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スポーツが大好き/絶望ライン工 独身獄中記㊵

  • 2025.3.19

『絶望ライン工 独身獄中記』を読む

休日に柴犬を伴って近くの公園に出掛ける。

これはありきたりな犬の散歩と周りからは見えるが、実情は異なる。

我が群れを率いる頼れるリーダー(しかもカワイイ)を、町内に見せびらかし、自慢するといった大切な意図があるのだ。

すれ違うご夫婦が「かわいいね・・」などと話すのを後ろに聞き流し、堂々たる風格で園内を進軍する柴犬。

その姿は凛々しく、力強く、気高く誇り高い。

近所で「絶滅した筈のニホンオオカミを見た」という目撃例が多発しているのも頷ける。

オオカミと公園を歩けば、飛び跳ねる球体に異様に固執し、集団で追いかける少年少女に遭遇する。

それはどうやら球技と呼ばれる一種の闘争であり、広義でスポーツと呼ばれているやうだ。

中には大人も混じり、音頭を取ったり圧倒的体格差でボールに執着して楽しんでいる一団すら見つけることができる。

私はスポーツが苦手です。

苦手なんていうのは控え目な表現だ。私は途方もないスポーツ否定人類である。

スポーツを忌み嫌い、そして心より憎んでいる。

学校では体育の時間が実に苦痛であった。

蹴鞠などしとうない。服が汚れるし、危険で実に低俗な娯楽である。

唯一座学で「赤ちゃんはどこからくるの」を学ぶ尊い時間だけが、体育の存在意義です。

スポーツの悪口ならいくらでも出てくるが、ここではあまり述べぬ。

でもこれだけは言わせて。

どんなに早く走れようが自動車には敵わないし、ボクシング世界チャンピオンでも30ミリ機関砲の前では無力である。

ワールドカップを必死に応援しようが我々小市民の暮らしは何一つ変わらない。

どこが勝っても負けても年収に増減はなく、税金を取られ、婚活で敗走する。

自己の生活に何も影響せず何も寄与しない競技大会を、我が事の如く必死に応援し、惨めな自分の人生を重ねせめてもの成功体験を得ようとする。

なんと愚かで、尊いことか。

「赤ちゃんはどこからくるの」に匹敵する尊さである。

そして尊いと同時に、スポーツは残酷である。

休日の公園で練習する少年チームを見る度、心が痛むの。

純粋で実直な「好き」は実に残酷だ。

プロになれる可能性が極端に低い野球やサッカーなどの人気競技に、休日返上で家族を巻き込んで打ち込む様をよく目にする。

数年間最後まで補欠で試合に出ず終わることもあるだろうな。

生まれもっての才能や体格差、家庭環境がモノを言う分野は数多くあるが、最も気軽に始められ、最も成功が遠いのがおそらくこの二つの球技であるように思う。

それは一般的な努力では到底カバーできない程の遠さである。

報われなかった努力を肯定する耳障りの良い言葉はたくさんあるが、結果が全ての競技精神とは随分矛盾している。

私は以前音楽家として細々と糊口を凌いでいた。

音楽の世界は厳しいなどと言われるが、スポーツに比べれば幾分かマシである。

ヴァイオリンやピアノなどの器楽はトッププロになれずとも努力すれば演奏家として食べていけるし、講師や採譜などのセカンドプランも豊富に存在する。

自分のことを言えば、最悪音楽の才能がなくても作曲家にはなれる。

才能の無さは人脈や手数、営業努力でカバーできるが(カバーできなかったけど)、競技シーンでそれが有効かどうか分からぬ。

少年時代の自分がもしスポーツを始めるなら、競技人口が少ない分野を戦略的に選びたい。

セパタクローやカバディ、インディアンポーカーなどである。

間違っても野球やサッカーは選ばないし、ましてや作曲家など志さぬよう細心の注意を払う。

しかしながらスポーツにも良い面が勿論ある。

先ずスクールカーストが高いこと。

野球、サッカー、バスケ部は他の競技や文科系の部活に比べ圧倒的優位性があり、モテること間違いなしである。

そして就職に有利に働くということ。

学生時代サッカー部や野球部であった就活生を企業の人事は大いに評価する。

ガッツやチームワーク、体力と根性がある彼らは営業マンとしてこれ以上ない才覚を発揮し、即戦力として配置されていく。

前線で戦うにはうってつけってわけ。

スポーツ刈りでボールを追いかけまわしていた少年はいつの日かツーブロックに刈り上げ、高齢者に不動産を売るのである。

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