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百貨店から追い出され「お徳用」を量産…「クッキーといえば泉屋」の知られざる栄光と転落

  • 2025.3.8

14種類のクッキーが詰まった紺白の缶箱。「東京土産」の代名詞にもなったクッキーの老舗「泉屋東京店」は今、女性社長が率いている。4代目である泉由紀子さんは「父である先代の社長は、なかなかのワンマン。職場での意見の相違が、すぐ“親子ゲンカ”になってしまった」という――。

曾祖母の手づくりクッキーで創業する

「社長職の引き継ぎは突然でした」

泉屋東京店社長の泉由紀子さんは、そう言って7年前の事業承継を振り返った。

2018(平成30)年、先代社長・泉邦夫氏の急逝によって、あれよあれよという間に4代目の社長となった由紀子さん。父である邦夫氏はじつに30年間にわたり、「クッキーの泉屋」を率いていたという。

もともと泉屋の創業者は、由紀子さんの曾祖母にあたる泉園子そのこ氏。幼少の頃より京都で育った園子氏は結婚し、和歌山に移住。そこで宣教師夫人からクッキーづくりを学び、京都に移り住んでから自分でもクッキーをつくり始めた。

当時は、戦時中で美味しい食べ物もない。だが、たまたま夫の伊助いすけ氏が貿易商をしていたため、小麦や砂糖、バターが手に入りやすい環境だった。まだまだ日本ではオーブンなど珍しい時代に、夫に怒られることを覚悟しながら内緒でオーブンを発注。夫が知らないままオーブンが日本へ届くと、夫は怒るどころか園子氏の行動力や意欲を褒め、クッキーづくりに協力していった。ほどなく手づくりのクッキーを「母の味」として子どもたちに食べさせながら、近所にも配るようになったという。そのうち「買うからもっとつくってほしい」という人が現れ、泉屋の看板を掲げるまでになる。

泉家の手で受け継がれた「クッキーは泉屋」

初代社長は、園子夫婦の間に生まれた子ども9人のうち、次男の英男ひでお氏。由紀子さんの祖父にあたる。英男氏は千代田区麹町に泉屋東京店を設立、そこから菓子製造業として泉屋を広く展開しつつも50代で他界、妻の薫子かおるこ氏が2代目社長となる。

薫子夫婦の子どもは一人だけ。由紀子さんの母親の知子氏だ。知子氏が23歳になった時に、泉家は跡継ぎに由紀子さんの父である邦夫氏を娘婿として迎えた。そして邦夫氏が3代目社長として会社を率いたが、7年前の急逝により由紀子さんが跡を継ぎ、今日に至る。

「クッキーと言えば泉屋」はまさにこうして、泉家の手により焼き継がれてきたのである。

泉由紀子さんが入社したのは、20代前半だった。「他の会社で働くぐらいなら、うちに来い」と言う社長である父に従い、最初は秘書室に入った。

「自然のなりゆきでした。泉屋はオーナー企業で、創業当時からずっと従業員さんとは家族同様に接していたので、私が入社した時も『長女が来たぞ』というかしこまった雰囲気はありませんでした」

泉屋東京店社長の泉由紀子さん
「泉屋東京店」伝統の紺白缶を持つ4代目社長・泉由紀子さん。左手の缶は1950年代のもの
入社当時から言われた「次の社長はお前だぞ」

ただし、邦夫社長は取引先の面々を呼んで由紀子さんを紹介する場を設けたという。「お披露目のようなもの」と由紀子さんは苦笑した。

「父はそういうことが好きでした。娘の目から見ても、派手好きで。身体は一つなのに、いったい何着服があるの?という感じでしたから。でも20代の私からすれば、威厳たっぷりのおじさまたちがずらりと並んだ面前であいさつしなければならず、苦い記憶しかありません(笑)。まだまだ世間知らずでしたから、正直、息苦しさを感じながらの日々でした。ただ秘書業務はどれもこれも楽しくて、手紙を書いたり、資料を作ったり。自分の性分に合っていたんでしょうね」

「次の社長はお前だぞ」。入社当時から、父親にしょっちゅうそう言われていたらしい。しかし経営については全く教えてくれず、教わることといえば、あいさつや身だしなみ、そして言葉遣いなど人としての基本中のキホンばかりだった。

意見の相違が“親子ゲンカ”になってしまう

「父からは『人の見た目は中身が映る。だから、見た目をきちんとすれば、中身も自ずと付いてくる』と言われていました。例えば、だらしない性格だと服装や髪型がだらしなくなる。逆もまた然りで、だらしない格好をしていれば、いつしか性格もそうなってしまうと。当時はうるさい父親だと思うだけで、なかなか素直に聞けませんでしたが」

職場での意見の相違がすぐ“親子ゲンカ”になってしまうんです――。そう回想する由紀子さんは、「先代は、なかなかのワンマン経営だった」と笑う。

「『俺はこうじゃないと嫌だ』というタイプ。とはいえ、父はもともと泉の家系の人間ではありません。みな家族同然のように働いている泉屋の人々の中に、『娘婿』として外から入ってきて社長を務めなければいけなかった。それはそれで大変だったと思います。自分よりも年上で、泉屋一筋のような役員も親戚もいっぱいいましたからね。どこか『我を貫き通す』ところがないと、社長職はできなかったんじゃないかと。今では父の苦労がわかります」

「先代は、なかなかのワンマン経営でした」と笑う泉社長
「先代は、なかなかのワンマン経営でした」と笑う泉社長
ボーナスは年に3度の高度経済成長期

話はさかのぼる。クッキーの泉屋が店舗を拡大していく契機となったのは、1951(昭和26)年に進出した渋谷の東横百貨店のれん街への出店だった。洋菓子はまだとても目新しく、地方から上京した人は、必ず泉屋のクッキーを贈答品として買って帰る。「クッキーと言えば泉屋」という言葉はここから生まれてくる。

業績は拡大していく一方だった。1964(昭和39)年に川崎市に工場を建設し、生産体制を整えた。全国各地の百貨店や名店街に出店し、従業員は300~400名に。売り上げも10億から20億円、20億から30億円と伸び続け、ボーナスは年に3回だった時期も長い。誰もが認める優良企業である。

1970年代以降、祖母が社長に就任した頃は、さまざまな競合他社が現れたが、それでもまだ泉屋は百貨店の一等地、いわゆる柱回りを占めていた。1980年代以降、日本経済の成長期には食品業界全体が拡大し、業績を上げていく中、泉屋もプラスアルファで喫茶店を出したり、ソフトクッキーやパウンドケーキをつくったりと順調な経営だった。

麹町本店喫茶室のケーキ(1970年代のメニュー再現)
麹町本店喫茶室のケーキ(1970年代のメニュー再現)

「しかし社史を見る限り、あれだけの時代変動に見合うような変化が見当たらない」と、由紀子さんは言う。「『クッキーと言えば泉屋』の自負が足かせになったのかもしれません。商品の需要も中元歳暮の贈答が主軸だったので、繁忙期は夏と冬、それだけやっていればいいという風潮が社内にはありました」。

利益を生まない商品をどんどんつくっていた

「父が泉屋の社長になったのは、1988(昭和63)年のこと。ですから1990年代からの時流に即した経営方針はたとえあったとしても、あくまで父の頭の中でだけ(笑)。社内でそれをオープンにしなかったため、会社は旧態依然のままでした」

世の中には、新しい形態の洋菓子店が続々と現れる。泉屋は百貨店から“ところてん式”に追い出され、売り上げは下降していった。すると、どうなるか。「売り上げ重視」に社は舵を切り、いわば値下げ品である「お徳用」や「半額もの」を展開していくようになる。

「サービス品は一時は売れますが、持続的な利益になるかといえばそうではない。いわば利益を生まない商品をどんどんつくっていたわけです。その結果、決算書も赤字が続いていく。社員にボーナスは支払われないし、もう誰の目から見てもお金に困っているのがわかる。いわゆる経営難に陥っていたわけです」

その反面、2017(平成29)年には「泉屋創業90周年記念品」のクッキーや焼き菓子を詰め合わせた「ファミリーアソート」などを発表し、邦夫社長は老舗の華やかさを世間の目にも焼きつけた。由紀子さんは言う。「それが泉邦夫という泉屋3代目の社長です」。

その翌年、麹町本社で邦夫氏が倒れ、社長室に二度と帰ってこない事態になるとは、誰もが予想しなかった。

(泉由紀子社長のリベンジ〈後編〉へつづく)

池田 純子(いけだ・じゅんこ)
フリーライター
ライター・編集者として、暮らしや生き方、教育、ビジネスなどにまつわる雑誌記事の執筆や書籍制作に携わる。新しい生き方のヒントが見つかるインタビューサイト「いま&ひと」主宰。

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