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がん闘病中の【梅宮アンナさん】「患者のことを考えるなら、お見舞いは高級なお菓子よりも…」

  • 2025.3.21

2024年8月13日、梅宮アンナさんは乳がん(浸潤性小葉がん)のステージ3Aと診断されたことを公表しました。11月7日には右胸の全摘出手術を受け、今年3月5日に抗がん剤治療を終えたところです。この連載では、がんと向き合う梅宮アンナさんが、今感じていることをリアルに綴っていきます。

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がんになって傷ついた言葉は意外にも『大丈夫だよ』という言葉

男性の2人に1人、女性の3人に1人ががんになると言われている時代。突然、身近な人から「がんになった」と告げられることもあるでしょう。そんなとき、どんな言葉をかければいいのか、悩む人も多いはずです。

私自身、がんを公表してから、多くの人に声をかけてもらいました。そのなかで、意外にも傷ついた言葉が「大丈夫だよ」というものでした。

「乳がんなんて今の時代、治るから」「大丈夫、大丈夫」といった言葉をかけられることが時々ありましたが、そのたびに心の中でモヤモヤしていました。これから長い治療が必要で、身体的にも精神的にも大きな負担がかかってくるのに、どれだけ時間と精神力が必要かわかって言ってるの?と感じてしまって。がんになったことがない人には、それがわからなくても仕方ないとは理解しています。でも、それでもやっぱり言われたくない言葉でした。とはいえ、言う側もかける言葉の正解が分からなくて、難しい問題なのだとも感じます。

また、「無理しないでね」という言葉も、時に違和感を覚えることがありました。がんと闘うと決めた以上、どうしても無理をしなきゃいけない側面があって、そう言われても、休んだら気持ちが落ち込んでしまうし、前に進めなくなってしまう。例えば登山に例えると、一度座って休憩しすぎると、次に登る気力がなくなるのと同じ。だから、私にとっては「ゆっくり休んでね」とか「無理しないでね」という言葉も、実は少し辛かったのです。

「大丈夫」や「無理しないで」が複雑に感じる一方で、救われたのは、共感してそばにいてくれるということでした。今、私の仕事を手伝ってくれている親友のマコちゃんに初めて打ち明けた時、彼女は最初は言葉を発せず、ただ泣いていましたね。でも、そばにいてくれた。そして「やることいっぱいあるよね」と、私の身の周りを支えてくれて。私にとってはただそばにいてくれることが、どんな言葉よりも救いになりました。

がんになっても、これまで通り普通に接してほしいという気持ちはありつつも、周囲の優しさを感じる場面も増えました。そのありがたさに救われたことも多々あります。

がんになった人にどういう言葉をかけるべきか。人によって、言われると嬉しいことば違和感を感じる言葉って全然違ってくるから、やはり正解はないと思うんですよね。ただ、寄り添って一緒に頑張っていこうという気持ちを届けられるといいんじゃないかなと思います。

本当は嬉しかった友人からの贈り物。

がんを公表してから、入院中など、たくさんの方からお見舞いをいただきました。そのなかで特にありがたかったと感じるものは、正直に言うと、現金やギフトカードでした(笑)。

フルーツや高級なお菓子は、気持ちはとても嬉しい。でも、体調によっては食べられなかったり、余ってしまったりすることもあって。実際のところ、病院の売店やコンビニで使えるQUOカード、全国どこでも使えるセブンイレブンの商品券、そして何よりもAmazonギフトカードが嬉しかったですね(笑)。例えば、1万円の高級お菓子よりも、自分で必要なものを選べる5,000円のAmazonギフトのほうがずっと嬉しい。

こういうことを伝えると、引いてしまう読者さんもいるかもしれない。でも、がんになって見えてきた世界をリアルに発信していきたいと考えているからこそ、ここ本音で。

なぜなら、入院にはとにかくお金がかかるから。いくら保険に入っていたとしても、ベッド代だけで1日5,000円くらい普通にかかります。入院費や治療費がどんどん膨らむなかで、「これで必要なものを自由に買ってね」と渡されたギフトカードがどれほど助かったか。

「お金やギフトカードが一番ありがたい」なんて、なかなか言いづらいこと。でも、これは私だけじゃなく、多くの患者さんが感じていることだと思う。実際に医療従事者の方も「患者さんに喜ばれるのはギフトカードや現金」と言ってましたね(笑)。

もちろん、お見舞いをする気持ちが何より大事。でも「何を持って行けば喜ばれるか?」と悩んでいるなら、ぜひ知ってほしいなと思っています。

がんになって、父の闘病生活を考えなおすように

私ががんになり、治療を受けるようになってから、父・梅宮辰夫の闘病を改めて考え直すようになりました。父ががんを患ったのは50年前。父は私が1歳のときに肺がんと診断され、放射線治療を受け、余命半年と言われたそうです。当時は、がんの告知が一般的ではなく、父もすべてを公表していませんでした。でも、私が物心ついたときには、がんと共存することが日常でした。あるときは3か月に1度、ポリープを除去するのがルーティンになっていました。父は「これは放っておくとがんになるんだよ」と教えてくれ、小学校の頃には、ホルマリン漬けのポリープを持ち帰ってきたこともありました。今思うと衝撃的な経験ですが、そのおかげで「何かあればすぐに病院に行く」という習慣が自然と身につきました。だからこそ、私自身ががんを告知されたときもパニックにはならなかったのかもしれません。

父が亡くなる最後の10か月間は、透析を受けていました。最期はがんではなく、透析による体力消耗が大きな負担になりました。私たち家族は、透析を続ける父の介護に奔走し、それが本当に大変だったことを覚えています。でも、その間も父とがんについて深く話すことはありませんでした。

もし今、父が生きていたら、もっと病気について話せたのではないかと思います。例えば、放射線治療のこと、50年前の治療と今の治療の違い、抗がん剤の進化について——。特に抗がん剤は、薬そのものが変わったというよりも、副作用を抑えるための吐き気止めなどが進化したことで、治療の負担が大きく軽減されていると聞きます。父の時代にはそうしたケアがなかったため、本当に苦しかっただろうと想像します。肺に広範囲に当てていた放射線も、今ならピンポイントで照射することができます。そういった違いを、父と一緒に語りたかった。

ただ、父がまだ生きていて私の病気のことを知ったら、それはそれで大変だったかもしれません。父が私のがんを知ることなく亡くなっていてよかったのかもしれないと思うことがあります。父は普通じゃないくらい心配性で「俺は本物のA型だ」と自慢していたほどでした。もし私ががんになったと知っていたら、四六時中先生に電話をして「大丈夫ですか、大丈夫ですか」と確認し、あらゆるものを差し出してきたでしょう。そんな父の姿を想像すると、大変だっただろうし、きっと疲れてしまっていたんじゃないかと思います。

アンナさん衣装:私物
撮影/中田陽子 取材/日野珠希

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