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村上春樹2作目のピンボール小説には、とろサーモンの「スカし漫才」に通じる笑いがある?/斉藤紳士のガチ文学レビュー㉗

  • 2025.3.24
『1973年のピンボール』 (村上春樹/講談社)

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村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』の次に発表された小説で、またその続編でもあるのが本作『1973年のピンボール』である。

一般的に「鼠三部作」と言われる作品群の中でとりわけ掴みどころがない、とされているのも本作であるが、一体どういったところが掴みどころがないのだろう。

村上春樹作品は感情の起伏があまり描かれない。

というより、登場人物が感情を表に出さないタイプが多いようにも思えるし、また村上春樹自身が抑さえ込んでいるようにも思える。

引用----

これはピンボールについての小説である。

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小説の冒頭にこう明記されている。

ここは作者のこの言葉を信じて『1973年のピンボール』に挑んでみたいと思う。

まずは簡単なあらすじを紹介しよう。

1973年、大学を卒業し翻訳で生計を立てる「僕」、七百キロも離れた街で現実感のない日々を送る「鼠」。

この二つの物語が並行して描かれる。

「僕」は、ひょんなことから双子の女の子と共同生活を始め、大学時代夢中でプレイしたピンボール台「スペースシップ」を捜し始める。

一方、「鼠」は、新聞の不要物売買コーナーで見つけた電動タイプライターの持ち主の女と関係を持つ。

「僕」は廃棄処分寸前の「スペースシップ」と倉庫で対峙し、「鼠」はジェイに街を出る、と告げる。

大きな流れとしてはこんな具合になるが、実に多くのモチーフと対比が小説の中にはちりばめられている。

「僕」は「ノルウェイの森」でも登場する直子を失った喪失感を抱えて生きている。

その「直子の喪失」と「スペースシップ」が過去の象徴として描かれていたり、突然同居することになる双子もピンボールのフリッパーのメタファーとして存在している。住む場所は離れていても「僕」と「鼠」も互いに呼応していると読める。

その「対比」がひとつのテーマであることは「208」と「209」というTシャツを着ている同居人の双子の会話からも読み取ることができる。双子は名前なんてなんでもいいしどう呼ばれても構わない、と「僕」に言う。

引用----

彼女たちはいつも交互にしゃべった。まるでFM放送のステレオ•チェックみたいに。おかげで頭は余計に痛んだ。

「例えば?」と僕は訊ねてみた。

「右と左」と一人が言った。

「縦と横」ともう一人が言った。

「上と下」

「表と裏」

「東と西」

「入り口と出口」僕は負けないように辛うじてそう付け加えた。

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この会話の後に「僕」は物事には「入り口があって出口がある」と語る。郵便ポスト、電気掃除機、動物園、ソースさし。そして、もちろんそうでないものもある、と挙げたのが鼠取りである。確かに鼠取りに出口があってはいけない。この話も本作のひとつのテーマだと思う。

さて、肝心の「笑い」がどこに隠れているか、というところだが、みなさんは「スカし漫才」というのをご存じだろうか?

M-1王者にもなった「とろサーモン」がかつて得意としていたのがこの「スカし漫才」で、久保田のボケをツッコミの村田が悉くスルーする、という革新的な漫才だった。「はいはい」や「こらこら」、「きっしょ」など覇気のない相槌でボケを翻弄する、というスタイルだ。

この「スカし」の笑いはなかなかに奥が深いのである。

ただ突き放したり、あしらったりするだけでは当然笑いは生まれない。

ではなぜ笑いが生まれるのかと言えばそこには「信頼」という下地があるからである。

漫才で言えば、「運命共同体とも言える二人がお客さんを笑わせに来た」という観客側の「信頼」があるので、ツッコめば笑いが生まれる箇所であえて「スカす」ことにより裏切りの笑いが生まれる。

この「信頼」は演者とお客さんの間にも、当然コンビ間にもあり、またコンビ間の信頼は観客にも伝わっている前提、とあらゆるところに張り巡らされている。

村上春樹作品に登場する多くのキャラクターは「故意の言い落とし」をよくする。

わざと多くを語らないことにより、読者に想像させる、という技法だが、これが「スカし漫才」の構造とよく似ている。例えば、本作ではある日曜日の朝、突然、中年男性が家を訪れ、電話の配電盤を交換し、取り換えた古い配電盤を忘れていく場面があるのだが、その場面後の会話が顕著である。

引用----

「日曜日に車を借りられるかしら?」ともう一人が言った。

「多分ね」と僕は言った。「でも何処に行きたいんだ?」

「貯水池」

「貯水池?」

二人は肯いた。

「貯水池に何をしに行くんだ?」

「お葬式」

「誰の?」

「配電盤の」

「なるほどね」と僕は言った。

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何が「なるほどね」やねん! 話を汲み取りすぎやろ! 全然意味わからんわ!

と思うのだが、まさかそんなにすんなり「なるほどね」と納得するとは思わない、いわば「裏切り」が笑いを生むのである。

物語の最後、街を去った鼠は出口のない鼠取りに嵌ったのではないか、つまり自害したのではないか、とする批評家は多いらしい。

暗くて重いテーマの小説ではあるが、あくまでこれはピンボールについての小説である。

トローフからシューターレーンを転がった球が、ロールオーバーボタンやバンパー、さらにはフリッパーにすらぶつからず全ての仕掛けをスルーして一直線でアウトホールにストンと落ちてしまったら、それはそれで面白いような気がしませんか?

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