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「胸を舐められた」は濡れ衣だった…逮捕された乳腺外科医が"無罪確定"までの9年で仕事も息子も失った悲痛

  • 2025.3.18

手術が終わった後の女性患者にわいせつな行為をしたとして、乳腺外科の医師が準強制わいせつの罪に問われた裁判。一審無罪のあと、控訴審では一転有罪(実刑2年)になったものの、最高裁で破棄され、この3月半ばの差し戻し控訴審で無罪の判決が出た。医師の筒井冨美さんは「手術の全身麻酔後にせん妄(幻覚)を見る患者がいる。今後は、医療の専門家の意見が採用されやすくなるような司法改革を望みたい」という――。

※写真はイメージです
「乳腺外科医わいせつ疑惑」事件とは

2016年5月、東京都内の病院に勤務する男性外科医のA医師(現在49歳)が、当時30代の女性B子の右胸から乳腺腫瘍を摘出する手術を行なった後、B子から「左胸を舐め回され、乳房をはだけさせて自慰行為をされた」などと訴えられて警察官の取り調べを受けた。

警視庁科学捜査研究所の鑑定ではB子の胸からはA医師のDNA型が検出され、同年8月に逮捕、9月に準強制わいせつ罪で起訴された。

この事件に関して、医療関係者の間では、直後から

「全身麻酔後によくあるせん妄(幻覚)だったのでは」
「DNAは診察中の会話などで付いたのでは(コロナ以前の事件だったのでマスクは厳格でなかった)」

などと話題になっていた。「裁判できちんと審議されれば、速やかに疑いは晴れるだろう」と楽観的に予想した医師が多く、私もその一人であった。

無罪→有罪(実刑2年)→最高裁で破棄→差し戻し控訴審無罪

その予想通り、東京地方裁判所で無罪判決が言い渡された(2019年2月)。胸を舐められたとするB子の証言について、全身麻酔後によるせん妄と判断されたのだ。証拠とされたDNAは、鉛筆で記載されたワークシートしか残っておらず、DNA抽出液はすでに廃棄されていて、「証明力は十分なものとは言えない」とされた。「これで一件落着」と多くの医師が安堵していたが、東京地検は判決を不服として控訴した。

すると、2020年2月の控訴審では無罪判決は破棄された。せん妄の可能性は否定され、懲役2年の実刑判決がA医師に言い渡されたのだ。弁護側は即日上告し、日本医師会は記者会見で「極めて遺憾」と表明するなど、医療界は騒然となった。

そして、2022年2月。最高裁はせん妄の可能性を認めた上で、検出されたDNAの量に対する検討が不十分だと二審の有罪判決を破棄し、東京高裁に審理を差し戻していた。

2025年3月12日、その差し戻し控訴審では一審判決を支持し、無罪が確定した。事件から約9年の時間が過ぎていた。

※「乳腺外科医事件に再び無罪判決 弁護団は『遅すぎる』と批判 『長くて辛い日々だった』と医師」(Yahoo!ニュース、2025年3月12日)

A医師「私の生活や仕事、そして家族を奪われた」

差し戻し控訴審の判決後、A医師は記者会見に臨み「私の生活や仕事そして家族を奪われたこと、警察と検察に対して強く憤りを感じます」と怒りを露わにした。(※1)

この9年間に、A医師は身体を拘留され、職場や名誉を失っただけでなく、息子も失っている。控訴審で有罪判決を受けた数カ月後、中学生だった息子が総武線に飛び込んで自殺した(※2)ことを一部メディアが報じている。多感な年代に「実父が性犯罪者」という社会的プレッシャーが耐えられなかったのだろうか。今後、失った金や名誉を償ってもらうことはできても、息子は戻ってこない。

※1「ふたたび『無罪』になった乳腺外科医、捜査機関やマスコミに憤り『生活や仕事そして家族を奪われた』」(弁護士ドットコムニュース、2025年3月12日)
※2「手術後『わいせつ行為』事件で逆転有罪の外科医の子息が自死」(『選択』2020年10月号)

全身麻酔によるせん妄とは

一般的に、手術は患者の症状や部位によって、全身麻酔が選択されるケースは少なくなく、その際、患者がせん妄状態に陥ることもある。そのため、外科医や麻酔科医はその備えを常に怠らない。

※写真はイメージです

手術が終わった直後、ベッドの上に立ち上がったり、点滴を抜いたり、中には医師や看護師に「ハゲ」「ブス」と暴言を吐いたり殴りかかる患者もいる。こういった一過性の現象が出ても、数時間後には正気に戻ることを経験的に知っているので、医療関係者は冷静に対処する。

性的せん妄も珍しい話ではない。普段は真面目なサラリーマンが、手術が終わった数時間後に寝ぼけ眼で「陰茎をブンブン振り回して看護師に見せる」といった事態もたまに発生する。平常な人がそれをやったら、一発アウトで「わいせつ行為」「性犯罪」となるだろうが、病院関係者は事を荒立てず、静観し、麻酔からの覚醒を待つのみである。

本件のB子も手術直後に「ぶっ殺すぞ」と発言していたとの証言(※3)があるが、せん妄を疑われても「殺意を抱いていた」とは疑われていない。

※3「乳腺外科医のわいせつ事件はあったのか?~検察・弁護側の主張を整理する」(Yahoo!ニュース、2019年1月19日)

疑わしきは被告人の利益…だったはずなのに

本事件でも発生直後から多くの外科医や麻酔科医が、「全身麻酔後のせん妄」の可能性を指摘しているのにもかかわらず、検察や警察には納得してもらえず、上告に至ったことは残念である。

さらに控訴審では、「A医師は犯行を否認して、反省、謝罪していない」事を理由に実刑判決を言い渡された。もし「乳房を舐める行為」がB子のせん妄だったら、A医師はそれを強く否認するわけで、反省・謝罪に至らないのは自然だが、判決文にはそうしたことへ思いを巡らした形跡はない。

検察側が立てた証人もいささかお粗末だった。「私はせん妄の専門家ではない」と自ら正直に語る精神科医が出廷し、その証言が採用されている。「疑わしきは被告人の利益に」が、刑事裁判の基本のはずだが、判決は偏っていたと言われてもいたしかたない。

絶滅危惧種の外科医は救えるか

医師の世界で、外科医不足が問題視されるようになって久しい。他の診療科の医師に比べ、長時間労働、長い修行期間、立ちっぱなしの手術、厳しい徒弟制、時間外労働の多さ……とハードな職場ながら、基本給などの待遇は眼科・皮膚科医などと変わらない、ということがほとんど。

それに加えて、本件の事例によって、「術後せん妄であっても、事と次第によっては逮捕拘留される」「無罪を証明するために9年間かかる」という残念すぎる可能性が追加されてしまった。

本件の一連の裁判以降、「乳腺外科を専攻する男性外科医が途絶した」「乳腺外科医が美容外科に転職した」といった話を医師仲間からしばしば聞くようになった。そもそも女性外科医は少なく、辞めた男性外科医の穴を全て埋めることはかなり大変だ。そこへさらに、「男性外科医減少」となったら現場は回らなくなってしまうかもしれない。

2023年以降に更衣室での盗撮や、患者の体を触るなどしたことで戒告以上の処分を受けた医師と歯科医師は計102人。そのうち42人が、わいせつ事件で有罪が確定している。世の中には医師の立場を悪用したケースもある。

客観的に見れば、「A医師がわいせつ行為をした可能性」はゼロではないかもしれない。だが、それは極めて低いと私は考えている。弁護側が法廷で述べたように、「カーテンで仕切られただけの4人部屋」かつ「カーテン横にはB子の母がいる」という非密室状態でわいせつ行為に及ぶだろうか。実行したとすれば、逆にかなり不自然な行動に思える。

息子を失ったA医師の悲しみは想像に堪えないが、本事件を糧として、今後の医療裁判においては専門家の意見や科学的データが採用されやすくなる司法改革を望んでやまない。

筒井 冨美(つつい・ふみ)
フリーランス麻酔科医、医学博士
地方の非医師家庭に生まれ、国立大学を卒業。米国留学、医大講師を経て、2007年より「特定の職場を持たないフリーランス医師」に転身。本業の傍ら、12年から「ドクターX~外科医・大門未知子~」など医療ドラマの制作協力や執筆活動も行う。近著に「フリーランス女医が教える「名医」と「迷医」の見分け方」(宝島社)、「フリーランス女医は見た 医者の稼ぎ方」(光文社新書)

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