1. トップ
  2. 恋愛
  3. 遊女の取り分はたった25%…21歳の娼妓は1日10人客を取り入院すると罰金まで課されて「吉原脱出」を決意

遊女の取り分はたった25%…21歳の娼妓は1日10人客を取り入院すると罰金まで課されて「吉原脱出」を決意

  • 2025.3.15

大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」(NHK)では江戸時代の吉原と遊女たちが描かれている。明治から現代まで120年にわたる娼婦、売春の史実を取材した牧野宏美さんは「まだ吉原の遊廓が残っていた大正時代に、19歳で遊女となり21歳で足抜けした光子という女性がいた」という――。エピソードの前編をお送りする。

※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。

明治時代の吉原、モノクロ写真に着色
明治時代の吉原、モノクロ写真に着色。おそらく日下部金兵衛の作(写真=BaxleyStamps/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
明治維新で「身売り」は禁止されたが、実態は変わらなかった

「芸娼妓解放令」(明治5、1872年)の後、遊女たちは自らの意思で売春をしているという建前となる一方、内実は身売りと変わらなかったが、彼女たちは苦境に耐え忍んでいただけではない。大正期には廃娼運動がさらにさかんになり、労働運動とも結びついて、「自由廃業」する遊女たちが現れた。ここでは、小説や映画の題材とされることも多い新吉原遊廓と、そこから脱出した女性を取り上げたい。

東京都台東区。地図で確認すると、浅草寺の北1キロほどのところにかつて「新吉原遊廓」と呼ばれたエリアがある。最近では人気漫画『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴著)で大正期の吉原を舞台とした『遊郭編』がアニメーション化されるなど話題になったが、今はどんな街になっているのだろうか。

最寄りの東京メトロ日比谷線三ノ輪駅で降り、まずはすぐそばの浄閑寺(荒川区)へ。ここはいわゆる「遊女の投げ込み寺」として知られ、劣悪な環境のため亡くなった身寄りのない遊女たちが葬られたという。寺には江戸から大正期にかけて、遊女やその子どもの名前を記した数十冊の過去帳が残る。

寺の敷地内にある墓地には遊女を慰霊する「新吉原総霊塔」があり、石碑には「生れては苦界死しては浄閑寺花酔」という川柳が刻まれていた。供えられた花は新しく、丁寧に供養されていることがわかる。作家の永井荷風は遊女をしのんでたびたび寺を訪れたといい、そばには荷風の詩碑も建つ。

吉原遊廓があった場所に残る、いくつかの史跡

東京スカイツリーが見える「土手通り」を歩き、かつて遊廓のあったエリアに近づいてくると、年季の入った風情のある木造の建物が目に飛び込んできた。看板には〈土手の伊勢屋〉とある。1889年(明治22年)創業の老舗天麩羅てんぷら屋で、店のホームページによると、遊廓を訪れて朝帰りする客や、遊郭で働く客引きなどが訪れ、店は繁盛した。夜中にも遊廓へ出前をするなど、24時間営業していたという。

1923年の関東大震災で店舗は全壊し、その4年後に建て替えたのが現在の店舗だ。太平洋戦争時の東京大空襲でも奇跡的に焼け残り、国の登録有形文化財に認定されている。

伊勢屋の道向かいのあたりに、背の高い柳の木がひっそりと立っていた。遊廓の入口付近にあった「見返り柳」を模したものだ。客が帰り際、名残惜しさにそこで振り返ったことからその名がついたという。樋口一葉の『たけくらべ』にも登場する。

関東大震災で亡くなった遊女らを弔った吉原弁財天本宮

遊廓があった頃の面影は、今も残っている。遊廓の様子が見えないようにつくられたとされるS字に曲がった道を進むと、入口にあたる「大門」にたどり着く。「よし原大門」と書かれた比較的新しい門柱があり、一帯には赤い街路灯や昔の通りの名を書いた柱が並ぶ。かつて遊廓内に五つあった神社を合祀した吉原神社や、関東大震災で亡くなった遊女らを弔った吉原弁財天本宮のほか、各所に案内板もあり、その歴史を伝えている。

「吉原遊廓」は、1617(元和3)年、現在の日本橋人形町の「葭よし原」という地区に幕府公認の遊廓が設置されたのが始まりだ。

葭原は、当時、一帯が植物の葭などが生い茂る湿地で、それを埋め立てて街をつくったことに由来する。はじめは「葭原」と称していたが、のちに縁起の良い文字に改めて「吉原」になったとされる。

吉原は1657(明暦3)年の大火で全焼した後、浅草寺の裏付近(現在の台東区千束)に移転し、幕末まで日本最大の売春地として栄えた。移転前を「元吉原」、移転後を「新吉原」と呼ぶ。

戦後は公娼制度が廃止されるも、「赤線」として残った

明治に入り、芸娼妓解放令が出た後も遊廓は残り、昭和にかけても歓楽街として名をはせた。戦後はGHQの指示で公娼制度が廃止された後も、1958年の売春防止法が全面施行されるまで「特殊飲食店街」として売春が行われ、一帯は「赤線」と呼ばれた。

明治時代の吉原
明治時代の吉原。世界文化社『写真で見る幕末・明治』より(写真=The Far East/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

「新吉原江戸町」「揚屋町」など吉原ゆかりの町名も、1966年の住居表示の変更まで残っていた。

現在も大枠としては当時の遊廓のイメージを残そうという意図が感じられる街づくりだが、派手な看板を掲げた風俗店が軒を連ねる一方、マンションや戸建ての住宅、飲食店などが混在している。「働く女性のための性病検診」をうたう検診所もある。

ここで約100年前に起きたのが、「脱出事件」である。

21歳の遊女「春駒」は女性歌人に「助けて」と手紙を出し脱走

「どうか助けてください」

大正末期、新吉原遊廓の21歳の遊女(「娼妓」)は憧れの女性歌人に手紙を書いた。自身の身の上を切々とつづり、苦境から救い出してほしいという内容だ。そして女性はついに遊廓からの脱出を試みた。

1926年(大正15年)4月27日の「東京朝日新聞」には、前日の26日に吉原から脱出を図った女性について、「白蓮女子びゃくれんじょしを頼って吉原を逃れた女」とする見出しの記事で紹介している。

それによれば、女性は森光子といい、新吉原の妓楼〈長金花楼〉で「春駒」の名で遊女をしていた。光子は群馬県高崎市生まれで、大正12年に銅工商の父を亡くしてからは非常に貧しい生活となった。母は病弱で、兄も行状が悪かったため、家族を養うために光子が「吉原に身を沈めた」という。6年の年季で働いていたが、体も弱く、この生活から抜け出したいと考えるようになった。この年、病気のため2カ月入院して借金がかさみ、脱走を決意したという。遊廓を出て、駆け込んだのが手紙を送った歌人の柳原白蓮の家だった。

父を亡くし家族を養うため、6年の年季で身を売っていたが…

柳原白蓮は華族の出身で、「炭鉱王」といわれた伊藤伝右衛門と結婚後、作品を通じて雑誌の編集をしていた宮崎龍介と出会い、新聞紙上で伊藤との公開絶縁状を発表して宮崎と結ばれる。一連の出来事は「白蓮事件」として世間の耳目を集め、その情熱的で自由な生き方や歌に憧れる女性は多かったという。日常生活が縛られた光子たち娼妓にとってはとくに魅力的でうらやましい存在だったに違いない。

柳原燁子(柳原白蓮)と伊藤傳右衛門の結婚写真
柳原燁子(柳原白蓮)と伊藤傳右衛門の結婚写真。1911(明治44年)。『白蓮事件』より(写真=usiwakamaru/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

その後、白蓮は夫で弁護士の宮崎の友人、労働運動家の岩内善作に相談し、岩内のはからいで光子は自由廃業することができた。

光子はその年、自身の遊廓での生活をつづった日記を『光明に芽ぐむ日』(1926年)として発表。さらにその翌年には続編となる『春駒日記』を出版した。『光明に芽ぐむ日』は、「×月×日」と日付ごとにその日の出来事をつづる日記形式で、『春駒日記』は客や同朋の遊女との思い出などエピソードごとにまとめたエッセー集のような形式である。そこには光子の心情とともに、大正期の遊女の暮らしぶりが具体的に生き生きと描かれている。

借金完済までに900人の客と…光子の日記に書かれた性的搾取

2冊の日記からわかることは、その搾取のひどさだ。光子は先述のとおり、家族の生活を支えるために19歳で遊女となる。「周旋屋」、いわゆる女街の仲介で、6年働く契約で、証文上は1350円を前借りしたことになっているが、実際に家に入ったのは1100円だった。差額の250円は周旋屋の取り分となったとみられる。大正末期の大卒男性の初任給が月50円程度とされている。

妓楼で客を取ると、客が払う料金(玉ぎょく)から一部が遊女にわたる。それを「玉割」というが、光子の店ではその取り分は7割5分が楼主、2割5分が遊女となっていた。その2割5分のうち、1割5分が借金の返済に使われ、残りの1割が遊女の「日常の暮らし金」にあてられるという。

光子が例にあげているとおり、客から10円の玉が入ったとすると、7円50銭が店、遊女の借金返済に1円50銭、遊女の暮らし金に1円の計算になる。光子の場合、1350円の借金があるので、このペースだと完済まで900人の客をとる必要がある。

関東大震災前の吉原遊郭=大正時代
関東大震災前の吉原遊郭=大正時代
遊女の取り分は25%、1日10人の客を取る日も

ただ、ある日の光子の記録では、1日で客10人を取っており、計63円の玉があった。借金返済に9円余りをあてられる計算で、光子は「こんな稼ぎなら借金はすぐ返せるはずなのに」と、店側の金勘定の不透明さに疑問を投げかけている。

牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)
牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)

また、遊女は罰金も支払わされていた。正月の三が日などを仕舞日といい、なじみ客を呼んで通常の2倍の料金を払わせることになっているが、客が来なかった場合、光子の店では1日につき2円の罰金を遊女が背負う決まりになっていた。日記では、他の遊女たちが口々に「ただでさえ借金があるのに、罰金ばかりでどうすればいいかわからない」などと、この罰金制度に対する不満を訴えている。

さらに光子は遊女の序列である「席順」について、他の遊女から教わっている。その遊女によると、席順は稼ぎ高で決まり、最上位を「お職花魁おいらん」と呼ぶ。席順が上位だと、初めての客を多くとれるため、稼ぎ高が増えるが、逆に下位に落ちるとなかなか上にあがれず、借金もなかなか減らない。さらに下位であると他の遊女からも馬鹿にされ、店の者からも怒られることが多いという。

収入でも店側の取り分が圧倒的に多い上、客が来ない日は罰金までとられる一方、借金の返済状況も不透明だ。大正時代であるが江戸時代の遊廓と大差なく、「自由意思」で娼婦をやっているという建前とはほど遠い実態であったことがわかる。

※後編に続く

牧野 宏美(まきの・ひろみ)
毎日新聞記者
2001年、毎日新聞に入社。広島支局、社会部などを経て現在はデジタル編集本部デジタル報道部長。広島支局時代から、原爆被爆者の方たちからの証言など太平洋戦争に関する取材を続けるほか、社会部では事件や裁判の取材にも携わった。毎日新聞取材班としての共著に『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』(2020年、毎日新聞出版)がある。

元記事で読む
の記事をもっとみる