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だから遊女より人気となった…「素人がやむにやまれず」という演出で体を売った江戸後期の女性たちの実態

  • 2025.3.29

吉原は徳川幕府公認の風俗街だったが、江戸市中には岡場所の遊女や夜鷹など、非合法の売春をする女性がたくさんいた。作家の永井義男さんは「江戸後期になると、遊女ではなく普通に暮らしている妻や娘で、ひそかに体を売る女が『地獄』と呼ばれて人気になった」という――。

※本稿は永井義男『江戸の性愛業』(作品社)の一部を再編集したものです。

町中で普通に暮らし「ひそかに売色する者」が「地獄」

地獄と呼ばれるセックスワーカーがいた。

『守貞謾稿』(喜多川守貞著)は「地獄」について――

坊間の隠売女かくしばいじょにて、陽は売女にあらず、密に売色する者を云ふ。昔より禁止なれ、ども、天保以来、とくに厳禁なり。しかれども往々これある容子ようすなり。
江戸地獄、上品は金一分、下品は金二朱ばかりの由なり。自宅あるひは中宿なかやど有りて売色する由なり。

――と述べている。

つまり、町中に普通に暮らしていて、ひそかに売春に従事している女を地獄と呼んだ。

揚代は、上は金1分(編集部註:約1万5千円)、下は金2朱(約7500円)だから、かなり高い。セックスワーカーとしては高級と言えよう。客の男と性行為をするのは自宅、あるいは中宿と呼ばれる中継場所で、料理屋の2階座敷や、貸座敷などである。

図版1、春画の『古能手佳史話』(渓斎英泉画)に描かれているのは、料理屋の2階座敷であろう。男女が後背位で性行為をしている。

画中に「馴染みで地獄買いを楽しみにする人」とあるので、女は「地獄」である。男はしばしば地獄遊びをしているようだ。

料理屋の料金と、地獄にあたえる金を合わせると、かなりの額になろう。図版1の男は裕福なのに違いない。

料理屋や貸座敷が仲介し、素人女性が呼び出された

春本『開談夜之殿』(歌川国貞、文政9年)に、地獄が知人の女の家に行ったときの様子が描かれている――

「小母おばさん、さぞお待ちだろうが、聞いておくれよ。かの表のむずかしやが来ていたからね、また、なんだの、かだのと言うから、中通りの妙見様へ行くと言って、ようよう出てきました。連れ衆でもあるのかえ」
「なにさ、おめえが、連れ衆のあるお客はいやがんなさるから、連れ衆もなんにもねえ、おとなしいお店の衆だから、わざわざおめえの所へ行ったのだあな。さっきから待っていなさるよ。たったひとりで、酒を呑んでいなさるから、すぐに二階へ上がんなせえ」

――という具合で、小母さんと呼ばれた女は、自宅の2階を中宿として貸しているようだ。商家の奉公人が伝え聞き、小母さんに地獄を呼んでほしいと頼んだ。小母さんは相手を見て、まずは2階に待たせておいて、地獄をしている女を呼び出す、という流れがわかろう。

図版1:春画に描かれた「地獄」[渓斎英泉画『古能手佳史話』(部分)、天保7年、国際日本文化研究センター蔵]
なぜモグリで売春する女性が「地獄」と呼ばれたのか

同じ『古能手佳史話』に描かれたのは、知人の家の2階座敷を借りて逢引きをしている男女である。地獄と客の男も、このような出会いだったろう。

『寛天見間記』は――

裏借家などの幽室に籠り、地獄といふ女も有よし。

――と述べており、これは自分の住む裏長屋に男を招く地獄であろう。

さて、地獄という名称の由来には諸説ある。

『梅翁随筆』によると、素人女を地者じものというが、その地者を「極ごく」内々で呼ぶので、地獄というようになった、と。

『了阿遺書』(村田了阿著)は、地者の「極」上なので、地獄と呼ぶようになった、と。『月雪花寝物語』(中村仲蔵著)は、秘密の楽しみなので、地獄の楽しみというようになった。地獄の沙汰も金次第だ、と。

『我衣』(加藤曳尾庵著)の文政7年(1824)の項に、次のような内容の記述がある。

転び芸者や地獄が横行して目に余るので、五月の初め、町奉行所は各所を摘発し、二百七十六人の女を召し取った。うち、百十二人が牢に入れられた。

中橋や京橋がとくに多かった。

転び芸者とは、客の男と寝て金を得ていた芸者である。

当時、芸者と地獄がセックスワーカーとして人気があったことにほかなるまい。

図版2:浮世絵に描かれた芸者の姿[歌川国貞(2世)画「今様美人揃『梅川楼上みな吉』」文久3年(1863)、東京都立図書館蔵]
「お武家のお内儀がいますよ。若いのがよければ、娘も」

『甲子夜話続編』(松浦静山著)に次のような事件が記されている。

関口の目白不動(新長谷寺)の門前に、数軒の出合茶屋があった。

出合茶屋の亭主たちは相談し、

「いまのままでは、たいして儲からない」

と、近くに住む女と契約して地獄商売をするようになった。

客はひとりで出合茶屋に上がる。客の好みに応じて、茶屋が女を呼び寄せるという仕組みだった。女のほうでも秘密をたもてるため、近所に屋敷のある御家人の妻や娘、後家などが登録するようになった。

亭主が客にささやく。

「お武家のお内儀がいますよ。若いのがよければ、娘も。年増がよければ、後家さんも。いかがですか」

庶民の男にとって、武士の妻や娘、後家と性行為ができるなど夢心地である。

噂が広がり、大いにはやったが、そうなると町奉行所の耳にもはいる。

文政13年(1830)10月、南町奉行筒井和泉守の命を受けて役人が出合茶屋に踏み込み、茶屋の亭主5人と、16歳から35歳までの女11人を召し捕った。

事件の顚末を記したあと、著者の松浦静山は、奉行所は幕臣の対面をたもつため、女の身元はいっさい公表しなかった、と付け加えている。

つまり、召し取った女はみな出合茶屋の雇われ女だったことにして、御家人の妻女がいたことは隠蔽したのである。

「ひっぱり」という道端で客を取る女たちが100人も出没

世間の風聞を記録した『藤岡屋日記』(藤岡屋由蔵編)の、天保10年(1839)4月12日の項に、次のような記載がある。

天保8年ころから、両国あたりの道端に「ひっぱり」と呼ばれる女が出没するようになった。みな前垂れをつけ、下駄ばきで夜道に立っていた。

男が通りかかると袖を取って引っ張り、声をかけた。

「もし、どこへでもまいりましょう」

そして、知り合いの家の2階や、居酒屋の2階を借りて情交をおこない、金2朱とか3朱をねだった。

さも、素人の女が生活苦から、やむにやまれず体を売るという演出をしたのである。素人を売り物にしたのが新鮮だったのか、ひっぱりは大いに受けた。

当初は数人だったのが、いつのまにか100人ほどもの女が毎晩、たむろして男の袖を引っ張るようになった。

その横行ぶりは目に余るというので、ついに天保10年4月12日、町奉行所が一斉摘発をおこない32人の女を召し捕った。

図版3:ひっぱりの絵[清水晴風・編並画『世渡風俗圖會』、明治時代。国立国会図書館デジタルコレクション]
素人女性に見せかけていたが、食い詰めた下級遊女だった

図版3に、ひっぱりの風俗が描かれている。いかにも、貧しい家の女房の雰囲気と言えよう。

ところが、ひっぱりをしていた女たちは、もとはみな、本所長岡町にある切見世きりみせの遊女だったという。切見世は簡便な「ちょんの間」の情交を提供する格安の女郎屋で、長屋形式だった本所長岡町の切見世は、客がなかなか寄りつかず不景気なことから、女たちはがらりと方針を変え、素人女をよそおうことにしたのだ。

切見世の揚代は百文が相場だから、金2〜3朱ははるかに高い。もちろん、部屋を借りる先へ謝礼を払わねばならなかったろうが。

しかし、素人女をよそおったのが受けたわけである。

男たちはみな、だまされていたことになろう。

セックスワーカーにも流行があるし、営業的には男たちの性的好奇心をひきつける演出も必要ということだろうか。

『藤岡屋日記』によると、弘化4年(1847)、外堀に架かる新し橋や、神田川に架かる和泉橋の付近にひっぱりと呼ばれる年増女が出没した。

男を呼び止めて話がまとまると、自分の家に連れ込んだ。泊まりで金2朱だった。

闇営業を奉行所が摘発するが、夜鷹と区別がつかなくなる

『きゝのまにまに』の嘉永6年(1853)の項に――

近年引はりといひて、夜売女ども両国広小路橋際などに散在して、往来之人を引、此頃ハ本所辺所々に毎夜出居て引、是ハ夜たか又ハ切ミせの打もらされ共也、今日本所にて40人計召捕はる。

――とあり、徐々に、ひっぱりの質が低下していたことがわかる。

夜鷹や、取り壊しになった切見世の遊女たちが、ひっぱりと称して、てんでに男を誘っていたのだ。ついに3月15日には、本所で40人ほどの女が召し取られた。

そもそも、ひっぱりは道で男を誘う点では、夜鷹と同じである。だが、夜鷹が道端の物陰で性行為をするのに対し、ひっぱりは屋内で情交する。ひっぱりは、現代の「立ちんぼ」に近い。だが、幕末になると、夜鷹もひっぱりと称していたようだ。

ひっぱりが情交の場所に使ったのは共同便所だった

『守貞謾稿』(喜多川守貞著)は、ひっぱりは天保以前からあったが、幕末期になると――

宿に件ひ帰るも稀にはこれありと聞くといへども、多くは惣厠そうかわやに伴ひ立ちて交合するなり。実に浅ましき行ひなり。一交、大略四十八銭ばかりなり。

――と述べている。

自分の家に連れて行く場合もあるが、たいていは裏長屋の総後架そうこうか(共同便所)で、立ったまま情交し、なんともあさましい。揚代はおよそ48文だ、と。

『艶本常陸帯』(喜多川歌麿)に描かれているのは、裏長屋の総後架で男女が忍び会っている光景。ただし、女がひっぱりかどうかはわからない。そっと近づいた男が、のぞきながら――

「とんだ所でぼぼをしやあがる。糞くそのようなやつらだ」

永井義男『江戸の性愛業』(作品社)

――と、悪態をついている。「ぼぼ」は性交のこと。

ところで、裏長屋の総後架の扉は半扉だった。そのため、なかでしゃがんでも外から頭や顔が見えた。春画だが、扉の描写に関してはリアリズムと言えよう。

ひっぱりはこんな総後架に男を引きこみ、立ったまま性交していたのかもしれない。

もう、目も当てられないありさまだった。揚代も48文であり、かつての2朱や3朱とはくらべものにならない。

セックスワーカーとしてのひっぱりは、幕末期にはもう終わってしまったと言ってよかろう。

トイレでの情交(喜多川歌麿画『艶本常陸帯』寛政12年、国際日本文化研究センター蔵)

永井 義男(ながい・よしお)
小説家
1949年生まれ、97年に『算学奇人伝』で第六回開高健賞を受賞。本格的な作家活動に入る。江戸時代の庶民の生活や文化、春画や吉原、はては剣術まで豊富な歴史知識と独自の着想で人気を博し、時代小説にかぎらず、さまざまな分野で活躍中。

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