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「こんな味、はじめて」警察に怒られるほど行列する老舗あられ屋の名物女将が開発した"No.1人気のフレーバー"

  • 2025.3.4

「アラレちゃん」風の帽子とカツラをかぶり、コント仕立ての地元CMに登場する野田米菓(三重県津市)の代表取締役、野田恵子さん(65)は、あられの味に魅せられて創業1934年のあられ屋後継者・健一さんと結婚。次々と新製品を投入し、同社を人気あられメーカーに成長させた。フリーライターのみつはらまりこさんがリポートする――。(前編/全2回)

野田米菓 代表取締役の野田恵子さん
東京、大阪、奈良…県外からも買い物客が訪れる

2024年11月のとある平日午後。三重県津市の田畑と民家が入り交じった静かな場所に、突如として奈良ナンバーの観光バスが到着した。降りてきた50~60代の団体客、およそ15人が進む先は、野田米菓の直営店。店内に入る客からは、「こんな味のあられ、見たことない」と声が漏れる。その横で人をかき分けるように、大型トラックで乗り付けた作業着姿の男性がレジへ進む。「あられで一杯やるんが楽しみなんや」と満面の笑顔だ。

店内には、創業90年を誇る「田舎あられ」から「うなぎあられ」「津ぎょうざあられ」「薬膳あられ」「伊勢海老あられ」まで、約40種類のあられがひしめき合う。280グラムの大袋は直営店のみの販売で、80~100グラムは3つで1200円、30~40グラムは5つで1000円という、選ぶ楽しみとお得感も演出する品揃えだ。

「田舎あられが大好きで、いつもは三重県の友人に送ってもらっている」と話す、八王子から来た帰省客(筆者撮影)

取材の日、お客さんに話しかけてみたところ、八王子ナンバーの帰省客、大阪から訪れた夫婦、地元の常連客など。野田米菓には県境を越えてたくさんの人が集まっていることがわかった。筆者が滞在したわずか1時間で約40人の老若男女が訪れ、誰もがビニール袋いっぱいの商品を抱えて店を後にした。

野田米菓を率いるのは、代表取締役の野田恵子さん(65)。CMでは故・鳥山明さんの名作漫画『Dr.スランプ アラレちゃん』を彷彿させる帽子をかぶり、割烹着に身を包んで愛嬌たっぷりに登場する。

今、「あられを食べたい」と思ったときにあられ屋で購入する人はどのくらいいるだろう。正直に告白すれば、私はスーパーでしかあられを購入したことがない。野田米菓の想像を超える繁盛の秘密には、「やってみたい」という純粋な情熱と好奇心があった。

従業員や地元の経営者仲間からは、「恵子さん」「女将」と呼ばれている。野田米菓CM「家族だんらん編」の一コマ(YouTube「野田米菓チャンネル」より)
「あんた、めちゃくちゃ頑固やでな」

三重県久居市(現在・津市)で新聞屋を営む両親の一人娘として、恵子さんは生まれた。朝日が昇る前から働き始める両親の姿を見て育ち、家族旅行は小学生時代に一度きり。ただ、寂しさを感じることはなかった。

両親は忙しくても、恵子さんの様子や反応がいつもと違うと必ず声をかけてくれた。勉強を強要することはなく、「えぇ感じにほったらかしてくれたんです」と微笑みながら当時を振り返る。

中学時代、クラスは「ヤンキー風の子」と「真面目でおとなしい子」の2つの派閥に分かれた。しかし、恵子さんはどちらにも属さない独自の立ち位置を確立。困っている友人の相談相手となりながらも、決して敵味方に分かれることもなかった。

中学時代からの友人は今でもこう評する。「あんた、めちゃくちゃ頑固やでな。絶対こう思ったら揺るぎない」

自分の芯は曲げないが、他者への配慮は忘れない――。この姿勢は、後の経営者としての資質につながっていく。

結婚の決め手は「あられの味」

兵庫県の女子大を卒業後、恵子さんは地元に帰り、自宅から徒歩10分の司法書士事務所の事務員として10年を過ごす。「家から近いから」という単純な理由だった。「頃合いの歳でお見合いして、お婿さんでも来てもらえたらええな」と想像するものの、結婚願望はまったくなかった。

転機が訪れたのは、31歳の時。創業1934年のあられ屋、野田米菓の後継者を叔母から紹介された。後に夫になる、当時39歳の健一さんだ。

「40近い人とか、うそやん!」恵子さんは相手の年齢に驚いた。しかも、健一さんには5人の姉がおり、そのうち3人は当時家業を手伝っている状況。叔母以外の親戚からは「姉が5人もいる家に嫁がせたらあかん。苦労する」と反対される。

しかし「試しに一度会ってみよう」と思い立ち、健一さんの実家を訪れた。そして健一さんからあられをすすめられて口にした瞬間、恵子さんの人生は大きく動いた。

「今まで食べてきた、どのあられよりも美味しい……」

サクッとした食感。上品な味わい。半世紀以上の歴史が生み出した一品に心を奪われた。その後、店舗と工場を見学した時には迷いはなかった。

ここで美味しいあられを作る人生は楽しそう――。

「結婚の決め手は夫よりも、あられ屋をやってみたかったっていう興味が大きかったです」と、恵子さんは無邪気に笑う。

歴史ある店舗で、なおかつ夫の姉が3人も家業に携わる環境。一見すると重圧を感じるような状況だが、不思議と恵子さんの肩は軽かった。最年長の姉とは24歳差があり、まるで親子のような感覚だった。

こうして1991年、健一さんとの結婚、野田米菓への入社と同時に、義母・姉3人・夫との新生活がはじまった。バブル経済が崩壊を迎えようとする時期だが、会社の経営は順調だった。結婚から3カ月後にはパート従業員2名を迎え入れ、総勢8人で家業を切り盛りすることになる。

創業当初から販売されている「田舎あられしお味」
22年間、自分の時間はなかった

嫁いだ当初の野田米菓は、自宅前に会議机1つ分ほどの店舗と、恵子さん曰く「バラック小屋」のような2階建ての工場があるだけ。店番として始まった恵子さんの仕事は、いつしか製造にも及び、朝から晩まで店舗と工場を行き来する毎日になった。そこに3年後、娘の美保さんが生まれて生活は一層めまぐるしさを増していく。

店舗は21時まで開いていて、自宅が一体となっているため恵子さんのプライベートな時間など望むべくもない。家事の最中でも客の声が聞こえれば、即座に対応しなければならない。

美保さんが生まれてから数年は、製造業務のとき以外、何をするにも娘を背負っていた。睡眠時間はわずか3時間。まさに寝る間もない生活は、美保さんが中学生になるまで続いた。ちなみに、夫の健一さんは亭主関白で「ザ・昭和の男って感じ。お風呂から出た時、新しい下着とかバスタオルを置いていないと怒るような人です」と笑いながら言う。

なぜ、このような生活が続けられたのか。その問いは、実家での記憶にあった。「両親は、寝る時間も休みもない生活だった。そんな環境で育ったから、あの生活にも違和感がなくて」

自分の時間が持てるようになったのは、結婚して22年後のこと。それまでは家事と家業を回すため、自分のことはすべて後回しだった。

左奥が工場、中央が自宅、右手前が店舗となっていた
5年越しで開発した「ごぼう味」

野田米菓に嫁いだ時の商品数は、わずか6~7種類だった。田舎あられの塩・醤油味を看板に、サラダ味、海苔味、イカ味が並ぶ。しかし、恵子さんの入社を機に、新たな風が吹いた。

例えば、現在人気ナンバーワンの「ごぼう味」は、恵子さんのアイデアだ。同業者から夫が持ち帰ったあられとの出会いがきっかけだった。

国産のごぼうをふんだんに練りこみ、後味はピリ辛。袋をあければ香ばしいごぼうの香りが、鼻腔を心地よく刺激する。販売当初は苦戦を強いられたが、形状を変え、店舗での試作提供をきっかけに人気が出た。家事や育児に追われて一時は開発を諦めたものの、パート従業員が増えたのをきっかけに5年越しで完成させた渾身の一品だ。

ごぼうあられは、黒こしょうあられと同時期に発売した
パート従業員からも新商品のアイデア

また、姑と義姉たちという“身内”だけの環境の中で、パート従業員の存在は恵子さんにとって心強い仲間となっていった。

経営者側の立場ではあるものの、パート従業員と一緒に働く日々。そんな中、恵子さんの“作ってみたい”という情熱は、パート従業員にも火をつけた。「旅行で出会った味を再現したい」「この味とあの味掛け合わせたら」。主婦でもある女性ならではの視点から、次々とアイデアが飛び出すようになる。「食べることが好きな従業員が多く、味覚も厳しいんですよ」と、恵子さんは自信を持って語る。

パート従業員との絆は、仕事以外の場面でも深まっていった。恵子さんは従業員一人ひとりの誕生日に感謝の気持ちを込めてお菓子を贈るようになる。これは、現在も続く「全従業員へのクリスマスケーキのホールプレゼント」の始まりでもあった。

仕事は“決断する”以外のすべて

商品数が20種類を超えると、客層も大きく変化した。70代中心から40代へと広がり、会議机1つ分の店舗には商品もお客さんも収まらない。次第に自宅兼店舗の前には路上駐車の列ができるようになり、警察から注意される日々。「さすがに、これはあかんな。直営店新設しよかって」

偶然にも、自宅から徒歩5分の土地が売りに出され、2004年に現在の直売店をオープンさせた。約10台分の駐車スペースを備え、旧店舗と比べものにならない広々とした店内には新たに小袋の商品や進物用のセットを展開した。

2008年、野田米菓は、公益財団法人食流機構が主催する、第17回優良経営食料品小売店等部門で、全国で3社のみの栄誉となる農林水産大臣賞を受賞。これまで特に“賞”を重要視しておらず、物産振興会からの「申請してみませんか」という声に応えた結果だった。「お客さんに喜んでもらえるあられを地道に作っていければいい」。ただその一心で商売を続けてきた野田米菓のあられだけでなく、経営全体が評価された瞬間だった。

しかし、会社を支える恵子さんの仕事は際限なく増えていった。材料の仕入れ、業者との交渉、製造現場の管理、毎月の経理処理。「はじめは夫がしていましたけど、気づいたら全部任せられていました。夫の担当は、事業とお金の最終的な決断だけかな」

直営店新設により売り上げは順調に伸び、会社の経営も高く評価された。ただ、そうなると必然的に、工場が限界を迎えることになる。

2004年にオープンした直営店の、スタイリッシュな白色の外観。ロゴは、「誰がどのタイミングで作ったか知らない」と恵子さんは笑う
伝統の味を守るために製造を変える

旧工場は、2001年と2007年に場所を継ぎ足したり機械を入れ替えたりしたものの、作業場所が1階と2階に分かれていたり、物の移動が必要だったりして製造工程に無駄が多かった。

そこで生産効率を改善すべく、2014年には直営店の目の前に新工場を建てた。旧工場の約5倍の広さを持つ工場では、すべての工程を1階で完結させて分業できる設計で、生産量は倍になると予測していた。しかし、そこで新たな課題に直面する。

旧工場とは比べ物にならないほどの大きさの新工場
1週間をかけて完成する野田米菓のあられ

その前に、ここで野田米菓のあられの製造方法を説明しよう。

まずは、もち米を蒸して餅をつく。2日間冷蔵庫で寝かし、形を整えて3日間乾燥。仕上げに約300度の石窯での焼き上げる――。野田米菓のあられは、約1週間の時間をかけてようやく完成するのだ。合計5日間「待つ」時間こそが野田米菓のあられには欠かせない。

乾燥後の状態。その後、あられの製造ではめずらしい石のトンネル窯を使用して焼く(提供=野田米菓)

しかし、効率を優先して切れ目なく仕込み続けると、冷やす・乾燥の「待つ」工程が重なり、工場は回らなくなった。

生産量倍増を目指した当初の計画では、伝統の味と両立しない。増産して利益を追求するか、伝統の味を守るか。恵子さんは決断を迫られた結果、「1週間に1回の仕込み」という新たな製造サイクルに舵を切った。土日を「待つ」時間に充て、20名の従業員は「焼き」「味付け」など専門的な分業体制を築き上げた。

現在、1週間に1回の仕込みでは1020キロのもち米を蒸すことからはじまり、960キロのあられが生み出されている。生産量は倍には届かないが、従来の20%増で着地している。

「もっと効率的にできると思っていたけど、やってみてはじめてわかることでしたね」

サイクルを変えて伝統の味を守り抜き、新たなステージに向かうかに見えた矢先、誰も予想しない出来事が起こる。2015年8月、夫の健一さんが急逝した。

後編に続く

みつはら まりこ
フリーライター
1986年生まれ、香川県出身。大学卒業後、大手コーヒーチェーン店で6年、薬局事務8年の勤務を経て、2022年に独立。現在はインテリアデザイン・SDGs・社会福祉分野を中心に、オウンドメディア・PR記事・地方自治体の広報など幅広く執筆中。従来の常識や価値観をそっと解きほぐし、新しい生き方や心の豊かさに光を当てながら、誰かの小さな一歩となる記事を目指して取材を行う。

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