で永続的に受け継がれる。

「永代祠堂」の供養帳と位牌

赤の他人同士が合祀され、一冊の永代祠堂台帳に記載されて、回向されるのだから、供養の期限は「ほぼ永久」と捉えてよいだろう。永代祠堂のポイントは「菩提寺が」責任をもって供養してくれるところにある。永代祠堂は、現在も多くの寺で受け継がれてきている。

「本来の永代供養」から派生した「現代の永代供養」

一方で「現代の永代供養」は、ちょっとニュアンスが違う。先述のように「本来の永代供養(祠堂)」は、一族で祀り続けることのできなくなった故人を、菩提寺が代わって供養し続けるものだ。だが、「現代の永代供養」の特徴はそんなにシンプルではない。

主に次の4つの特徴がある。

① 檀家でなくとも誰でも買える(一見でも受け入れてくれる)
② 宗旨宗教を問わない
③ 多くが期限付きの供養
④ 納骨期限を迎えれば合祀墓等に改葬される。

檀家に限定される永代祠堂とは異なり、現代の永代供養はかなり門戸が広い。檀家の枠組みから離れ、宗旨を問わないので、「縛り」はゆるい反面、能動的に供養する責任はむしろ「遺族側」にあるといえる。

永代供養の期限は3回、7回、13回、17回、23回、33回忌…

現代の永代供養の種類は多種多様である。

室内納骨堂(ロッカー式、自動搬送式)、屋外納骨堂、樹木葬(個別納骨型、合祀型)、石塔・石仏(個別納骨型、合祀型)、古墳(個別納骨型、合祀型)、夫婦墓、個人墓などがある。なお、「樹木葬」という名称は、葬儀の形態を連想させるが、あくまでも「墓」の一種である。本来は「樹木墓」と呼ぶべきであろう。

ロッカー式納骨堂
自動搬送式納骨堂

これだけでもややこしいのに、それぞれに納骨期限が設定されているプランと、設定されていないプランがある。「永代供養」をうたっているのに、「期限付き」という矛盾が、消費者を混乱させている。歴史的な永代祠堂の用語を、現代の墓に転用しているのが誤解を生んでいる元凶だ。

永代供養の期限は、短ければ3回忌、7回忌、13回忌。長めのタイプでも17回忌、23回忌、33回忌までというケースが多い。最初に設定されている納骨期限が長いほど、永代供養料も高くなる傾向にある。事業者が納骨期限を設けるのは、消費者の「子ども孫たちに迷惑をかけたくない」とのニーズに応えるのと同時に、使用権に流動性を持たせたいとの経営上の理由がある。

納骨期限を過ぎた遺骨をさらに祀り続けたい場合は、再契約することになる(再契約できないこともある)。多くは同じ境内地、あるいは離れた場所の合祀墓に移される。

なので、永代供養を契約する際には、「③多くが期限付きの供養」「④納骨期限を迎えれば合祀墓等に改葬される」ことの有無を確認しておく必要がある。

「管理費」を滞納すると墓が撤去されてしまうことも

なお、筆者は「永代供養」という言葉はトラブルを生じさせる原因なので、やめたほうがよいと思っている。

永代供養で注意すべきは、多くの場合「管理費(護持費)」が設定されていることだ。年間で数千円〜2万円くらいの会費がかかってくる。これはマンションに設定されている管理費のようなものだ。

これをうっかり滞納してしまうと、個別納骨型の場合は墓が撤去されてしまう可能性がある。合祀型でも骨壺のまま祀られている場合は、出されてしまうこともある。

なぜなら、「墓を買う」ということは、墓地を資産として所有するということではないからだ。墓を持つということは、墓地管理者から「墓地使用権(永代使用権)」を得ているに過ぎない。

墓地埋葬法では、管理費の滞納が3年間続いた上で、墓地管理者が墓区画に立看板を出し、官報に「1年以内に管理者に申し出る旨」の公告をすれば、撤去が可能になってしまう。田舎ではそこまでドライな寺はないだろうが、民間事業者が運営にかかわる都会型の霊園などは、機械的に手続きをされてしまうことがあるので、注意が必要だ。

永代供養をさらに分かりにくくさせているものに、「合祀」と「合葬」(あるいは「集合」「共同」「合同」など)の類似語が混在していることがある。樹木葬などの個別型の永代供養は、小さめの区画が与えられる。だが、合祀墓あるいは合葬墓は、不特定多数の遺骨と一緒に埋葬される。これらは個別型永代供養と比べて安価だ。祭祀継承者と埋葬者との関係がさほど濃くない場合に、合祀墓や合葬墓が選ばれることが多い。

では、「合祀」と「合葬」は何が違うのか。合祀は文字通り、祭祀(宗教儀式)が伴う集団埋葬を指す。寺院における大勢の納骨の場は「合祀墓」と言い、無宗教の公共霊園などに設置された永代供養には「合葬墓」や「集合墓」などという名称を使うことが多い。

そもそも永代供養はどのように始まったのか

次に、現代の永代供養の歴史について説明しよう。

全国の仏教寺院で、「現代の永代供養」を販売し始めたのは、比叡山延暦寺大霊園が最初だと言われる。1985(昭和60)年に募集が始まった。同霊園では子どものいない夫婦や独身者、墓地の継承者がいない人の増加を背景に「久遠墓地」という名前で造成した。比叡山延暦寺は天台宗だが、この久遠墓地に限り、宗教宗派を問わないのが特徴である。

だが、この時点では永代供養はほとんど広がりを見せなかった。

1989(平成元)年、新潟市の日蓮宗寺院で画期的な永代供養墓ができ、話題をさらった。日本海に面する角田浜にある妙光寺が始めた「安穏廟」である。安穏廟は、デザインとコンセプトに優れたものだった。形状は古墳型をしている。円墳の周囲を108つのカロート(それぞれが独立した納骨室)がぐるりと囲む。円墳の中心部には、合祀用の供養塔が建っている。

永代供養の草分け、新潟市の安穏廟

安穏廟では継承者がいなくなっても、13回忌までそのまま入っていられる。13回忌の後は、円墳の真ん中の供養塔に移され、合祀される。合祀と言っても、周囲をぐるりと個人墓が取り囲んでいるので、いつも誰かが墳墓の中心に向かって手を合わせてくれる。

つまり安穏廟は、構造的に半永久的に「仲間」に囲まれた状態でいることができるという訳だ。事実上「無縁にならない」永代供養墓と言える。

さらに当時として珍しかったのは、墓の使用権は、血縁者だけに限らず、内縁関係、友人であっても継承し続けることができるコンセプトであったこと。血縁にこだわらず、誰でも維持継承できる安穏廟は、時代を30年ほど先取りした存在だったといえる。古墳のデザインも近年、各地で出現しており、人気が拡大しているが元祖は安穏廟だ。

2000年代後半からは、いよいよ個人で入るタイプの永代供養墓が本格的に拡大していった。「終活」の名の下に、都会に出てきた団塊世代が本気になって「墓支度」を始めたのだ。最初はビルの中に造られる納骨堂形式のものがもてはやされた。

室内型納骨堂で一般的なのが、ロッカー式だ。文字通り見た目がコインロッカーそっくりである。扉の付いたロッカーの中に、骨壺を収納する簡素なものが多い。防火上の理由があって、蝋燭や線香は使えない。また、生花や生ものを供えることを禁止している納骨堂も多い。

ロッカー型納骨堂は地域によって、趣向、デザインが異なる。東京はどちらかと言えば、シンプルで実用的なスタイルのものが多い。福岡のロッカー式納骨堂のほとんどは、仏像や位牌、仏具などを組み込んだ仏壇型と呼ばれるものがほとんどだ。

継承を前提としない「個の墓(永代供養)」に需要

2010年代には、ハイテク巨大納骨堂「自動搬送式納骨堂」が大都市圏で次々に建設されていった。だが、現在では樹木葬に需要が移っている。

ようは、現代の永代供養は過渡期にあるのだ。継承を前提としない「個の墓(永代供養)」に需要が高まっている。

だが、それはつまり、日本人が育んできた「先祖観の喪失」といえるものかもしれない。これまで大家族を形成していた頃までは先祖が立てた「一族の墓」を、継承してきた。次男以降は新たにイエをつくり、新たに一族の墓を建てた。これが「大きな墓、大きな弔い」の時代のことである。

この時代の墓はイエの象徴であった。イエの繁栄をも願って、永続的に祀られ続けることに人々は疑問を持つ余地はなかった。祀る側も、いずれは「先祖になる」という感覚を持っていた。

そうしたイエの弔いを、徹底した実地調査で明らかにしたのが民俗学者の柳田國男であった。柳田は『先祖の話』(1946年刊行)の中で、日本固有の先祖崇拝について、このように語っている。

《人が死後には祀ってもらいたいという念願は一般であった》

「死後、先祖になること」を前提にした場合、死者の精霊はイエを離れても、あまり遠くへはいかないのが特徴だ。故郷の土地に根ざして留まり、普段は故郷(ムラ)の山々から子孫を見守る。そして、精霊は盆や正月の折に「イエ」に戻ってくるのというのだ。かつては「死」との距離感が近かった。

たいして、現代の永代供養の広がりは、「死のリアル」が失われつつあることの表れだと思う。「先祖にならない」「永い眠りにつかない」。そんな死の概念の、新時代に入りつつある。

鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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