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ジバンシィ新章の幕開け。サラ・バートンがデビューコレクションにかける想い

  • 2025.3.6

サラ・バートンジバンシィGIVENCHY)でのデビューまで丸1カ月を切った1月下旬。パリのジョルジュ・サンク通りにあるメゾンのアトリエの壁一面には、2025-26年秋冬コレクションのトライアルルックが仮の順序で入念に並べられていた。

バートンがクリエイティブ・ディレクターに就任したのは今から半年前の2024年9月。しかし、彼女はこれよりもずっと長い間、準備に時間をかけてきたと言ってもいいだろう。アレキサンダー・マックイーンALEXANDER McQUEEN)で創設者のアシスタントとしてそのキャリアをスタートさせた彼女は、リー・マックイーンがジバンシィに在籍していた1997年頃、ロンドンからパリへショーピースの運搬を任されたこともあった。

彼女はまたしてもリーの後を継ぐことになったわけだが、2023年にマックイーンでの26年間に終止符を打つまでに、彼女はとても愛され、尊敬される存在となっていた。彼女の退任は業界全体の反発を招き、トップメゾンから女性クリエイティブ・ディレクターがいなくなったことを誰もが嘆いた。

昨今のデザイナー採用では、経験が重要視される流れが唐突に進んでいる。バートンと同世代である50代のアレッサンドロ・ミケーレピーター・コッピングはそれぞれヴァレンティノVALENTINO)とランバンLANVIN)のトップに任命され、これまでの気鋭デザイナーや右腕デザイナーがその座を得るという潮流を変えた。また、同じくX世代のデザイナーであるハイダー・アッカーマンも数日前にトム フォードTOM FORD)でのデビューを飾っている。

バートンの視点に立って言えば、ジバンシィでの仕事はトップ中のトップに値するものだ。「私がデザインするものには、常にドレスとテーラードという要素があります。このメゾンのDNAに、その両方があるのがとても好きです。(自分が仕事をするのに)素晴らしい場所だと感じました」とバートンは言う。それが事実だとしても、マシュー・M・ウィリアムズとクレア・ワイト・ケラーの在任期間を経て、メゾンのDNAがやや混濁しているときに彼女の就任は決まった。ジバンシィの過去6年間は、限られたディレクションしかない、長い探求期間だったと言える。

1952年、ユベール・ド・ジバンシィの最初のショーは、アルフレッド・ド・ヴィニー通りにある邸宅で開催された。
Givenchy Show1952年、ユベール・ド・ジバンシィの最初のショーは、アルフレッド・ド・ヴィニー通りにある邸宅で開催された。

そこでバートンは、1952年にユベール・ド・ジバンシィが手がけた最初のショーまで遡ることにした。アルフレッド・ド・ヴィニー通りにある邸宅で開かれ、当時のジャーナリストが「Cathédrale(大聖堂)」と命名したデビューコレクションのモノクロ写真を目にした彼女は、ジバンシィの25歳という若さに加え、クチュリエとモデルたち(そのひとり、ベッティーナ・グラツィアーニは彼のプレスオフィスでも働いていた)との明らかな親密さに感銘を受けた。なかでも彼女が本当に驚いたのは、そのコレクションがとてもグラフィックだったことだという。「無駄が削ぎ落とされていて、シンプルでした。私が考えるジバンシィの核は、シルエットにあるのです」

偶然にも、邸宅の改装中にファーストコレクションのアーカイブパターンが入った袋が壁のなかから発見された。「まるで贈り物のようでした」とバートン。彼女はそのうちのひとつを、日当たりのいいオフィスのテーブルの上に飾っている。その向かいにはエッフェル塔がのぞく大きな窓があり、それはパリジェンヌにとっては見慣れた景色かもしれないが、それでも訪れる人の目を引く。しかし、この古いパターンの宝とランウェイで目にするものとの間に直接の関係はないようだ。「まだ使っていません。遡ることも必要ですが、前へ進むことも必要だと思っています。それでも、(パターンが)ここにあるというのがすてき。なんだか魔法みたいじゃないですか」。このパターンは、現在修復中だそうだ。

新コレクションのプレビュー。
新コレクションのプレビュー。

オードリー・ヘプバーンや『ティファニーで朝食を』との結びつきで有名なジバンシィだが、このパターンを見つけたことで、バートンは彼がフリルやリボン、レースからデザインを始めたのではないと知ることができた。「とてもクリーンかつピュアで、ベーシックというわけではありませんが、明らかに戦後という感じがしました。そこには、ある種のシンプルさがあります」

ジバンシィにとってヘップバーンの存在は大きかったが、バートンには彼女がデザインしたパンツスーツをユニフォームのように着ているケイト・ブランシェットルーニー・マーラ、そして彼女の長年のスタイリストであるカミラ・ニッカーソンがいる。肩、ウエスト、パンツの形、縫い目に至るまで、“バートンのジバンシィ”を特徴づけるカッティングを見つけることは、着任してからの最優先事項だった。正式な着任までの間、彼女はロンドンに小さなアトリエを借り、そこでスケッチをし、縫製をし、「なぜ最初にそれをやったのかを理解するため」に立ち返った。ここジバンシィでも、彼女はまずスケッチをし、その後アトリエに移ってチームと一緒にデザインをしていく。

そんなバートンが作るブラックのタキシードジャケットには、しなやかさと力強さが宿されており、その大きく丸みを帯びたショルダーに強調されたアワーグラスライン、ねじれた袖の縫い目などには、どこか彼女のパーソナリティに通じるところがある。「袖をカーブさせてカットし、プレスすることで、とてもフェミニンなフォルムを作り出しています。私はこれを、“クチュールのシーム”と呼んでいます」とバートン。ジャケットはウィメンズのパタンナーが仕立てたものだが、メンズウェアの構造を参考にしていると付け加える。「プレスの仕方など、メンズの仕立てはウィメンズのそれとはかなり異なるのですが、私は両方の要素を取り入れるというアイデアが好きです」

バートンは今回、縫い目や裾のほつれをそのまま生かし、いくつかのジャケットを裏返しにしてデザインしている。「多くの場合、人々は写真でどう見えるかを気にします。私は、女性が着たときにどう見えるか、彼女がどう感じるかを考えます。どのようにプロポーションを整えれば、十分にグラフィカルに見せることができるか。それを着る女性が服に圧倒されないか......。あくまで、着ているその“人”が感じられるようにしています」

テーラードピースとは対照的に、ドレスは重力に逆らうかのように軽やかに作られており、ストラップレスのふんわりとしたチュールドレスや、装飾のない「超スーパーミニ」ドレスが登場する。バートンはリトル・ブラック・ドレスを指して、「これはジバンシィを象徴するアイテム」とするが、「リトル・ブラック・ドレスになる前のスケルトン」と表現したほうがいいかもしれないと続ける。エル・ファニング第97回アカデミー賞で着用した白いレースのコルセット付きカスタムガウンは、バートンのオートクチュールのプレビューであり、2026年までランウェイで披露されることはないだろう。だが、レッドカーペットでの装いに求められるように、はるかに構築的でフォーマルであることは確かだ。一方で、ティモシー・シャラメが纏ったイエローのレザーセットアップにシルクのシャツを合わせたスタイリングは、この夜のメンズルックのなかでもリラックスしたものだった。

1月のアトリエの訪問中、そしてショーの4日前に行われたプレビューでも、バートンは積極的に実務を行うデザイナーとしての評判をものにしているようだった。例えば、例のミニドレスのひとつをチェックするときも、彼女は「まちは正しい位置にあるのか、それとももっと丸くする必要があるのか」「どんなチュールを使ったのか、もっと軽くできないか」「ポケットを付ければ、また違った雰囲気になるか」などと考えを巡らせている。「私はこういうディテールに関して几帳面だと思います」と彼女自身も認めるほど。

一見すると完璧に映る作品を見せながら、彼女は 「まだ未完成なんです 」と繰り返す。一着につき、最低3回はフィッティングをするのが彼女の習慣だ。「今から金曜日までに150着のフィッティングをすることになります」。こう話す彼女から、一切の不安は感じられない。「これが楽しいところ」と彼女は言い、壁に隠された袋から出てきたような「古くなったり、少し壊れたり」した刺繍の見本を黒いシルクドレスの首のリボンにピンで留める。「マックイーンはとても小さなブランドだったから、自分でパターンを作らなければならなかったんです。プリンス・オブ・ウェールズのバイアスカットのスカートに、リーがコンシールファスナーを付けていたときのことを覚えています。リーのミシンの腕はすごかったけど、その生地は1メートルしかなかったから、ミスは許されなかったんですよ」とバートン。もちろん、彼は失敗しなかった。「私はそうやって、(リーから)縫製やパターンカットを学んだのです」

では、業界人の多くが今でも覚えているマックイーンの作品と、1995年に引退したユベール・ド・ジバンシィの作品を再解釈するのとでは、自由度が変わってくるのだろうか? こう問うと、バートンは「最初のショーにはプレッシャーがありますが、それはどこに行っても同じです」と答える。「自分の好きなこと、得意なことはわかっています。リーのもとでこのことを学び、それを心に留めてきました。自分のストーリーを語らなければならないから」

なぜトップメゾンを率いる女性デザイナーがこんなにも少ないのかという問いに対しては、パーソナルな話を聞かせてくれた。「私の父は戦争中に育ちました。彼の父は6年間ほど家にいなかったので、彼は母や祖母など、女性たちに育てられたんです。だから彼は、世界を制するのは女性だと信じていました。私自身、女家長制的な環境で育ったので、それが問題だと思ったことは一度もありませんし、自分にも(男性と)同じような機会を与えられると思ってきました。私には3人の娘がいますし、女性には何でもできるという考えが大切だと思います。私は心からそう信じています」

ウィリアムズがジバンシィで最後に行ったプレタポルテのショーは、エコール・ミリテールの広大な敷地に張られたテントの下で行われた。バートンのショーはというと、メゾンの拠点であるジョルジュ・サンク通りで開催され、招待客はわずか300人と、1952年のモノクロ写真を想起させる親密感がある。バートンはフロントロウとランウェイを歩くモデルたちとの距離感について、「ハンドバッグに引っかけることなく、どれだけ近づけるか 」だと言う。

バートンは、ショーの演出からパンツの後ろウエストバンドの調整に至るまでをヒューマンスケールで考え、仕事をするデザイナーだ。「私は時々繊細すぎるかもしれませんが、誰かに服を着せるときは、その人に心地いいと感じてもらいたいんです。私が服を着せる女性たち、そして服を買ってくれる人や着てくれる人と言葉を交わすのが大好きです。素晴らしい贈り物のよう。写真でどう見えるかを気にすることもいいですが、それだけではないんです。その服を身に纏い、生き、呼吸をしてほしいのです」

Text: Nicole Phelps Adaptation: Motoko Fujita

From VOGUE.COM

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