子供の頃、母がカルボナーラを作ってくれた。クリスマスに作ってくれたご馳走だった。
作るのが面倒だと言って、なかなか食卓には並ばなかったけれど、その味は大きくなっても強く記憶に焼きついていた。
しつこくねだると、そんなに食べたいならあんたが作りなさいと言われ、私は引き下がった。作るのが嫌だったのではない。私が作ったら、意味がないのだ。
食べたいのは、母が作ったカルボナーラだから。
◎ ◎
それでもときどき、気まぐれに作ってもらえることもあった。
手伝いなさい、と言われて手伝ったこともある。けれど私としてはちょっと困ったことがあった。どうにも味が違う。
記憶の中のカルボナーラは、ねっとりと音がするほどチーズがたっぷりで、塩辛くて、濃厚で、なんというか一度食べたらしばらくはいいかな……と思うほどこってりした味だ。
なのに、何度作ってもらっても、ソースがさらさらしていたり、薄味だったり。
もちろん美味しいのだけれど、いつも物足りない。
なんか違うんだよなあ、どうしてだろう?
と思いつつも、そんな文句を言うわけにもいかないので、美味しいと言って平らげるほかなかった。
◎ ◎
私のそうした疑問は、ある日解消されることになる。
あの日、母はとあるレシピ本を真似ていたと知り、早く言ってよ……と思いながらも調理に取りかかった。そのレシピにきっちり倣って。これなら、私ひとりでもあの味を再現できるはず。
それなのに、出来上がったカルボナーラは、やっぱり何か違っていた。
一口食べて、期待に膨らんでいた私の胸はしゅるしゅるとしぼんでいった。
「ちゃんとレシピどおり作ったのに、なんであの味にならんの?」
普通に美味しいパスタをフォークに巻きながら、私はそうこぼした。
「そりゃ、いっつも目分量で作るからな」
母はなんの気なしにのたまった。
早く言ってよ!レシピを遵守した意味がないじゃないか、と私は思った。
しかし、ようやく謎が解けた。どうりで、全然違う味になるはずだ。
母はレシピを見て、材料を真似ただけだった。
材料は同じにできても、その量がわからなければ、条件が揃わない。
「二度と同じ味にはならんわ」
母は笑っていたが、私にしてみれば絶望的状況だった。
あのカルボナーラは、二度と食べられないということだから。
◎ ◎
美味しいカルボナーラなら世の中にいくらでもある。
レストランに行けば、プロの料理人が作るカルボナーラを味わえる。
けれど、私はあのカルボナーラが食べたい。どうしても、もう一度食べたかった。
なぜそんなに執着するのか、私にもわからない。
実家を出てしばらく経ち、久々に帰省した時のこと。
自分の家に戻る日、母に食べたいものを訊かれた。
私は懲りずに、頼んだ。母が作った、あのカルボナーラが食べたいんだと。
久しぶりに会う娘が帰るのが寂しかったのか、母は手伝えとも言わず、丁寧に食卓に並べるところまでしてくれた。
幼かったあの日みたいに。
しかも、あの日と同じ大きなボウルに、大盛りのカルボナーラ。
空の皿にトングで取り分ける。ソースを吸って重くなったパスタが、たっぷりのチーズをまとって、ねっとりとした音を立てた。
どきどきしながら口に運ぶ。
◎ ◎
あの日のカルボナーラみたいだ。
塩っ気が効きすぎていて、味が濃くて、記憶に結びつく味だった。
私の大切なノスタルジー。
美味しくて美味しくて、ちょっと泣きたくなった。
とても濃厚なので、母は取り分けた一杯で食事を終えた。
それで、顔ほどもあるボウルの、実に三分の二くらいを私が平らげた。
「あんた、大丈夫?」
作りすぎた、生クリームを入れすぎたと言って、母は何杯もおかわりする私を心配していた。
作り方を思い出したわけではなく、本当にたまたま再現できたらしい。
確かに脂っこくはあったけど、本当に嬉しくて、満腹感なんか感じなかった。
きっと、あのクリスマスの日の母も、材料を入れすぎたんだ。
やっぱりまったく同じではないけれど、それを食べている時間だけは、あの日に戻った気がしていた。
■夏永遊楽のプロフィール
なつなが ゆら といいます。
きれいなものに目がない。
どうでもいいことを納得するまで調べる癖あり。眠り損ねた夜がいくつもあります。
すべてはナラティブです。