1. トップ
  2. エンタメ
  3. かわいそう、でも笑ってしまう映画『ミッキー17』の魅力とは。『ナウシカ』を連想する生き物にも注目

かわいそう、でも笑ってしまう映画『ミッキー17』の魅力とは。『ナウシカ』を連想する生き物にも注目

  • 2025.3.29
『パラサイト 半地下の家族』のポン・ジュノ監督最新作『ミッキー17』から、6つの魅力を紹介しましょう。そこには『風の谷のナウシカ』と『レベルE』をほうふつとさせるところがあったのです。(※画像出典:(C) 2025 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved.)

3月28日より『ミッキー17』が公開中です。何しろ本作の目玉は、日本でも大ヒットした『パラサイト 半地下の家族』を手掛けたポン・ジュノ監督の最新作であることでしょう。

予備知識ゼロで楽しめる「逆襲エンターテインメント」

結論から言えば、本作はめちゃくちゃ面白い! しかも、予備知識ゼロで楽しめる、いやむしろ何も知らない方が「まさか、こんなことになるなんて……!」と予想の斜め上の展開に驚ける、それでいて痛快無比な「逆襲エンターテインメント」の触れ込みがふさわしい内容になっていました。

さらに、「極端でありつつも本質を突いている社会問題の暗喩」があることも重要でした。また、レーティングはG(全年齢)指定ながら、少しだけ性的な話題があるほか、(直接的な残酷描写はわずかでも)エグい設定が物語の根幹にあることに注意は必要でしょう。

はっきりと大人向けの「やや過激なブラックコメディー」でもあることを認識して……いや、むしろそこを大いに期待すればいいのです。

というわけで、『パラサイト 半地下の家族』が好きな人でポン・ジュノ監督のファンは期待して見てOK! ブラックコメディーが大好物という人にも大推薦! 以上! と終わりにしていいのですが、そういうわけにもいかないので、なんとかネタバレになりすぎない範囲で、同作の魅力を紹介していきましょう。

そして筆者個人としては、本作は日本のアニメ映画『風の谷のナウシカ』および漫画『レベルE』の合わせ技のような面白さがあると思うのです。その理由も併せて解説します。

1:「死んでは生き返る」が怖い&かわいそう。でも、笑ってしまう

本作のあらすじを端的に言えば、人生失敗だらけの男が「死んでも代わりがいる」最悪な企業に就職してしまうというもの。

その死んでも代わりがいるというのは、比喩表現でも脅し文句でもなく「ガチ」。主人公のミッキーは死ぬたびに自分のコピー(劇中では「プリンティング」と呼ばれる)が誕生し、死ぬ前のミッキーに代わってコピーが理不尽な業務に就くという、かわいそうだし倫理的にアウトすぎるストーリーになっています。

しかも、ミッキーは死んでは生き返るを繰り返したおかげで、タイトル通り映画の冒頭からすでに「17人目」になっています。それから時間がさかのぼり「なんでミッキーはこんな最悪な企業に就職したのか」も明らかになるのですが、その理由もまたかわいそうすぎる上に「悪い冗談」すぎて、どうしても笑ってしまうのです。

言うまでもないですが、劇中で描かれるのは「社畜」や「ブラック企業」の問題そのもの。超極端でありながら、本質的には「現実にないわけではない」問題でもあり、主人公に同情して、ブラックさに笑って、さらに「怖くもなる」というバランスも見どころです。

ちなみに原作の小説のタイトルは『ミッキー7』だったのですが、ポン・ジュノ監督は「ミッキーをあと10回殺せるようにしたい」と希望して、映画では『ミッキー17』というタイトルになったのだとか。

とはいえ、それは決して意地悪な意図だけではなく、ポン・ジュノ監督は原作の「ごく普通の人間」として描かれているミッキーに強く惹かれた上で、「私はさらに“普通”にしたかった。もっと下層階級の人間にして、もっと“負け犬”感を強くしたいと思った」とも語っています。

いずれにせよ、後述するテーマをこれまでも描いてきたポン・ジュノ監督と原作の相性は抜群ですし、映画でさらに「ポン・ジュノ監督らしさがマシマシになった」といえそうです。

2:彼女ができた! リア充じゃん……からとんでもない事態に!?

ブラック企業から文字通り「使い捨て」にされるミッキーですが、後にナーシャという彼女ができてイチャコラを始めたりします。「なんだよリア充じゃん!」とも思われるかもしれませんが、ご安心(?)いただきたいところ。真にブラックな展開は、むしろそこから始まるのですから。

予測不能の事態と手違いにより、「ミッキー17」は自身のコピーである「ミッキー18」と「同時に存在してしまう」展開に。「ミッキー17」にとっては、「ミッキー18」にナーシャを「寝取られた」状況に陥ったり……「同じ人間の存在」ということが社会では全く許容されないのです。

さらに、この「ミッキー18」はこれまでのミッキーとは違い、殺人をも躊躇(ちゅうちょ)しないサイコな性格の持ち主という最悪な状況で、当たり前のように「ミッキー17」は彼に殺されかけてしまい……。そのほかの場面でも「ミッキー18」が「暴走」しそうな危うさがたっぷり。彼(というか自分自身)を止めようと悪戦苦闘をする「ミッキー17」の奮闘にも笑ってしまうし、やっぱりかわいそうすぎて心から「ミッキー17」を応援したくなるのです。

そして、この「ミッキー18」は完全に敵というわけではなく、共に権力者たちへの逆襲を開始する同志にもなり、かつ友情が芽生えたかのように見えるのも面白いところ。かわいそうな展開が立て続けに起こった後、自分たちをこのように追い込んだ“存在”への逆襲エンターテインメントにつながっていくことが、本作の最大の魅力と言ってもいいでしょう。

3:「かわいそかわいい」主人公にロバート・パティンソンがベストマッチ

そんな「ミッキー17」と「ミッキー18」を演じるのが、ロバート・パティンソンであり、まさに最高の人選といえます。

『トワイライト』シリーズではイケメンなヴァンパイアを、『TENET テネット』では愛らしさの頂点を極めたような笑顔で観客を魅了し、『THE BATMAN-ザ・バットマン-』では「確定申告できなさそう」と言われるほどの不器用さなどを体現してきたパティンソンは、今回の共感と同情を呼びまくる「ヘタレでダメだけどいざという時は頑張る愛すべき男」にもピッタリ。


もっと言えば「かわいそかわいい」役を演じて、母性本能をくすぐるのに彼以上の適任は考えられないのです。

しかも、『ライトハウス』で見せた狂気的な感情表現「だけではない」奥深さも、「ミッキー18」というキャラクターに全力で注ぎ込まれていました。

かたやヘタレだけど愛おしい中年、かたや殺人をも“ためらわない”サイコパスという、両サイドのパティンソンの魅力が爆発しているので、彼のファンはほかの何を差し置いても同作を見るべきでしょう。

4:マーク・ラファロとトニ・コレットの夫婦が最悪(褒め言葉)

ほかの俳優陣ももちろん最高なのですが、企業のトップを演じるマーク・ラファロと、その妻役のトニ・コレットは特に外せません。

マーク・ラファロはやはり『アベンジャーズ』でのヒーローの「ハルク」で知られ、善人を演じることも多かったのですが、『フォックスキャッチャー』では優秀かつ良い人間「すぎる」が故に悲劇の引き金となる人物に扮(ふん)したこともあり、直近では『哀れなるものたち』でも悪どい役を演じていました。

今回のマーク・ラファロはさらに「権力を誇示し、弱者を平然と虐げる」悪役へと振り切っていて、それでいてさげすむ対象であるはずのミッキーには複雑な感情を抱いているようにも感じる、見事な演技を披露しているのです。

トニ・コレットは全編にわたって夫と同調しており、人間を人間とも思っていないような振る舞いが恐怖を感じさせると同時に、「ひどすぎて笑ってしまう」領域に達しており、ある1シーンでは完全にホラー映画『ヘレディタリー/継承』を想起しました。

総じて周りを全く顧みない、盲目的かつ自己中心的にも程がある最悪夫婦のはずなのに、あまりに2人とも愚かすぎて、一周回ってキュートにも思えてしまうというのも、恐ろしく感じるポイントでした。


5:『風の谷のナウシカ』と『レベルE』の両方を連想させる虫

本作では物語の重要な局面で、「クリーパー」という生物が登場します。

そのクリーパーは「昆虫のように脊椎を持たず、哺乳類のように恒温という特異な生態で、過酷な環境で進化してきた」「氷や岩に穴を掘るために使う鋭い歯と爪を持っている」設定があり、ダンゴムシに近い造形は、『風の谷のナウシカ』の「王蟲(オーム)」を連想させるのです。

しかも、そのクリーパーがミッキーたちにとって、「本当に敵となる存在なのか」と疑心暗鬼にさせることも面白いところです。

不気味に見えるクリーパーですが、その反面、抱えて持てる大きさの「赤ちゃん」のクリーパーを「守りたくもなる」という不思議な感覚に。まさに『風の谷のナウシカ』で、幼少期のナウシカが「来ちゃだめ! なんにもいないわ! なんにもいないったら!」と強く訴える場面とシンクロするような心理も描かれるのです。

さらに、『レベルE』の最後のエピソードでは、「サゾドマ虫」という生理的な嫌悪感を引き起こす外見をした生物が登場しており、こちらも見た目からクリーパーに似ています。しかも、その後の展開は……いや、それは『レベルE』と『ミッキー17』の両方のネタバレになってしまうので伏せておきましょう。

6:“人間の愚かさ”をより掘り下げたポン・ジュノ監督作

本作は笑うに笑えない(と言いつつ、笑ってしまう)ブラックコメディーでありながら、前述したように社畜やブラック企業の問題、さらに世界の歴史、特にアメリカの社会問題と部分的に、あるいは完全に一致していることが重要な点でしょう。くしくも、それは現在公開中の『ウィキッド ふたりの魔女』や『教皇選挙』とも共通しています。

例えば、クリーパーは客観的に見ると「先住民」であり、彼らを攻撃する人間こそが「侵略者」とも思えるところ……。しかし、その後の出来事も含めると、本作で描かれていることは「現実と地続き」だったと分かってもらえることでしょう。

ほかにも「社会的な格差と搾取構造」を描くことが、『パラサイト 半地下の家族』をはじめとしたポン・ジュノ監督作と分かりやすく共通しているわけですが、ポン・ジュノ監督は「これまでの作品と違う点」についてこう答えています。

「今回初めて“人間の愚かさ”をより深く掘り下げました。そして、その愚かさが、時に愛すべきものになるという視点です。私の作品は、よく「冷酷でシニカル」と言われます。でも、今回の映画は「温かみがある」と言われることが多いですね。年を取ったせいかもしれません(笑)」


これまでのポン・ジュノ監督作はなんとも意地が悪く思える(だからこそ面白い)展開が多かったですし、今回の『ミッキー17』では主人公が散々かわいそうな目に遭いまくるわけですが、その後には「人間の弱さや愚かさも含めて愛おしい」のだと、ほぼ「人間賛歌」ともいえる優しさを感じる部分もあったのです(もちろんブラック企業や侵略行為は許していません)。

また、作品内で社会の不平等や偽善に対する風刺がしばしば描かれていることに対して、ポン・ジュノ監督は「政治的風刺のために映画を作るわけではありません。映画がプロパガンダになってしまうのは避けたい」と前置きした上で、「まずは美しくて楽しめる作品をつくることを大切にしています。『ミッキー17』もほかでもありません」と答え、さらにこう続けています。

「ミッキーが置かれている状況や彼が受ける扱い自体が、ある種の政治的メッセージになっていると思います。これは「人間をどう扱い、どう尊重するか」に関わる問題です。特別に「政治的なレイヤー」を意図的に加えたわけではありません。でも、ミッキー17 やミッキー18 が経験する苦難を見ていると、自然と社会的な問題意識が湧いてくるのではないでしょうか。」


なるほど、社会批判をすることは目的にはしていないし、政治的な意図を込めたわけでもなく、あくまでエンターテインメントして描いているけれど、それでも社会問題がはっきりと見えてくるのは、ポン・ジュノ監督作の醍醐味(だいごみ)であり真骨頂ともいえるのではないでしょうか。

逆襲エンターテインメント、またはやや過激なブラックコメディーとして楽しむのはもちろん、ぜひ身近な問題を考えるきっかけにもしていただきたいです。

この記事の筆者:ヒナタカ プロフィール
All About 映画ガイド。雑食系映画ライターとして「ねとらぼ」「マグミクス」「NiEW(ニュー)」など複数のメディアで執筆中。作品の解説や考察、特定のジャンルのまとめ記事を担当。2022年「All About Red Ball Award」のNEWS部門を受賞。

文:ヒナタカ

元記事で読む
の記事をもっとみる