サントリーホールディングス執行役員(サントリー常務執行役員)を務める津田麻子さんは、新卒で入社後まもなくビール営業に携わった。得意先で商品力の勝る競合他社より冷遇された悔しさがキャリアの原点だ。人一倍努力家で自分に厳しい津田さんが、ライバル企業が強いエリアで他社を凌駕するためにとった戦略とは――。
自分が一番仕事ができない人間なんじゃないか
「ねえ、聞いて。もう、いよいよあかんわ」
「はいはい、いつものが出ましたね」
「ちがうんよ。今回こそ、ほんまのほんまにあかんのよ」
営業部門出身の女性として初めて、サントリーホールディングスの役員となった津田麻子さんは、昇進が決まり部署が異動になるたびに、必ず、同期の親友とこんな会話を交わしてきた。謙遜ではなく、本当に自分自身に自信を持てないのだという。
「社内研修で人生曲線を描いてみたら、異動の度に落ち込みがすごいんです。ですから、新しい部署に行くたびに修羅場を経験するんです。入社年次に関係なく、自分が1番仕事ができない人間なんじゃないかと思うぐらい、不安に襲われてしまうんです」
自信がなくいつも不安を抱えている人が、役員になれるとは思えないが。
「成果が出てくると、ポンと行けるんですが……」
成果が出るまではどうするのだろう。
「努力するんです。自信がない分、必死で努力をするんです」
津田さんの七転八倒の“サントリー人生”は、女性だけでなく多くのインポスター(自分の能力を過小評価する傾向が強い人)に勇気を与えてくれるに違いない。
同期に囲まれて大泣きした
津田さんがサントリーに入社したのは1991年のことである。自分自身お酒が好きで、人生に彩を与えてくれるお酒をつくっているサントリーに憧れて入社した津田さん。
「新入社員研修が終わって配属が発表されると、営業の内務だったのです。まあ、研修中も元気にやってましたから、営業向きだと判断されたんでしょうね」
1年間営業で内務を担当した後、二年目の配属はワイン課となった。津田さんの入社当時、女性の営業はワイン課にしかいなかったのだ。営業とはいえ、ワインのセールスはなんとなく華やかな感じがするのも事実。ワインは基礎知識がないと扱えない商品であり、テストもある。津田さんは一所懸命にワインのことを勉強した。
ところが……。
「いざ、得意先を決める段階になって、突然、ビールの営業に異動になったんです。ワインの営業に憧れて猛勉強し、いざ独り立ちというところだったので、同期のみんなに囲まれて大泣きしましたよ」
ビール営業というと、ワインとは打って変わって運動部出身者が多いイメージである。時には、得意先で自社のビールをガンガン飲みながら商談をまとめていく、男の世界。それが、一般に流布しているビール営業のイメージではないか。
「実は、私が配属される数カ月前に女性のビール営業1期生が数人誕生していたのです。つまり私は2期生だったわけですが、同業他社も女性にビール営業を任せる流れになっていました。いずれにせよ、ビールの営業に異動になったことで、私のサントリーでの生き様が決まったわけですよ(笑)」
入社当時、営業の内務だった津田さんは、1年後にはビールの営業として「外に出る」ことになったのである。
ビールケースを担ぐ
北大阪支店のビール営業として枚方市を担当することになった津田さんは、得意先として、ある大手酒販店を任されることになった。枚方市にはライバル会社の女性ビール営業が2名おり、自信はなくとも人一倍負けん気の強い津田さんは、絶対に負けたくないと思った。
しかし、世の風は冷たかった。
当時のサントリーのレギュラー・ビールはモルツ。日本ではまだ珍しかった麦芽100%ビールのモルツは、行く先々で苦戦を強いられた。
「スーパードライなら買うけどモルツはいらんなぁ、という酒販店さんが本当に多くて悔しかったですね。しかも、私が担当することになった大手の酒販店さんは、男性の営業の後を女性の営業が引き継ぐのはお断りだとおっしゃっていたんです。それでも上司は『がんばってこい』と背中を押してくれたんですが、まさに『やってみなはれ』の初体験でしたね」
まず津田さんが取り組んだのは、「女性だからできない」というイメージの払拭だった。上司は最初の3カ月は男性の先輩社員と一緒に外回りに出てOJTを受けるように指示をしたが、津田さんは上司に直談判をして、早々の独り立ちを強行した。得意先では倉庫の中に自ら入って行き、ビールケースの整理や棚卸を手伝った。
「男性の営業は3ケース担いだかもしれませんが、私だって2ケースなら担げますよ。女性だからって使えないことはないでしょう。絶対に逃げませんよということを、行動でアピールしたわけです」
午前中に商談をした酒販店に帰社する前にもう一度立ち寄る
当時は、夜討ち朝駆けも欠かさなかった。
「得意先の信頼を得るには、とにかく接点を増やすことが大切だと思っていたので、午前中に商談に伺ったら、帰社する前に必ずもう一度顔を出してご挨拶をするようにしました」
今では主流の、ソリューション営業などという高度な営業手法は存在しなかった。津田さんはいわゆる「どぶ板営業」を愚直に繰り返すことで、なんとか大手酒販店に食い込もうとした。
「もう、社長のお孫さんの遊び相手までやりましたからね(笑)」
するとある日、大手酒販店の社長の口からこんな言葉が飛び出したのだ。
「そんだけ言うなら、アンタから買ったろか」
ついには、同じ口からこんなつぶやきが漏れるようになった。
「サントリービール頑張って売るわ」
それを聞いて津田さんは、男泣きに、いや女泣きに泣いた。90年代のビール営業は、心意気の世界だったのである。
ビール事業は一度も黒字を出したことがなかった
大手酒販店にはなんとか食い込むことができたが、モルツを扱ってもらえなかった悔しさは津田さんの胸に深く刻まれることになった。
それは津田さんの“サントリー人生”の通奏低音となっていくのだが、一方で、ビジネスマンとしての己を知ることになる大きなターニングポイントがふたつあったと、津田さんは言う。
ひとつは2001年にビール・プロジェクトのメンバーに抜擢されたことだった。
「当時の社長は佐治信忠(2001年3月に社長就任)でしたが、酒類販売免許の自由化を迎えるに当たって、首都圏と近畿圏で社長直轄のプロジェクトを発足させたんです。『ビールの夢を叶えるんや!』ということです」
「ザ・プレミアム・モルツ」(2003年発売)が成長をしてきた2008年まで、サントリーのビール事業は一度も黒字を出したことがなかったのだ。
91年入社の津田さんは、ちょうど10年選手になる年。根っからのインポスターも、さすがにビール営業の仕事には自信を持っていた。しかし、近畿圏全域を対象に総合的なビールの販売戦略を立案しそれを各現場で実行に移してもらうというプロジェクトのミッションは、まるで雲をつかむようで捉えどころがなかった。
「佐治社長は、既存の売り方にとらわれず、業界に先駆けて一気にゲーム・チェンジをするための戦略を答申せよと言うわけですが、もう『何から手をつけたらいいのかわかりません』というのが正直な気持ちでした」
自信のなさが炸裂する
プロジェクトチームのメンバーは部長、課長に津田さんを含む担当者が2人だけ。しかも、年次が下のもうひとりの担当者は、企画畑の出身で戦略の立案に長けていた。
津田さんの自信のなさが炸裂した。
「本来は年次が下のメンバーにコーチングをしてあげる立場でしたが、あらゆる局面で『教えてもらう』のが実際の私の立ち位置でした。なにしろ、データ分析なんて1回もやったことがなかったんです。これはえらいことになったなと思いました」
津田さんの自信のなさは、上司にもズバリと見抜かれていた。ある日、課長からかけられた何気ないひと言を、津田さんははっきりと記憶している。
「津田らしくないな。君ならもっとできるはずだろ」
インポスターにとって、これは非常にショックだった。
「『お前はできていない』の裏返しですよね。もう、クビになるんじゃないかと思うくらい、追い詰められた気持ちになりました」
プロジェクトチーム内で役割分担が決まってからは、「自分なりにやれたかな」という感覚を持てたそうだが、同じくインポスターである筆者には、この時期の津田さんの苦手意識や気まずさは痛いほど想像できる。
「限定された自分の担当エリアで成果を出す営業の仕事と、近畿圏という大きなエリアを動かしてアウトプットを出すプロジェクトの仕事の違いを学びましたね」
その違いとは、目に見える・手で触れられる仕事と、抽象的・概念的な仕事の違いと言い換えてもいいかもしれない。
部下がかわいくて仕方ない
もうひとつのターニングポイントは、2007年、横浜支店広域営業1課の課長に就任した時にやってきた。
津田さんにとって初めての課長職だっただけなく、横浜支店にとっても初の女性営業課長の就任であった。またしても、不安爆発だったのかと思いきや……。
「いやー、部下の若い社員たちの顔を見た瞬間、ああ、この子らを預かるんやと思って、もう、かわいくてかわいくて愛が溢れましたね」
なんだか、直轄プロジェクトの時とは様子が違う。
横浜支店広域営業1課はスーパーなどの量販店の本部を得意先とするチームだったが、津田さんはこの仕事を通して、自身が結果にすさまじく執着する人間であることに気づかされたという。
「結果にこだわるあまり、当時の部下には辛い思いをさせてしまったかもしれません。でも、営業は結果を出すのが当たり前。そのためにできる事はすべてやるというのが、私のスタンスでした」
だから、部下が商談に持っていく資料を整えていなかったら、完璧に整うまで徹底的に一緒にやり直した。商談の際は、目標を達成するまで提案を続けるなど、攻めて攻めて攻めまくった。
そんなことをしたら、部下の心が離れてしまわないか心配になるが……。
「たしかに、部下に対して厳しかったと思いますけれど、飲み会や1対1の面談も含めて、コミュニケーションをむちゃくちゃ取っていました。ですから、一方的に結果だけを要求されて反論は許されないという受け取り方はされていなかったと思います。結果を出すために、お互い精一杯やろうよという関係です。オンとオフの切り替えをはっきりして、厳しいけれど楽しいチームを目指したつもりです」
チームを預かる経験は格別
この横浜支店時代の経験から、津田さんは自身の職業人としてのタイプを深く認識するようになったという。言葉で定義すれば、以下のようになるだろうか。
高い目標を掲げて、仲間とともにその目標を達成したときに大きな喜びを感じるタイプ
結果に執着するのは、自身の業績や出世のためではなく、目標を達成する喜びを味わいたいからこそ。そして目標は高ければ高いほど、達成の喜びも大きくなる。
「私、新任課長に対して必ず言うことがあるんです。初めて課長になったときのメンバーは絶対に忘れませんよ、いろいろなリーダーを経験すると思うけれど、チームを預かる経験は格別ですよって。彼、彼女らを成長させてあげるのも、結果を出させてあげるのもマネジャー次第ですから、チームを預かるということはメンバーの未来を預かるということなんです」
営業スタイルは自分に妥協をしない「攻め、詰め、攻め」
では、そんな津田さんの“熱い思い”を当時の部下たちはどう受け取っていたのだろうか。
首都圏支社広域営業2部で部長を務めていた時のメンバーが津田さんに贈った寄せ書きを見せてもらうと、メンバー全員の写真の下に、「攻め、詰め、攻め」と書いてある。津田さんの営業スタイルを、部下たちが評した言葉である。
「私にとって救いだったのは、『津田さんは厳しいけれど、自分への厳しさもすごいからついていけます』と当時のメンバーが言ってくれたことです」
異動の度に生じる強い不安感を、津田さんは必死の努力で攻めて、詰めて、さらに攻めることで乗り越えてきたに違いない。だから部下たちは離反しなかった。
「初の女性営業課長を引き受けてくれた当時の支店長も、勇気が必要だったと思います。他に男性の課長はたくさんいるわけですから……」
支店を離れるとき、津田さんは涙ながらに支店長に感謝の気持ちを伝えたという。
「そうしたら、あまりよく覚えていないという返事でした(笑)」
津田さんは、万事、思い入れの強い人なのだろう。それが不安の原因にもなるし、チームへの愛にもなる。
ライバル会社のお膝元・静岡で悲願を目指す決意
2017年、津田さんは静岡支店の支店長に就任している。この静岡支店で、津田さんの攻めの営業スタイルは満開の花を咲かせることになった。
当時、サントリーのビールは大手4社の中の3位が定位置と言われていた。ところが、静岡では苦戦をしていた。県内にライバル会社の主力工場があるからだ。
「ちょうど支店長で行った翌年の2018年は静岡支店開設50周年でした。1年間で絶対にエリアでの存在感を増し、全社水準までポジションを上げようと本気で決意しました」
高い目標を設定して結果に執着するのは津田さんの持ち味だが、支店全体が燃えてくれなければ難しい。どうやって自身の本気度を支店内に徹底させたのだろうか。
どこかのタイミングで誰かがやらなければ
「まず、退路を断つために、開設50周年記念イベントの予定を早々に入れてしまいました。もう絶対にやらなあかんよ、ということです。」
津田さんの「退路を断つ」という言葉を聞いて思い出したのは、以前、鳥井信宏サントリー(株)社長にインタビューをした時のことである。
鳥井社長は、「リーダーが自ら掲げた数値目標について、ほんの一瞬でも『ちょっと無理かな』と疑ってしまったら、それは瞬時に組織の末端まで伝わってしまう。目標が未達に終わる原因はそこにある」とおっしゃった。つまり、津田さんが断ったのは、部下の退路ではなく自身の退路だったのではないか、というのが筆者の見立てである。
「もうひとつ、難しいことではあるけれど、未来のサントリーを変えるんだと支店のみんなに伝えました。メーカーのポジションが向上すると業務用の営業もやりやすくなるし、とても大きな意味があることなのですが、どこかのタイミングで誰かがそれをやらなければ、未来は永遠に変わりません。それをいまわれわれがやるんだ、未来のサントリーはいまの私たちにしか変えられないんだ、本気で爪痕を残そうと何度も言い続けました」
「ザ・プレミアム・モルツ」の快進撃然り、ハイボール・プロモーションも然り、サントリーという会社は、こうと決めたら一気呵成に突き進むのを得意とする集団だ。
津田さんは目標となる数字をはじき出すと支店の壁にそれを張り出し、持ち前の率先垂範によってセールス・プロモーションの推進を徹底した。
かくて2018年、静岡支社は設立50周年という節目の年にライバル会社を上回るほどの実績を残し、エリアでのポジションを向上させるという、大きな快挙を成し遂げることになったのである。
「佐治敬三(2代目社長)の言う『へこたれず、あきらめず、しつこく』の精神で、支店が一丸となってやれた結果だと思います」
初めてビールの営業に出た頃のあの悔しさを忘れていない
いま、サントリーHD(株)で営業部門初の女性役員として、津田さんは新たな挑戦の日々を送っている。新しい仕事を前にビビる気持ちは今でもあるが、これまでのように限られたエリアで短期的に結果を出すだけではなく、グローバルな、そして長期的な視野を持って会社を牽引していくのが役員の務めだと自覚している。
「私、初めてビールの営業に出た時、まったく相手にしてもらえなかったあの悔しさを忘れていないんです。だから、絶対にサントリーのビールをNO.1にしてみせます」
2026年の酒税法の改正を目前に控えて、いまサントリーのビールは「右肩上がりの第3位」にある。若年人口が減少する反面でインバウンド需要が急増しており、客層も消費行動も大きく変化をしている。変化の時代だからこそ、戦略次第で勝機はあると津田さんは言う。
「出口はひとつ、ビールNO.1です」
その日が来るまで、津田さんは攻めて、詰めて、攻め続けるのだろう。
手放せない仕事道具:スマホ
好きな言葉:意志あるところに道は拓ける。夢大きく。
趣味:ゴルフ
ストレス発散:ジムでトレーニング
山田 清機(やまだ・せいき)
ノンフィクションライター
1963年、富山県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、鉄鋼メーカー、出版社勤務を経て独立。著書に『東京タクシードライバー』(朝日文庫)、『東京湾岸畸人伝』『寿町のひとびと』(ともに朝日新聞出版)などがある。