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産後の義実家滞在が大正解だったワケ。冷静さと、まるで”母”のような姪っ子の存在。

  • 2025.3.21

コノビー編集部の選りすぐり!何度でも読みたい、名作体験談。

今回はコノビーで連載中の「ハネ サエ.」さんの名作コラムをご紹介します!末っ子の出産後、頼ったのは夫の実家。最初は躊躇したけど、頼って大正解だった理由とは?

 

末っ子の妊娠がわかってしばらくした頃、さて私はどこでこの子を産むんだろうと思った。

長女は実家がある某県の病院で産んだ。

いわゆる里帰り出産というやつ。

その2年後、長男を産んだときも地元へ帰った。

のだけど、2歳の長女のお世話と新生児のお世話はとても大変で、ではやはり実家に帰っていて大正解だったんではと思われそうなんだけど、老いた母のキャパシティは想像以上に小さくなっていて、もうほとんどパニックと言ってよかった。

半ば訳がわからなくなった母は、私と子供たちをまとめて夫の実家に送致することに決めたのだった。

今思い返してもあれはいったいなんだったんだろう、と思うほどの混沌だった。

母も私も里帰り出産が当然のような気がしていて、深く考えることもなく、地元の病院を予約してしまったんだけれど、もっと冷静に考えた方が良かったのかもしれない、と思う出来事だった。

そんなこともあって、3人目のときは「さてどうしよう」と考えた。

前回の件で、母にこれ以上負担を強いるわけにはいかないのは分かっていた。

前回は長女を連れてのお産だったけれど、今回は長女と長男を連れてのお産になる。

じっとしていない上に目が離せない2歳の息子を実家に放ったら、母がパニックになることは目に見えていた。

油性マジックで脚に落書きをしたり、コップの水に唐揚げを突っ込んだり、椅子から延々飛び降りたりする様を見るたび悲鳴をあげたに違いない。

また、長女が幼稚園に通っていたこともあったので、あまり環境を変えない方がいいような気がした。

自宅のそばの産院で産んで、産後も自宅でゆるく過ごすのがいいだろう、というのが大まかな考えだった。

ところが、夫の母が「そんな」と声をかけてくれた。

「産後はこちらに来て過ごせばいいじゃない。幼稚園にも送ってあげるから」

夫の実家は自宅から1時間と少し。

まあまあの距離だけれど、幼稚園まで毎日送迎をしてくれると言う。

「いえいえ、そんな。申し訳ないです」

一度はお断りしたんだけれど「産後に無理をするのはよくないから」と何度も言われるうちに「それでは」とお願いすることにした。

義母は母よりはるかにエネルギッシュで、はつらつとしているので幾分安心でもあった。

とはいえ、4歳と2歳と言ったら手がかかる盛りだ。

前回のことが何度も頭をよぎってしまった。

幼児の破壊力はすさまじい。

毎日子どもたちと暮らしていれば日々がグラデーションで壮絶になっていくので麻痺してしまうけれど、言葉がきちんと通じて、液体をこぼさなくて、割れ物を割らなくて、家の中にダンゴムシを持ち込んだりしない成人と暮らしている人にとっては、毎秒が予想外で疲れるに違いないのだ。

家の中に一日中ゲリラ豪雨がやってくるようなものだ。

ゆっくり過ごせばひとりでやれるんじゃないだろうか。

あちらのご家族に迷惑をかけていいのだろうか、と何度も悩んだ。

しかし、結論は出ないままお産の日はやってきてしまった。

念のため、産前と産後の間だけ長男を保育園へ入れる手続きをしておいたのだけれど。

本陣痛を迎えて15分という驚くべき安産で末っ子は産まれた。

産まれる1時間前、私は元気に病院の美味しいメンチカツ定食をきっちり完食していて、エネルギー満タンの出産だった。

メンチカツのおかげでいいお産になったと思っている。

体力の消耗が少なかったせいか、非常に元気で退屈な入院生活だった。

やっぱりこのまま、ひとりでなんとかなるんじゃないかと何度も思った。

が、義実家宅に身を寄せて3日目。

長女がまた高熱を出した。

「また」と言うのは、彼女は長男の産後も高熱を出したのだ。

そのとき娘は40度の高熱が丸2日続いて、そしてそれが私にも移って咳が止まらなくなり散々な産後だった。

そして今回も長女がまた高熱を出して、慌てて夜間応急へ駆け込んだ。

検査の結果はインフルエンザA型。

「ああ、これは……」と思った。

病院の駐車場から診察室まで長女はずっと私に抱かれていて、私は産後で免疫系がおそらく底辺で、これはこれはこれは、前回の轍を踏んでいく。

予想ではなく確信だった。

長女が熱発してから2日後、私もやはり罹患して高熱にうなされた。

長男の産後と違うのは、まごうかたなき高熱が出ているという点。

意識が朦朧とする。

体を起こすことができない。

それどころか頭を持ち上げることすらままならない。

思考が定まらなくて何かを考えようとする側から瞼が閉じていく。

新生児の末っ子にうつる心配ももちろんあったけれど、そもそも私の状態が悪すぎて授乳が非常に困難だった。

彼女の命を繋ぐための健常な肉体は、あの日あの場所にはなかった。

私も母の子なので、こんなときはいちいちそこそこパニックになるんだけれど、義実家の皆さんは違った。

とても冷静で通常で、そのことがとても心強かった。

彼らを見ていると、私は今とてつもない窮状にさらされているのではなく、ちょっとしたトラブルにほんのひととき巻き込まれているだけ、という気持ちになった。

私が夜間授乳のことを考える前に速やかにチームが結成され、当時中学生の姪っ子が義母と一緒に夜間授乳を手伝ってくれることが決まっていた。

姪っ子は赤ちゃんや小さい子が大好きで、長男が赤ちゃんの頃もそれはよく面倒を見てくれていて、そこから3年弱の時を経て、彼女はさらなる成長を遂げていた。

ミルクを飲ませた後の末っ子を横抱きして左右に揺れながら、床に伏せる私の様子を見にきてくれたのだけど、あの日私が見たものこそ真の後光だった。

真っ暗い和室から見る彼女は廊下の蛍光灯を背後に浴びて、物理的にも眩しく、精神的にも心底眩しくて、あの逆光で見た彼女の立ち姿を私は一生忘れないと思う。

「下ろすと泣いちゃうから」

さらりとそんなことを言ったあと、なにか私をいたわる言葉をかけて去っていった。

朦朧とする頭で

「あれは……?もしかしてお母さん??」

と錯覚するほどの佇まいだった。

義実家の皆さんがつつがなく長男と末っ子の面倒をみてくれている間に、私と長女はゆっくり回復していった。

弱り切った病み上がりの産後の体で上の2人のお世話をする間も、姪っ子は膝の上で末っ子をあやしながらスマホで好きな動画を観たりしていて、まるで体の一部のように赤ちゃんのお世話をこなす様子は本当に頼もしく眩しかった。

いつか彼女が困ったときは全力でサポートするとひっそり決意している。

急に冷蔵庫が壊れたりしたら早急に購入の上、配送手配したいし、網戸が突然破れたら夫をすぐに派遣して網戸をびしっと張り替えてあげたい。

この伯母くれにできることがあればなんでも言ってほしい。

そんなふうにほとんど命拾いのようだった末っ子の産後を振り返って笑えるのはもちろん、義実家の皆さんのおかげであるし、同時に、誕生というのは圧倒的に幸福だからだと思っている。

子どもにまつわるいろんなことは、喉元を過ぎるとたいてい都合がいいほどいい思い出になってしまう。

鮮烈な産後だったけれど、親族一同にとってそこそこのインパクトを与えた新生児期も味わいがあっていいよね、と今なら思う。

 

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