どんなに明るく見える人だって過去に痛みを経験していない人はいない。そんなことはわかっていたけど私は絶句した。大将の話が苦しかった。頑張れば報われるなんていうのはただの幻想かもしれないと思った。
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物心つく前から通っていた地元の町中華。その店が閉業するというので私は両親と店を訪れた。
暖簾をくぐると「いらっしゃぁい」と奥さんが飾らないトーンで出迎えてくれて、厨房からはおおらかな大将が笑顔をのぞかせる。私たちは“いつもの”といいながらお決まりの「鶏肉の銀杏炒め」と「えびバターコーン」、ラーメンを注文した。このおなじみの味を食べられるのも今日が最後かぁなんて思うと感慨深い。注文した料理からは湯気が立ち上り、魚介のコクを感じさせるオイスターソースの深い味わいや、とろみのきいた肉厚なえびの食感は私の舌を安心させた。
閉店時間も近かったのか、店内も落ち着きそれまで厨房に立っていた大将がフロアに顔を出した。大将は誰がみても穏やかで優しそうな雰囲気をまとう痩せた人で、背は高く、頭に巻いたタオルに汗を染みこませていた。年齢は60代ぐらいだろうか。改めてみても本当にそのあたたかい人柄が全身から溢れており、柔和な笑顔と腰の低い話し方は自然とこちらを和やかな気持ちにさせてくれる。
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「末には閉店することになっちゃいましてねえ。今日は来てくれてありがとうございました」
大将は朗らかに話し始め、閉店のきっかけが実は自身の病気によるものだと教えてくれた。これまでも何度か病気で倒れており、店を休業することが次第に増えていったという。「過去にかなり苦労されたうえにご病気までされて、さぞ辛い部分もあったでしょう」
父が声をかけると、大将はこれまでの人生について話し始めた。
「家内も私も両親には恵まれなくてね。親には大変な思いをさせられて生きてきたんですよ。私の親は借金をたくさん作ってそのまま蒸発してしまって。自分の作った借金ではないから継ぐ必要はなかったんだけど、やっぱり借りたお金は人様にしっかり返さないといけない。だから家内と2人、店を開いて死に物狂いで働いて、自分たちで親の借金を返していくことを決めたんです。ただ最近は身体を壊すことが増えてしまってね……もう休もうと思うようになりました」
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ああ、私はこんなにこの店に通っていたのに大将のことを何もわかっていなかった。大将の笑顔と“いつもの”料理にほっとするばかりで、彼の人生を想像したこともなかった。こんなに多くの人から愛されている大将のこの先が穏やかで幸せなもので溢れていてほしい。私は言葉を失い、気が付けば涙が止まらなくなっていた。目の前で泣き出す私に驚きつつも、大将はやっと訪れる穏やかな日常に安堵しているようだった。
大将、お元気でいらっしゃいますか。私はあれ以来、あなたの健康と今後の穏やかな日常を心から望まずにはいられません。お店で「鶏肉の銀杏炒め」と「えびバターコーン」をもう食べられないことは寂しいですが、大将に出会えたこと、ずっと忘れません。
■長瀬いちかのプロフィール
幼少期から恵まれた環境で育ったものの、悩み葛藤しながら生きてきました。大好きだった恋人と結婚し、これから新たな生活が始まります。少しでも心穏やかに過ごせますように。