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「吉原史上最高の玉の輿」2億5000万円で落籍されたが…身請け先「姫路城主」のとんでもない好色ぶり

  • 2025.3.16

江戸時代、吉原の遊女が身分を超えて大名の側室になるという「玉の輿」は、実際にあった。作家の濱田浩一郎さんは「大河ドラマで描かれた五代目瀬川(小芝風花)の落籍話からさかのぼること数十年前、高尾太夫が姫路城主に約2億5000万円で身請けされたが、城主の榊原政岑の評判は領内でも最悪だった」という――。

吉原史上最高の「玉の輿」に乗ったシンデレラストーリー

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)において、横浜流星さん演じる主人公・蔦屋重三郎(1750〜1797)が想いを寄せる吉原の高級遊女・瀬川(小芝風花)。第10話では、その瀬川が盲目の富豪・鳥山検校(市原隼人)に約1500両もの大金で身請けされる場面が描かれていました。

身請けとは妓楼の客が自分の気に入った遊女を指名して仕事を辞めさせること。遊女を自分の妻妾にしようとする者が、常識では考えられないほどの大金の費用を負担しました。身請けは苦界(吉原の妓楼)に生きる遊女にとって夢のようなものだったでしょうが、その夢を叶えた遊女もおりました。

その中でも有名な遊女が、蔦屋重三郎の生まれる約10年前に落籍された高尾太夫(以下、高尾と略記)です。高尾は播磨国(現在の兵庫県南西部)姫路藩主(15万石)・榊原さかきばら政岑まさみねという大藩の大名に身請けされたのですから、まさに玉の輿、シンデレラストーリーといって良いでしょう。

歌川豊国「江戸名所図会 三十・永代橋 三浦屋高尾(※2代目高尾と思われる)」1852年(嘉永5)、国立国会図書館デジタルコレクション

しかし、榊原政岑と高尾には思わぬハプニングが待ち受けていました。江戸時代の随筆本『鄙雑俎ひなざっそ』を基にして2人の関係を見る前に、榊原家や政岑について簡単に触れておきましょう。榊原家は康政(大河ドラマ『どうする家康』で杉野遙亮が演じた)の代に徳川家康に取り立てられ大名となります。康政はいわゆる「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・井伊直政)の武将の1人で、譜代大名となります(康政は上野国=群馬県、館林藩の祖)。

榊原家の分家の子、旗本に過ぎなかったが姫路城主に

その子孫は陸奥国白河、播磨国姫路の藩主となります。榊原家には分家があり、分家は旗本となっていました。榊原政岑はその旗本・榊原勝治の子として正徳3年(1713)に生まれます(生年については諸説あり)。本家の姫路藩主に何事もなければ、政岑は旗本として一生を終えたことでしょう。ところが姫路藩主の榊原政祐(1705〜1732)には子がなく、更には病気危篤となってしまいます。政岑は政祐の末期養子(当主で嗣子のない者が急病などで死に瀕した際、御家の断絶を防ぐため緊急に縁組された養子)となり、その死後(1732年)、姫路藩主となるのです。

藩主となった政岑ですが、とんでもない好色だったとの逸話が残っています。『鄙雑俎』には次のような逸話が載っているのです。あるとき、政岑は鷹狩り・川狩り(魚を獲ること)のため藩領を逍遥しておりました。その時、政岑は町々に「艶顔」(艶かしい美しさのある顔)の女性・娘を発見します。すると政岑は城に帰るのを待たずに即刻、その町の奉行・役人にあることを命じるのです。それは、政岑が気に入った女性を城に召し寄せよということでした。そうして領内の女性を「城に引き入れ」た政岑はその女性らを「寵愛」したといいます。

播磨国の美女たちを人妻でも強引に自分のものに

このような有様でしたから、領民は大いに迷惑しました。夫のない女性はいざ知らず、結婚を間近に控えている女性は結納を先送りすることもあったようです。結婚の日限まで決まっていた女性は大いに「迷惑」したのでした。既に夫のいる女性にも政岑は容赦しません。自分が気に入ったとなると「人(他人)の女房」であっても「威勢」に任せて、召し寄せたのでした。当然、その女性の父母や夫は悲嘆に暮れます。いや、悲嘆を通り越して怒りを見せる者もいたとのこと。

政岑の命令を拒めばどうなったか。即時に罪を蒙ったと『鄙雑俎』にはあります。最悪の場合、その場所にも住み辛くなり「身代破滅」し、牢獄行ということにもなりかねないゆえ、泣く泣く女性を離縁させて「妻・娘」を差し出す家もあったようです。とんでもない藩主が現れたということで姫路の町人は、薄氷を踏む想いでした。

人々は妻や娘を家に隠し、「殿様」の目を避けた

しかし、姫路の人々は、おいそれと妻や娘を差し出してはなるものかと一計を案じます。妻・娘を家の中に深く隠して出さないようにしたのです。「門外・途道に出ないように日夜、心を盡つくした」と言います。姫路の百姓や町人は物を買いに来る人をも恐れるようになったとのこと。特に侍の出入りに疑いを持ったようです。娘や妻を召し出せと伝えに来たのではないかと恐れたのでしょう。要は疑心暗鬼になっていたのです。

※写真はイメージです

「妻を召し出せ」との命令に背いた百姓(夫)もおりましたが、その百姓は鉄砲にて打たれたようです。領民の恐れと嘆きが一層積もっていく中、藩主の政岑が通い出したのが、江戸の吉原でした。そこで馴染みとなったのが三浦屋の高尾です。高尾にぞっこんとなった政岑は日々、彼女のもとに忍び通い詰めます。政岑は高尾を身請けする約束をしました。

吉原では最高位の高尾太夫に夢中、身請けの約束をする

その噂を聞いたのが同じく遊興を好む内藤備後守。備後守は高尾のもとに足しげく通います。ある日の夜、政岑が遊廓に来ることを聞きつけた備後守は、高尾を身請けしたいと茶屋の親方に話を持ちかけます。しかし、親方はこれから政岑とも相談しなければなりません。親方は内藤備後守が高尾を狙っていることを政岑に密告します。焦った政岑はすぐに高尾を身請けすることを決断するのでした。身請け争いの末ということもあり、高尾の身請金は「過分の高金」(高額)となったと『鄙雑俎』は記します。政岑が高尾を高額で落籍したことは江戸中の評判となりました。

『列侯深秘録れっこうしんぴろく』(著者は江戸文化の研究家・三田村鳶魚)は高尾の身請金を「千金」(2500両)とします。諸説ありますが、これは現在の2億5000万円に相当するとの見解もあります。『列侯深秘録』は政岑が高尾の他にも遊女を身請けしていたと記しています。帰城の際に高尾を姫路に移した政岑は、彼女を城の「西の方」に置きました。その事から高尾は「西の方様」と呼ばれるようになったとのこと。

歌川国芳画「木曾街道六十九次之内『上尾 三浦の髙雄』」1852年(嘉永5)、東京都立図書館
約3億円で遊郭の遊女を全員集め遊んだという伝説も

江戸から姫路に帰る時、政岑は大坂から有馬に赴きます。有馬温泉で有名な場所です。政岑は「三日入湯」しただけでなく、そこの湯女(入浴中に接待する娼婦)3人を身請けし、姫路に連れ帰ったというから、すごいものです。また政岑には「三千両」の金で遊郭の遊女を全員集めて遊んだという伝説も残っています。

しかし、時は8代将軍・徳川吉宗の治世。享保の改革が断行され、倹約が奨励されていました。そうした最中の政岑による不行跡は吉宗の怒りを買います。結果、榊原家は越後国(新潟県)高田に転封を命じられてしまうのです。政岑は幕府の命により強制的に隠居させられました(1741年)。政岑には遠島か切腹が命じられるところ、先祖の榊原康政の功績に免じて隠居となったようです。政岑は寛保3年(1743)、高田で死去することになります。

榊原家は播磨から越後に転封、高尾太夫はどうなったのか

さて『鄙雑俎』には、政岑の所業に恨みを持つ姫路の百姓らが姫路藩上層部の「家の仕置乱雑」、政岑の不行跡を公訴したとあります。姫路の百姓らが困窮していることが上聞に達した訳です。これにより政岑は不届きとされ、隠居となったと同書は記すのです。同書には高田に移った政岑が逼塞のうちに病死したとあります。

高尾の身の上についても記述があり、殺されたとも町人に遣わされた(嫁したということか)とも書かれていますが、結局はよく分からないと記されています。しかし、一般的には政岑に連れられて高田に来た高尾は、政岑の死後、出家したとされています。政岑は切腹や遠島という処分は免れましたが、女性問題により身を滅ぼした大名と言えるでしょう。

8代将軍・吉宗は享保の改革の倹約政策に反したとして、尾張藩主の徳川宗春にも隠居謹慎を命じています。政岑は、表面上、女性問題により処罰されたということになっていますが、実はその裏に「将軍継嗣問題にからんで、紀州家から出た吉宗に反対し、宗春と事をはかったため」に処罰されたのではないかという異説もあります。

狩野忠信画「徳川吉宗像」(画像=徳川記念財団蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

参考・引用文献
・国書刊行会編『列侯深秘録』(国書刊行会、1914年)。
・三田村鳶魚校訂『未刊随筆百種 第13』(米山堂、1928年)。
・児玉幸多・北島正元編『物語藩史 第4巻』(人物往来社、1965年)。
・Dyson 尚子「身請け金は5億円⁉︎ 遊女から姫路藩主の側室となった「高尾太夫」は最後まで幸せだったのか?」(「和楽web」2020年10月5日)
・小林明「吉原遊郭に2.5億円払って“No.1遊女”を愛人に⁉ 徳川吉宗を激怒させた「女好き大名」の末路」(「ダイヤモンドオンライン」2024年5月30日)

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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