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「私は踊る、だからセクシー」。では、踊れない女はどうなのか?【連載・ヴォーグ ジャパンアーカイブ】

  • 2025.3.3
vogue_archives_march_2025.jpgPhotograph: Craig McDean Model: Daria Werbowy

踊る女は、女のリアル。巻頭のエディターズレターでは、編集長がそう断言する。この号が発売される4カ月前の2003年10月、アレキサンダー・マックイーンのショーでは初めから終わりまでモデルたちが踊り続ける演出が話題になったという。ページをめくれば、“踊る女は美しい革命家”という見出し。ダンサーたちが纏うドレスがひらひらと裾を舞わせて誌面を埋める。躍動感、自由、そして官能。鍛えられた肉体と華麗な衣装に心奪われる。衣装は踊り手の動きを妨げないよう作られるが、衣装が踊りを形作ることもある。もしも着物の裾の前が縫い合わされていたら、芸妓の踊りは違うものになっていたかもしれない。日本舞踊の女性の動きには、足の動きが制限されるからこそ生まれた所作の美しさがある。私は片足立ちで踊るバレリーナのチュチュに憧れて、3歳のとき に団地のバレエ教室の戸を叩いた。でもお姉さんたちみたいな素敵な衣装は着せてもらえず、与えられたのはぼんやりしたピンク色のレオタード。鏡に映る自分の姿は、茹でタラコかミニウインナーみたいだった。それでバレエをやめた。3歳で。自分自身の視線に耐えられなかった。人目がある限り、私は踊れない。だからつぶやいてみる。「踊れない女も、女のリアル」と。

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見る者たちがいなかったら、ファッションアートはもっと違ったものになっただろう。眼差しとの応酬が人を美しく装わせ、表現の衝動を洗練させる。見る者と見られる者との間には、いつも力のやり取りが発生している。その最も苛烈な現場がランウェイであり、舞台である。そこに上がる人々は観衆の視線の暴力(欲望と共にまなざすことは、たとえそれが賞賛だとしても一種の暴力だと言えよう)を浴びながら、浴びたエネルギーを自らの輝きに変えて放つことができる特別な者たちだ。だから誌面にもあるように、人は“踊る女”に憧れ、魅せられるのだろう。でも、踊りはヒトの素朴な本能でもある。きっと人類は、言葉を持つ前から踊っていたはずだ。まだ歩くのもおぼつかない小さな子どもも、音楽に合わせて体を揺らしたり飛び跳ねたりする。いや私だって、誰もいない自室では家事をしながら踊っているのだ! 眼差しのないところにしか生まれない踊りだってある。起源に照らせば、照明の下のダンスよりも純度が高いかもしれない。デタラメでも不恰好でも構わない。人には踊りたいときがあるのだ。

踊れない女のリアルは、誰もが他人の目に晒される社会のリアルだ。誌面に登場する“踊る女”たちのような凹凸のある胴体と均整のとれた骨格を持たない者や、筋肉や関節を自在に動かして素早く動くことができない者にとっては、この世は過酷である。美麗な身体を持ち、華麗に動くことができる者が讃えられ、そうでない者は(いやたとえそうであっても)、ただ呼吸して時間を重ねただけで“劣化”とけなされることすらあるのだから。そんな残忍な社会では、己の肉体への嫌悪感を抱きやすい。市場に流通する“女らしさ、男らしさ”に見合わない身体を持って生まれた自分を愛することができずに、我が身を扱いかねている人は少なくないだろう。ライブ会場の映像で、みんなが踊っている中でひとり棒立ちの人を見つけると、勝手に「わかるよ!」と言いたくなる。あなたも本当は踊りたい、心の中では踊っているはずだけど、体が強張ってしまうんだよねと。誰も他人のことなんて気にしていなくても、自分の視線が自分を縛ってしまうのだ。3歳の私は、鏡が大嫌いだった。 バレエ教室の大きな鏡の中に、への字口のお腹の突き出たピンクの茹でタラコを見てしまった。でもその子の眼差しは、本当は誰の眼差しだったのだろう。

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K-POPアイドルの訓練所の映像でもおなじみだが、踊り手たちは1日何時間も巨大な鏡の前で己の身体を厳しく見つめなければ、上達は見込めない。でも、かつて鏡は滅多に手に入らないものだった。多くの人は自分の容姿を仔細に眺める機会なんてないのが普通だったのだ。自己イメージは他人によって作られるものだった。自分がどんな容姿かは詳しくわからないけど、他人が美しいと言えば美しいと信じ、醜いと言われればそうなのだと思うほかない。

庶民に鏡が普及するまで、自分の顔を自分のものにできるのは、貴族などごく一部だけだった。高貴な身分の一部の者が滅多に人に顔を見せなかったのは、他人に自分の顔を好きにさせないためだ。「見せない」のもまた、特権である。身の回りに鏡があふれ、自撮り画像の加工も可能な現在、私たちは自己イメージを自在にコントロールできるようになった。万人がSNSで人前に出て、賞賛してくれる観客を欲している。もはや異常なほどの自己像への執着が人々の日常になっている。みんな、自身の眼差しにさらされ続けているのだ。

だからこそ誰にも見られない踊りの時間が必要なんじゃないかと、人前で踊れない女は思うのである。

Photos: Shinsuke Kojima(magazine) Text: Keiko Kojima Editor: Gen Arai

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