1898年、アフリカのケニア・ツァボ地方で鉄道建設に従事していた労働者たちは、ある恐怖に怯えていました。
夜な夜なキャンプを襲い、人間を引きずり去る2頭のライオンがいたのです。
最終的に彼らは少なくとも28人を殺害し、「ツァボの人食いライオン」としてその名を刻むことになります。
しかし、ライオンは本来、シマウマやヌーなどの草食動物を主な獲物とする肉食動物です。
通常、人間を狙うことはほとんどありません。
それにもかかわらず、なぜツァボのライオンは人間を食べるようになったのでしょうか。
この事件を引き起こした「ツァボの人食いライオン」は、今もシカゴのフィールド博物館に剥製として展示され、その異常な行動の謎が語り継がれています。
なぜ猛獣の人食い化は起きるのか?
この問いに答えるため、科学者たちは長年にわたりツァボのライオンを調査してきました。
その結果が2001年、『Journal of East African Natural History』誌に掲載されました。
目次
- なぜライオンは通常、人間を襲わないのか?
- ライオンを人食いへ変える要因
なぜライオンは通常、人間を襲わないのか?
ライオンが人間を襲うことは、実は極めて稀なケースです。
その理由には、いくつかの要因が考えられます。
まず、人間は反撃する手段を持っています。
通常の獲物であるシマウマやヌーとは異なり、人間は武器を持ち、火を焚き、集団で防御を行います。
自然界には病院も保険もありませんから、当然、捕食者にとってリスクの高い獲物は狙う価値が低くなります。
また、ライオンは幼少期に「狩るべき獲物」を学習します。
肉食動物は成長過程で親から狩るべき獲物を理解し、どうやって狩るべきかを学びます。
ほとんどのライオンが人間を獲物としないのは、そんな狩りを教える同族がいないためです。
それでは、なぜツァボのライオンはこの原則を破り、人間を狙ったのでしょうか。
この謎を解明するため、カリフォルニア大学とシカゴ・フィールド自然史博物館の研究者たちは、博物館に保存されていたツァボの人食いライオンの頭骨と歯のDNA解析を行いました。
その結果、ライオンたちは人間だけでなく、シマウマやヌー、アフリカスイギュウなどの草食動物も捕食していたことが判明しました。
しかし、注目されたのはその割合です。
ライオンたちは通常の食性とは異なり、獲物の約25%が人間だったと推定されたのです。
これは通常のライオンと比較すると異常な割合であり、なぜ彼らが人間を狙うようになったのかを考える必要があります。
ライオンを人食いへ変える要因
研究チームの分析によると、ライオンが人を襲うようになった原因には、主に2つの要因があったと考えられています。
1つは19世紀後半、アフリカで猛威を振るった「牛疫(rinderpest)」というウイルス性の疫病です。
これにより野生動物と家畜の個体数が激減し、ライオンの主要な獲物が極端に減少したのです。
その影響で、ライオンたちは食料不足に直面し、代わりの獲物を探す必要に迫られました。
そんな中、鉄道工事のためにツァボに集まっていた労働者たちは、野営生活をしており、夜間も完全には身を守る手段がありませんでした。
無防備な人間は、空腹のライオンにとって比較的狩りやすい獲物だったのです。
もう1つの要因が、ツァボの人食いライオンの健康状態にあったと考えられます。
彼らの頭骨を分析したところ、1頭のライオンの歯が大きく損傷していたのです。
ライオンは通常、獲物の骨を噛み砕いて食べますが、このライオンは硬い骨を砕くことができず、より柔らかい骨を持つ獲物を必要としていたのです。
人間の骨は野生動物の骨に比べて柔らかく、彼らにとって食べやすい獲物だった可能性があるのです。
では、ライオンがどのようにして「人間が食べやすい」と認識したのでしょうか?
科学者たちは、この行動の変化は偶然から始まった可能性が高いと指摘しています。
最初は飢えにより、近くにいた人間を襲ったと考えられます。
その結果、人間の骨が柔らかく食べやすいことを知り、狩りの対象として学習した可能性があるのです。
このようにして、人食いライオンが誕生したのではないかと考えられています。
猛獣が人食いに変わる理由
ツァボの人食いライオン事件は、ライオンが生まれつき人間を襲う捕食者ではなく、環境要因や身体的要因によって行動が変化することを示しています。
食糧不足が続けば、通常は狙わないはずの人間を捕食する可能性が高まります。
また、身体的な問題を抱えたライオンが、狩りやすい人間を選ぶこともあるのです。
この研究は、単に過去の事件の謎を解くものではなく、現在の野生動物の行動や生態系の変化を理解する上でも重要な示唆を与えています。
気候変動や環境破壊が進めば、ツァボのライオンのようなケースが再び発生する可能性も否定できません。
つまり、ライオンの人食い行動は単なる怪奇な伝説ではなく、生態系と人間社会の変化が交差するところで生じる、科学的に説明可能な現象なのです。
ツァボのライオンは、ただの怪物ではなく、極限の状況下で生き延びるために適応した存在だったのかもしれません。
そして、その教訓は、私たちが野生動物とどのように共存していくべきかを考える上で、今なお重要な意味を持っているのではないでしょうか。
参考文献
Genomic study identifies human, animal hair in ‘man-eater’ lions’ teeth
https://las.illinois.edu/news/2024-10-16/genomic-study-identifies-human-animal-hair-man-eater-lions-teeth
元論文
The Science of ‘Man-Eating’ Among Lions Panthera leo With a Reconstruction of the Natural History of the ‘Man-Eaters of Tsavo’
https://doi.org/10.2982/0012-8317(2001)90[1:TSOMAL]2.0.CO;2
ライター
相川 葵: 工学出身のライター。歴史やSF作品と絡めた科学の話が好き。イメージしやすい科学の解説をしていくことを目指す。
編集者
ナゾロジー 編集部