『藍を継ぐ海』(新潮社)で第172回直木賞を受賞した伊与原新さん。もともと理系の研究者で、東大大学院を出たあと、富山大学で教壇に立ちながら小説を書き始めたという経歴をもつ。伊与原さんは「受賞作でも隕石や地磁気、絶滅したニホンオオカミなどを題材に選んだ。これからも世界の見方が変わるような作品を書いていきたい」という――。
作家デビューから15年、15冊目の本で直木賞を受賞
――『藍を継ぐ海』(新潮社)で直木賞を受賞しました。昨年、NHKでドラマ化された『宙わたる教室』(文藝春秋)など、これまで出された小説も増刷がかかっていますね。
【伊与原新、以下、伊与原】そうですね。これまで15冊の本を出してきましたが、周りの皆さんが喜んでくれてよかったなと思います。家族や親戚や友人、研究者時代の知り合いや、各出版社の担当の方がすごく喜んでくれました。だからといって、「これで売れっ子作家の仲間入りだ」とか、そういう感覚は一切ありません。先日も、直木賞の選考委員の方々(小説家)と同じテーブルに座る機会がありましたが、自分が場違いな気がして、居心地がよかったとは……(笑)。
――東京大学大学院理学系研究科で博士号を取ったあと、富山大学の助教だった2010年に、近未来を舞台にした冒険小説で横溝正史ミステリ大賞を受賞され、翌年、38歳で専業作家になられました。大学の助教からの転身は、勇気のいる決断だったのではないでしょうか。
【伊与原】小説を書き始めたのは36歳ぐらいで、大学を辞めるときにはすでに小説家としてデビューしていました。原稿の執筆依頼も複数来ていて、作家としてのスタートは切っている状態でしたので、決断というほどの勇気を必要とはしませんでしたね。正社員で働く妻も、「あなたの人生だから好きにしたら?」と言ってくれました。その後、まったく本が売れないという状況になって初めて、小説家という職業はこんなに厳しいんだ……ということがわかりましたが(笑)。もちろん、研究と小説が両立できればそれに越したことはなかったけれど、小説の締め切りがあると、そのことしか考えられず、どちらかを選ばないと両方中途半端になるなと思い、小説を選んだのです。
神戸大学卒、東大大学院で地球惑星科学を専攻し研究者に
――神戸大学から東大大学院に進み、地球惑星科学を専攻し、研究者になったのは、目指していた道だったのですか。
【伊与原】子供のときから宇宙や惑星に興味があり、高校生になる頃には地球科学の研究者になろうと思っていました。僕が取り組んでいたのは、岩石のデータから地球の仕組みや進化を解明する研究ですが、どんな研究も必ず壁にぶち当たるもの。研究者には、研究に直接関わる能力だけでなく、いろんな人を巻き込みながらその壁を打ち破るバイタリティが必要で、パッションが自分には足りなかったのかもしれません。信頼できるデータも出なくて、研究がなかなかうまくいかない時期に、もともと好きなミステリーを読んでいたらあるトリックを思いつき、そのネタを使って小説を書き始めました。
なぜ国立大学助教の仕事を辞め、専業作家になったのか
――ネタを思いついたからといって、小説が書き始められるものですか?
【伊与原】このネタでミステリーが書けるかも! と思ったら、最初の2、3行ぐらいは誰でも書き始められるのではないでしょうか。それを500枚書きあげる人が少ないだけで。そういう意味では、僕はしつこいんですよ、きっと(笑)。ただ、専業作家になってからは、本を出しても重版がかからず、発行部数もよくて5000部という時期が続きました。
――2019年に『月まで三キロ』で複数の文学賞を受賞するまでは、思うように本が売れず、「もう無理かな」と思われたそうですね。それでも“次の一作”を書き続けることができたのはなぜですか。
【伊与原】それは単に締め切りがあり、何より、待ってくださっている編集者の方がいたからです。それは僕にとって本当に大事なことで、一番のモチベーションでもあります。これが研究だったら、「業績を確保するために論文を執筆せよ」という大学の上からの圧力はあっても、僕の研究結果を純粋に心待ちにしている人は、ほとんど誰もいない。けれど、小説は違います。僕に書いてほしいと言ってくださる人がいるかぎりは放り出すことはできないですし、「なんとかその期待に応えなきゃ」という、その思いだけでやってきた気がします(笑)。
小説に織り込む科学の知識は、教科書レベルの基本だが…
――伊与原さんの小説には科学の知見がちりばめられていて、物語を楽しみながら知的好奇心も満たされます。
【伊与原】僕が書いている科学のくだりを面白いと感じてくれる方が多いのは、科学者たちは昔から知っているけれど、みんなにはあまり伝えていなかったことがたくさんあるというだけのことで。それ以外にも、たとえば、地球の内部がどうなっているかという解説は中学校の教科書にも載っていて、みなさん、習ったけれど覚えていなかったりする。それを、今、大人になってもう一回読むと、「はあ~、なるほど」と感心してもらえるんです(笑)。ならば、すごくベーシックな知識でも楽しんでもらえることはまだまだあるし、どんな題材でも新鮮に感じてもらえる切り口があると思っています。
受賞作の短編集では広島、奈良、北海道、山口、徳島を舞台に
――5つの短編を収めた直木賞受賞作『藍を継ぐ海』でも、科学の要素を交えた色濃い人間ドラマが描かれます。それぞれの物語が、舞台となる土地と密接に結びついていますね。
【伊与原】今回はどれも題材先行で、僕が書きたい題材を選びました。最初に書いた「祈りの破片」は、広島の長岡省吾さんという地質学者が、原爆投下直後の広島でたった一人、被爆した遺物を集めて調査された事実がもとになっています。その資料が広島平和記念資料館の最初のコレクションになり、長岡さん自身も初代館長を務められたのですが、同じ地質学をやっていた人間として、彼がどんな思いでそれを始めたかに興味がありました。広島で長岡さんの評伝小説を書くという方法もあったのですが、読み物として面白く読んでもらうことも考えたときに、もし長崎にも長岡さんみたいな人がいて、その人物が集めた遺物が人知れずどこかに眠っているとしたら? という、ミステリー仕立てのフィクションを思いついたのです。
舞台となる地方を調べて「継承」というテーマに行きつく
――次に書かれた「狼犬ダイアリー」は、都会から逃れ奈良県吉野に移住したウェブデザイナーの女性が、地元の少年らと絶滅したはずのオオカミを追う中で、内面の変化を遂げていく話です。
【伊与原】ニホンオオカミはとてもロマンがあり、今も追い求めている人がいる気持ちもよくわかります。ニホンオオカミといえば秩父か吉野になりますが、吉野は最後にニホンオオカミが捕獲された場所ですし、僕は関西出身で吉野のほうが身近なので、自動的に舞台は吉野に決まりました。長崎、吉野と地方が二つ続いたので、このあとの短編も地方色の強い場所を舞台にしようということになり、必然的に“継承”というテーマも浮かび上がりました。その次に書いた「星ほし隕おつ駅逓えきてい」では隕石を扱いたくて、物語の中で隕石はどこに落としてもいいので土地縛りはなかったのですが、次は北日本がいいと思い、最北端の北海道を恣意的に選びました。
――親子の絆がにじむ物語の背景には、北海道の開拓史にまつわるエピソードも盛り込まれています。
【伊与原】僕は駅逓が北海道の開拓史にどういう影響を与えたかや、アイヌのことも全然知らなかったのですが、道東の遠軽のあたりに隕石が落ちるという設定にしたことでその土地を調べていくと、いろいろ面白いことがわかった。それによって、登場人物の人生に駅逓やアイヌの話を結びつけて描くことができたのはラッキーでした。そんなふうに、土地を選んだら、その土地が書く素材を提供してくれました。次に書いた「夢化けの島」もそうです。
地質学が専門なので、自分ならではのアプローチを考えた
――「夢化けの島」では、山口県萩市の沖合に位置する離島・見島みしまに地質調査に訪れた女性研究者が、“伝説の土”を求めて見島にやってきた謎の男性と知り合います。
【伊与原】これも、土を題材に決めたところから焼き物について調べ、萩焼に使われている土に、見島でしか採れない土があることを知ったのが始まりです。見島は溶岩でできた火山島なので、鉄分の多い赤い粘土質の土が採れ、それを用いることで萩焼の独特の色味や風合いが生まれました。そうした理屈は萩焼の職人さんたちには常識でしょうが、僕が書くなら島の地質学的な成り立ちも含めたアプローチにしようと考えました。その後、見島で現地取材を重ねる中で、萩焼で見島土が使われるようになったきっかけとして、江戸時代後期にさかのぼる非常に面白い説を知り、今回の物語ができあがりました。何の構想もなく舞台を萩にしたら、すごい話が掘り起こされたという感じです。
――表題作の「藍を継ぐ海」では、アカウミガメの産卵地である徳島県の漁村で、中学生の女の子が、ある思いからウミガメの卵を孵化させ、自力で育てようとします。
【伊与原】僕は研究者時代に、岩石に含まれる地磁気の研究をしていたので、地磁気を利用して生きている動物に興味があり、ハトや渡り鳥を題材にしたこともあります。その中でウミガメは書いたことがなかったのと、最近はなかなか難しくなったものの、われわれがまだ産卵を身近に見守ることができる動物ということもあってとりあげました。スケール感も大きいですし、継承というテーマが色濃く浮かぶ話になったと思います。
科学者が小説を書くことで、リフレッシュ効果を提供したい
――いずれの物語も、登場人物の内面の揺らぎや成長が丁寧に描かれますが、その重要なファクターとして科学を用いることで可能になるのはどのようなことでしょうか。
【伊与原】僕がやっていることは科学コミュニケーションではなく、あくまで小説を書いているので、科学を通して伝えたいことが特段あるわけではないんです。ただ、科学者や研究者の見ている世界に触れることは、一般の方々にとって、生きていく上でリフレッシュ効果があったりするので、そういうものを提供できたらいいなと思います。未経験なことを体験できるようなものになればいいですし、小説を読んで、その土地に行ってみたいと思ってもらえたら一番うれしい。そういう意味では科学の知識より、むしろ世界の見方が変わることのほうが大事。これからも、そういう小説を書きたいなと思います。
取材・文=浜野雪江
伊与原 新(いよはら・しん)
作家
1972年、大阪府生まれ。神戸大学理学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻し、博士課程修了。富山大助教時代の2010年に『お台場アイランドベイビー』(KADOKAWA)で横溝正史ミステリ大賞を受賞してデビュー。『月まで三キロ』(新潮社)で新田次郎文学賞などを受賞。21年に『八月の銀の雪』(新潮社)で直木賞候補、25年に『藍を継ぐ海』(新潮社)で第172回直木賞を受賞。2024年には『宙わたる教室』(文藝春秋)がドラマ化。