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【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—

  • 2025.3.10
【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—

Text by 高橋アオ

2011年3月11日午後2時46分—。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の国内観測史上最大の巨大地震が発生し、太平洋側を中心に激しい揺れが襲った。地震によって発生した津波は太平洋側の沿岸部都市を飲み込み、沿岸部の都市が壊滅的な被害を与えた。

人的被害は災害関連死を含め、死者1万9765人、行方不明者2553人と東日本一帯に甚大な被害をもたらした。

日本代表専属シェフだった西芳照(よしてる)シェフは当時、Jヴィレッジ(福島県・楢葉町、広野町)にいた。

震災により炉心溶融(ろしんようゆう、メルトダウン)など深刻な事故が発生していた福島第一原子力発電所とJヴィレッジの距離は約30キロメートル弱と危険な状況であったが、西シェフはある決断をした。

インタビュー前編は西シェフが体験した東日本大震災に迫る。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—

(取材・構成・撮影 高橋アオ)

日常が崩れたあの震災

Jヴィレッジでランチタイムを終えて休憩に入った西シェフは施設外で一服しながら、仙台へ買い物に行っていた奥さんと電話している最中に激しい揺れに襲われた。

「仙台から(奥さんと)『あ、地震だ』『キャー』と言っていてね。15秒くらい後にこっちも揺れだしまして、かみさんの電話が切れちゃってね…」

立っていられないほどの強く恐ろしい揺れは東北の太平洋沿岸部を襲い、阿鼻叫喚となっていた。Jヴィレッジではスタッフらが屋外に退避した。しばらくして調理場に西シェフが入ると「食器から何から飛び散って割れていて、大変なことになっていました」と職場の散々たる状況に深く肩を落とした。

Jヴィレッジは高台に立地していたため、津波による被害は受けなかった。避難所に指定されていたJヴィレッジに避難してきた住民たちと西シェフを含めたスタッフらは身を寄せ合ったという。そこでラジオやワンセグ(携帯端末でテレビを視聴できる機能)などで地震や津波の被害を知ったという。

「海のそばに住んでいるスタッフがいましたけど、(海のそばに住むスタッフの)おばあちゃんは大丈夫だったからホッとしましたね。うちの親父とお袋も海のそばに住んでいたので、連絡が取れませんでした。ただ(家は)ちょっと小高い所にあったので、津波は家の100メートルくらい下まで来ましたけど、何ともなかったです」と当時の状況を振り返った。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—

西シェフは震災の翌日連絡が取れなかった奥さんを迎えに、仙台まで車を走らせた。海岸線は津波の影響で通行止めとなり、関越道を経由して東北道から目的地へと向かった。

「高速の料金所には誰もいなかったけど、通れるようになっていました。車も走っていなかったですね。夜中2時ごろに仙台に着いて、かみさんはこのままいつでも逃げられるように懐中電灯を枕元に、靴を履いて寝ていました(苦笑)」

ガソリンの給油も規制されており、一度に20リットルしか給油できなかったという。「2回に分けて入れて満タンにしました」と苦労しながら福島へ戻った。安否不明だった両親も余震の影響で近隣の瓦が落ちる状況だったため、畑に軽トラックを止めて就寝するような状況だったという。

「(畑に避難していた両親とは)連絡が取れないわけですよね(笑)。どこに行っているのか分からないもの」と当時を振り返るも、両親の無事に安堵(あんど)したという。

Jヴィレッジでフライパンを振るっていた日常があの震災によって崩れてしまった。福島第一原子力発電所の事故などにより復旧の目途も立たなかったため、西シェフは東京へと避難した。

作業員を支える決意

Jヴィレッジのレストランサービスを運営するエームサービスに勤めていた西シェフは、ともに働いていたスタッフたちと東京へ避難した。和食をベースとした食堂の料理のメニュー開発に携わった。

当時Jヴィレッジは国へ移管され、陸上自衛隊の装備の除染や、原発事故に対応する自衛隊、警察官、消防官の現地調整、東京電力の原発事故処理を担う作業員の原発事故対応拠点としての役割を担っていた。震災から翌月になって、西シェフや調理スタッフたちは避難時に回収できなかった調理器具や日用品の回収や調理場の片づけのためJヴィレッジに戻った。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
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そのときに見た光景が西シェフの胸に突き刺さるものがあった。「(原発)作業員の人たちは寒い中で、コンクリートの上や施設内の踊り場で段ボールを敷いて横になっていました。施設の中の食べものも缶詰しかありませんでした。行くたびに同じ状況で、全然変わっていなかった。東電(東京電力)の人たちと話して『ここでちょっと料理を作ろうか』ということになりましたね。向こうから『作ってもらえますか』とお願いもされた感じですかね」

2011年7月に勤め先を退職し、翌月には保健所からJヴィレッジ内のカフェテリア『ハーフタイム』を開業する許可を取った。「始めたときは暑い夏だったなぁ」と当時を振り返る西シェフは感慨深い表情を浮かべた。危険な状況にあった原子力発電所で働く作業員を支えるために、西シェフは覚悟を決めて再び調理場に立った。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
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同年11月に株式会社DREAM24を立ち上げ、広野町二ツ沼総合公園内に所在する「ふるさと広野館」を借りてレストラン『アルパインローズ』を開業し、原発作業員に料理を提供した。当時は原発事故による風評被害がテレビや新聞などで報道されていたが、西シェフに恐怖や葛藤などはなかった。

「僕は(恐怖や葛藤などが)なかったですね。おいしい料理、温かい料理を出すことによって作業員の皆さんが元気を出して早く片付けてほしいと思っていました。皆さんは食べるものもなくて、カップ麺くらいだったから」と地元福島のために戦う作業員を献身的に支え続けた。

赤字営業も大逆転の一手で黒字へ

ビッフェ形式の食べ放題で料理を作業員に提供していたという。「最初はご飯、味噌汁、主菜一品、副菜一品、サラダかな。主菜は肉魚でやっていました。『どうせならもう食べ放題でやっちゃおうよ』と。もう皆さんエビフライ10本とか取っていましたね(笑)」と、缶詰やカップラーメンで腹を満たしていた作業員にとって西シェフの料理は至福の時だったようだ。

お腹が空いている人が「美味しい、美味しい」と食べる様を生きがいとする西シェフの旺盛なサービスだったが、問題が生じてしまった。「最初はJヴィレッジの職員としてやっていたんですね。ところが、そんなことをやっていたら『もう赤字だから(料理の提供は)やめる』ということになってしまった」と赤字でサービス存続が危機的状況になってしまった。

それでも西シェフは作業員の力になりたい。

そこで「やめるという話が出て『いやいやいや、やめるわけにいかないでしょう』ということで、うちの会社(株式会社DREAM24)でその負債を背負い込みました。負債というか、いままでの仕入れと売り上げと、人件費を全部うちで引き受けてやったんです」と、これまで通りのサービスを提供するために負債を引き受け、自腹を切ってまで作業員に料理を作り続けた。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
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ただ次第に赤字は重くのしかかってくる。死線を超えるような命がけの仕事をしてきた男たちの楽しみといえば食事しかない。当然西さんの経営状況を知らない作業員はもりもり料理を食べるのであった。

「俺は給料がなくてもいいけど、赤字だからね…。『あー、もう駄目だ。閉めるしかない。撤退するしかないか…』といったときに、東京電力の社員の皆さんが(Jヴィレッジ内で)寝泊まりして、朝と夜のご飯を食べるようになりました」とこれまで昼食だけ提供していた中で、朝昼晩と料理を提供するようになった。これが逆転のきっかけとなった。

晩食といえば晩酌が付きものだ。そこで西シェフは夜にお酒を提供し始めると、作業員たちは待っていましたといわんばかりにお酒を飲むようになったという。

「それから『夜にお酒を出していいですか』『お酒を出さないと売り上げないから夜やるんだったらお酒も出して、食事も出してくれ』というので、夜は食事と一緒に枝豆とか酒のつまみを出し始めました。(作業員からも)『やってください』みたいな感じで(笑)。そこから良くなりましたね。大逆転しました!(笑)」と、夜営業で黒字化へとつながったことで作業員の支えを継続できるようになった。

心労がたたって…

西シェフは奥さんと一緒に当時作業員の宿泊所として東京電力が借り受けていたアカデミー女子寮の一室で寝泊まりしていたという。衣食住を共にしていた西さんは休みもなく献身的に調理場に立ち続けた。

「夜は楽しく。皆さん『生きるか、死ぬか』で現場に行っていたと思う。僕は戦っていたわけじゃないですからね。ご飯を作っていただけですから(笑)」とほほ笑んでいた。

決して自分を大きく見せず、誰にでも笑顔で接する西シェフは謙虚な人柄であり、仕事ぶりも誠実だ。真っすぐに料理とアスリートに向き合う姿勢は多くのサッカー関係者から尊敬を集めている。そんなストイックな西さんに、多くの苦難が待ち受けていた。

1週間に2、3度ほど楢葉町からいわき市へと食材の買い出しへと向かった。自家用車のトヨタ・プリウスに詰め込めるだけの食材を詰め込んで往復80キロの道のりを移動した。休みもなく、約6年間も料理の提供、食材の買い出しを続けた。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—

この激務に奥さんの身体が悲鳴を上げてしまった。「(6年の間に)激務でうちのかみさんが心臓を悪くしてしまった。心房細動…、ペースメーカーを入れてね。先生には「ストレスですね」と言われたから、参りましたよ。朝昼晩とずっとやっていたからね。(奥さんには)申し訳なかった」と反省を口にした。

心臓を悪くしてしまった奥さんだったが、現在は元気に過ごされているという。西シェフと奥さんが身を削る想いで奮闘し続けたからこそ、作業員の活力になった。

原発作業員との思い出

約6年間に渡って原発事故処理を担う作業員に料理を提供し続けてきた西シェフ。原発作業員との交流は、いまも大事にしている思い出だ。当時福島第一原子力発電所の所長を務めていた吉田昌郎(まさお、故人)さんも『ハーフタイム』に顔を出すことがあった。

「所長はハーフタイムに何回か顔を出してくれていて、オープンの日にも来てくれてね。アルパインローズのほうにはよく来ていたみたいね。『楽しいことやっているね』と聞いたような(笑)。所長といったら普通は厳ついというか、『あまり近づくなよ』というオーラがあるじゃないですか。(吉田さんは)そういったものが全然なくて普通のおじさんみたいな感じ。飲めば楽しい酒になってね。実際は大変な思いをしていたんだろうけど、みんなを労うというかね」と当時を振り返った。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
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以前西シェフを取材した際に、吉田さんとお酌を交わしたことが印象的だったと振り返っていた。ただ吉田さんは2013年7月9日に食道がんにより帰らぬ人になってしまった。「もっと長生きしてほしかったよね」とさみし気な表情で振り返った。

それでも西シェフはJヴィレッジで事故が収束するまで原発作業員に料理を振舞い続けた。

「僕らはそこの現場に行くわけじゃない。現場に行く人は本当にいつ死ぬか分からない状態で行っていたんじゃないのかな。(作業員との酒席は)楽しい思い出ですよね。そうやってみんなが楽しんでくれているからこそ、やりがいというか『やって良かった』と思えたし、いまもそう思っている。みんなね、楽しく飲んでくれた。夜だけ楽しくて、日中は大変な思いをしてね。やっぱり何かしら人間は息抜きがないとダメですよ。毎日張り詰めても1、2カ月ならいいけど、1、2年になったらおかしくなっちゃうからね」

作業員にとって大切な憩いの場を守り続けた西シェフの貢献は大きかった。浜通り地域が復興する上で西シェフの尽力は必要不可欠なものだったに違いない。日本代表専属シェフとして選手たちを支える裏で、西シェフは震災と向き合っていた。

【インタビュー】西芳照シェフと3.11。日本代表専属シェフが体験した東日本大震災—前編—
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インタビュー後編は日本代表選手が西シェフにかけた言葉、福島に残り続ける理由を尋ねた。

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